情報公開とイノベーションのジレンマ

世論はきっと、みんなが「おしゃべりな正直者」になることを 望んでいて、それは今の技術で十分に可能。

ウソをつけない世の中では、「情報を持っていること」の価値が地に落ちる。 組織の意味が薄れていって、個人の「性能差」が、そのまま発言力の差となって効いてくる。

医療従事者もみんなウソをつけなくなる。最初のうちは、それを歓迎する声が 大勢を占めるだろうけれど、その影できっと、議論ばっかりの病院を見限って、 アガリスクの小壜に手を伸ばす人達が増える。

対称性の破れが力を生んだ

小さなコミュニティでは、最初はきっと公平だった。

誰かが知れば、知識はすぐにみんなに伝わる。コミュニティの中での役割分担は、 個人の資質が決める。先を読むのが得意な人はリーダー。足の速い人。 絵を書くのが上手い人。それぞれ役割を見出して。

コミュニティが大きくなって、情報の流通に時間がかかるようになったとき、 情報は価値をもった。噂話の経済圏では、格差は増幅される。知る人はますます知るようになり、 知らない人は必要なことすら知らされない。

情報が不公平なら、個人の資質は発揮できない。 格差が増して、所属する場所の価値が個人の資質を上回るようになったとき、 情報化時代がはじまった。

情報のコモディティ化と個人の復権

「知っている」ことは武器だった。

政治家やマスコミ、あるいは医師なんかがこれだけ長いこと 「力ある者」としてやってこれたのは、「普通の人」と「中の人」、両者の持っている 情報量に圧倒的な差があったから。「全部」のうちどの部分を伝えて、どの部分を 隠すのか。情報の所有者がそれを操作できるなら、説得なんて楽勝だった。

状況を変えたのは、録音や録画メディアの発達と、ネットを介した情報共有と。

録音の時代。ログを取られる時代。いろんな立場の「普通の人」が、 日本中で「中の人」から話を聞く。録音する。ネットで公開して、共有する。 みんなが「一部」を持ち寄って、相手が持っている「全部」を推定する。

「生意気な患者」が増えた。過大なサービスが要求されて、医療は単なる客商売になった。 「素直」だった患者さんが「生意気に」なった原動力というのは、マスコミのネガティブキャンペーン のせいなんかじゃない。みんなが自分の体験を共有するようになって、「情報の価値」がいつのまにか 無くなってしまったからだと思う。

情報は共有されるものへと戻って、組織の力は弱まって。属性の時代から 固有名詞の時代へ。ある意味原点回帰。

ウソがつけなくなって出来なくなること

病院に来る誰もがレコーダー持参。そんな時代はすぐそこ。 考えかたを変えれば、そんなに悪い話じゃないと思う。

  • リスクを伴う検査の説明であったり、あるいは手術の説明なんかであれば、 会話を録音して、それを医師と患者とで共有できると、話が非常に簡単になる
  • 「言った、言わない」の争いに対する抑止力的な効果が期待できるから、 救急外来なんかでレコーダーを回しっぱなしにしておいて、「世論の要請で、 当院でも24時間外来の会話を録音しています」なんて貼りだせれば、 夜中に不当な罵声を浴びせる患者さんも減るだろう

入院が長くなった高齢者を退院させる話なんかだと、 録音されるのはけっこう怖い。

何が違うのかといえば、会話に「ウソ」が入っていたかどうかの違い。

検査や手術。医師と患者とは運命共同体。患者さん騙して手術したら犯罪だし、 保身のためにも、正しいことを伝えたい。たくさん話すとカルテに記載するのが 面倒だから、録音制度はむしろありがたい。

高齢者。「よくなる」人なんて本当に少なくて、入院を繰り返すたびに体の機能は 少しづつ落ちていく。こんな人を家に返すには、「入院を続けたら感染拾いますよ」とか、 「リハビリ病棟でリハビリしましょう」とか。ウソはついていないけれど、 情報全部は伝えていない。

隠さないしゃべりかた

高齢者に退院してもらうとか、老健施設に移すとか。

昔なら「こうするのがあなたにとって得になりますよ」みたいな 言いかたをしていたものだったけれど、最近は止めた。やっぱりウソだから。

「このほうが主治医の利益になるので、病棟を移ってください」

最近はこんなかんじ。患者さんに動いてもらうことで、結局誰が「得」をするのか。 それはほとんどの場合「目の前の主治医」。隠さないことにした。

案外大丈夫。

隠せない時代。利益の受け手を、たとえば「国の保健医療政策で…」とか、「恨むなら小泉元首相を…」 なんてやっても、説得力がない。統計も同じ。国が何をしようと、統計がどう言おうと、 方針を決めるのは、やっぱり目の前の主治医。

全て隠さないやりかたで説得を試みるとき、ものをいうのは情報を解釈する力。

「私はこう思います」

リスク高いけれど、これが言えない人は、結局信用されなくて、たぶんトラブルになる。 情報を共有した上での議論は、解釈のぶつかりあい。 こちらの解釈のほうが「面白かった」なら、説得は成功する。

きっと議論のやりかたは変化する。

  • 自分の弱さと限界とを強調する人が増えるだろう
  • 議論は個人と個人のやりとりになる。国のせいにしたり、統計を神様にする説得のやりかたは無力化する
  • 情報を共有した上で、「最終的に、あなたはどう考えるんですか?」と必ず聞かれるようになる
  • 自分の選んだ選択以外にも、多様な選択肢を示すことが要求される。企画力大切

イノベーションアガリスクの帰還

情報が欲しい人達はたくさんいて、それを支える技術も十分安価になって。

公開するなら全員に公開しないと不公平だから、情報公開の流れはきっと来て、 それが止まることはないはず。

きっと最初は歓迎される。公開に積極的な医師の元には患者が集まり、 どの病院でもレコーダーを用意するようになったり、診察券をストレージ化 する施設なんかが当たり前になったりして。

その一方で、声は小さいけれど、「昔の病院」を求める人も、きっとたくさんでてくるはず。

議論は疲れる。負けるのはもっと疲れる。病気になったから病院にいったのに、 初対面の医師から「医療の限界について」なんて講義を受けて、 「それでも私の考えが気に入っていただけたなら、この薬を飲んでください」なんて。 「飲んだら負け」そんな思いをする患者さんが出てくるかもしれない。

進歩を望む人と、現状維持で満足している人と。 世の中は、要求度の高い、声の大きな人が引っ張るけれど、全ての人がそれを歓迎するわけ ではなくて、そんな「進歩」を快く思わない人も、きっとまた多くて。

情報公開の流れはきっと来るけれど、患者さん一人がもたらす利益は、 「進歩」側も「維持」側も、どちらもそんなに変わらないはず。で、人数はたぶん、 圧倒的に「維持」側のほうが多い。

医療は進歩するのが宿命。「進歩」したとき、その後に残った巨大な利権は、 案外アガリスク売ってた人達が総取りしたり、「自然治癒力」なんて 思想を唱える自由診療の先生がたが、これから大流行したりするかもしれない。

アガリスクに走る人達を「こちら側」に引っ張り込むのは、議論の腕前や 医療の技術、統計的な「正しさ」なんかじゃなくて、 会話のやりかたとかプレゼンテーションの方法、あるいは「感じのよさ」みたいな、 そんな技術。

技術はもちろん大切だけれど、お客さんを連れてくる医者は、もっと大切。 個人の技量が試される情報公開時代、ディベートの技術なんて 案外何の役にも立たなくて、結局役に立つのは、昔ながらの泥臭いコミュニケーションの技術 になるんじゃないかと思う。