ロングテールは相似

分配されるのは給料であったり、売上げであったり。あるいは、医療も。

  • ほとんどの人が必要としている
  • 総量に限りがある

この2つを満たすものは、基本的に分配の問題から逃れられない。

べき乗則の話

べき乗則は「一人勝ち」の法則。世の中の様々なものが、この法則によって分配される。

社会的な地位や会社の大きさ、あるいは病気の重症度なんかで、人間には順位がつけられる。 分配は、この順位に応じて行われる。

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「1位の人がある量をとったとき、2位は1位の半分、3位は1/3…」みたいに、 順位が下がれば分け前は減っていく。これは一種の指数関数になる。

パレートの法則、あるいは20:80の法則などと呼ばれているもの。上位20%が総量の80%を受け取って、 残りの80%はわずかに残った物をうばいあう構図。この「下位80%」の人達をロングテールなんて 定義するのが、最近の流行。

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「指数」が増して、分配が厳しくなれば、2位の人は半分どころか1/4、 3位は1/9…みたいに分け前はどんどん減っていく。ネット世界の分配曲線は、 競争の勝者が全てをとる。極端な形。

公平な分配とはなんなのか

政治が荒れている。弱者に多くを分配して福祉を充実していくのか、 強者に多くを分配することで、国家全体を活性化していくのか。

残念ながら、原始共産制にでもしないかぎり、完全な公平分配なんてありえない。

政治の世界で言うところの「公平」と「不公平」というのは、 べき乗則グラフの「指数」を小さくするか、大きくするのかの 違いにしか過ぎない。

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「公平」と「不公平」との争いというのは、上位20%の人達の争い。全体の8割を占めるパイを、 上位層と中位層とが奪いあう構図。下位80%、「ロングテール」は、グラフがどう動こうと、 分配される量はほとんど変わらない。

べき乗側を支配する基本的法則、上位20%が総和の80%を取る構図というのは、 たとえ「公平な」分配が実現したところで、ほとんど変わらない。

「公平」分配は、それどころかロングテール部分にさらなる出費を要求するかもしれない。

「民衆のための政府」を実現したフランス革命の真っ只中、革命政府が最初に民衆に要求したのは、 更なる重税と、若い働き手の徴兵だった。これに反発した農民一揆がヴァンデ戦争。 民衆のために立ち上がった革命政府は、革命に反対した農民30万人を皆殺しにしたのだそうだ。

公平だとか、不公平だとか、指数関数のカーブをどういじったところで、 下位80%にとっては、どっちに転んだところで同じこと。

ロングテール」は、社会的な地位が真ん中で、生まれも育ちも普通で、 病気もしないで働いて、補助がいらない程度には収入がある、そんな人たち。 特徴がないから、どんな競争ルールでもいつも真ん中。上位20%には入れない。

民主党マニフェストが異様に空しく響くのは、たぶんみんな「変われない」ことが 分かっているからなんだと思う。

上から見降ろす人達

サヨク」の人達とか、あるいは正義を愛好するマスコミの人達なんかに 共通する胡散臭さというのは、たぶん「勉強している人に対する全肯定」を迫るところにある。

分配曲線に変更を加えようと考える人というのは、政治家とか、労働組合の上の人とか、 いずれにしても「上」の人。その人を支持して、曲線はあるいは変わるのかもしれないけれど、 それが変化したところで、「ロングテール」層には何の変化もないことぐらい分かってる。

いろんな立場の人たちが政策を提言して、知識人とかマスコミの人たちなんかが 支持を表明して。

みんなよく「似て」いる。

「あの人たち」が何をやっても、ロングテールには何の関係もなくて、 「あの人たち」が一生懸命、まじめな提言をすればするほど支持は落ちて、 胡散臭さだけ増大して。

勝つのはいつも、そんな誰とも「違う」人。

違いの中に同じを見出す

特定の民族とか集団なんかを「共通の敵」に認定して攻撃する、民族主義の人達のやりかたは、 いろんな国で多くの支持を集めている。

民族主義の人達は、「我々は同じ思いを共有しているよね」 という感覚を用いて人をまとめる。

政策の話、べき乗則の傾きを決める話は、上位20%の人達にとっては、死活問題。 だから必死になって曲線を自分に有利な形に変更しようとするけれど、 しょせんは「自分と似ていない人たち」の争い。他人事。

ロングテールの人達は、曲線がどう変わろうと、「ほとんど何も受け取れない」という点では一緒。 「よく似ている」。その相似性こそが、ロングテール層の大きな力になる。

支持を得るために

僻地病院に片道切符で飛ばされていたときは、時間はあったけれど 未来は見えなかった。

ここで何もしないでいたら駄目になる。そんな焦りばっかりつのったけれど、 勉強に没頭するほど勤勉でもなし。結局やったことは、今のホームページ。

今思えば馬鹿な話。

無人島に流されたとき、生き延びようと思ったならば、流木を集めていかだを作るとか、 それを燃やして煙を上げるとか、やりかたはいくらでもあったはず。

自分がその時やったことというのは、そこらに転がってる瓶を集めて、 毎日海に向かって手紙を放り投げるようなことだった。

幸いにしてネット世界には「似た」人たちが何人もいて、いろんな人達と話ができて、 自分のサイトも少しばかりにぎわうようになって。

慣れてきていろんなページを見るようになって、賑わっているところはやっぱり相似。 管理人が楽しそうであったり。作者と読者との目線が同じ高さであったり。

たぶんみんな、読者と作者と、どこかに相似を見出して、そこに集まる。みんなでひたすらに 馬鹿をやるページや、超絶に頭のいい人が書いてるページ。 そんな人は他の誰とも似ていないけれど、そこに集まる人達というのは、 みんなそれぞれにどこか「似て」いる自分を見出す。

同業の人達はみんなまじめ。血を吐く思いをつづったり、崩壊していく医療に絶望したり、 無理解な国民を非難してみたり。 まじめなのは正しいことだし、実際現場は大変なんだけれど、みんなそればっかり、 均一な人達の特別な思いばっかりというのは、なんだか危ない。

自分達とは違う「あの人たち」。すべての医師が、そんなくくりで見られるようになったら、 もう他の誰ともコミュニケーションが通じない。多様性の維持は大切。

誰とも「違う」のに、誰もがその人に「同じ」を見出す。

みんなの支持を勝ち取ろうと思ったならば、これからはそんなやりかたを 考えないといけない。どうすればそうなれるのか、未だによく分からないけれど。