現場の狂気と教科書の正気

「喉が痛いので抗生物質下さい」。真夜中の救急外来にやってくるこんな人は、 咽頭痛を治してほしいんじゃなくて抗生物質を内服したくて病院に来る。

外来で「その症状には抗生物質なんて必要ありません」なんてやりはじめると、 患者さんは怒り出す。説得するのに30分ぐらいかかったりして大変。

いくら「納得していただいた」ところで、患者さんは怒って帰る。 もしもその咽頭痛が治らなくって、他所の病院で抗生物質をもらったりしたら、 「あいつはヤブだ」なんて騒ぎになって、もっと大変。

「じゃあ、抗生剤を出しておきますから、翌日外来に気て下さいね~」 なんて笑顔で抗生剤を処方すると、患者さんも笑顔で帰る。所要時間1分。 寝られる当直。明日も戦える。

ズルをすると怒られる。昔研修した病院のうたい文句は、「欧米流の正しい治療」。 「正しくない」やりかたをすると、翌日必ず呼び出されて説教された。

就職してから最初の2年間は、ズルして睡眠時間稼いでは、翌日怒られて。そのくり返し。

3年目以降は怒る立場。

研修医は、みんな考えることは一緒。トラブルにはなりたくないし、 誰だって睡眠時間惜しいから、言われるがままに抗生物質

怒る側に回ったとき、判断の基準になるのは、結局のところ教科書的な「正しさ」。 自分も理不尽だと思ったけれど、「なんでこんな人に抗生物質出したの?」なんて 分かりきった質問を繰り返したのも今は昔。

現場の医療と教科書と

「風邪はばい菌が引き起こすから、ばい菌を殺すために抗生物質をもらう」

真夜中にでも抗生物質をもらいに来る人は、たぶんこんな疾患モデルを持っている。

ウィルス感染と細菌感染との違いなんて、抗生物質が欲しくて外来に来る人には 関係ない。むこうの立場にしてみれば、「抗生剤が欲しくてわざわざ病院に来てみれば、 白衣を着た偉そうな医者が説教をはじめた」わけだから、やっぱり腹も立つんだろう。

必要なのは、以下のうちのどれか。

  • 風邪のイメージから抗生物質を外すやりかた
  • 「妥協して抗生物質を出すことが、実際問題どのぐらい悪さをするのか?」という検討
  • 「正しい医療」を現場でやるための、経済的、あるいは政治的な解決策の検討

医学的なお話をいくら究めても、こんな問題に対する解決案なんて出てこない。 問題は明らかに医療の現場で起きているのに、医学の教科書は、 この問題を解決するやりかたを教えてくれない。

治療期間と正しさと

昔習ったうまいやりかたは、ステロイド

「細菌性扁桃炎に、抗生物質と少量のステロイドを併用すると、一晩で症状が取れる」

昔勤務していた耳鼻科の先生が、研修医にこんな「秘儀」を伝授してくれて、これが大流行。 若い人なんかだと、本当に一晩で治ったりする。でも、こんなやりかたは もちろん「正しく」なんかないから、 部長に見つかってすぐに禁止に。

最近は、主に老人の肺炎。教科書どおりのやりかただと回復遅いし、 ゼーゼーいってる人多いから、抗生物質に少量のステロイドを併用することがある。

これもまた、正しくないやりかた。ステロイドなんて使わなくても、抗生物質だけで 肺炎は治療できるし、もしかしたら感染に対して害になることだってある。 「余計なことはするな」というのが西洋医学の基本思想だし。

これをやると入院期間が大幅に短くなる。すぐにごはんが食べられるようになるし、 翌日から解熱する。点滴の抗生物質も早くから内服に変えられるし、なによりも 見た目の重症さが少なくなるから、家族も納得。

この治療は一種のギャンブル。もちろん「ステロイドを一緒に使います」とは 説明するけれど、もしも患者さんの具合が悪くなって、もしも悪いタイミングで遠縁の親戚、 それも医学の知識に妙に詳しい人なんかが病院に乗り込んできて、 患者さんにステロイドがぶら下がっているのを見つけたら、間違いなくトラブルになるだろう。

  • 肺炎は、抗生物質だけで治すのが正しいやりかた
  • 治療期間は、極力短くするのが正しいやりかた

正しさがコンフリクトするとき、どちらがより「正しい」のかの検証は欠かせないはずなんだけれど、 正しい人達は正しい答えを教えてくれない。

正しい教科書は正しいやりかたを教えてくれない

医療ならどの分野でもそうだろうけれど、現場でやってることは、教科書にはほとんど書いていない。

治療のやりかたは書いてあっても、たとえば「血管拡張剤を用いる」とか、 「免疫抑制薬を併用することもある」とか。病気の概念とか病態読んで、 いよいよ治療のやりかたを語る段になると、作者の声はとたんに小さくなってしまう。 「教科書どおりのやりかた」なんて、実は教科書のどこにも書いていない。

「今日の診療指針」という、臨床医のカンニングペーパーみたいな本がある。

あれを使っている医師は、馬鹿扱いされて笑われる。これは「正しいやりかた」が 好きな人達の挨拶みたいなものだけれど、一人で島に飛ばされたときなんか、 あの本のありがたさがしみる。

薬の量とか投与期間みたいな「責任」を伴う数字、 「正しい」教科書にはほとんど書いていないんだから。

現場の正気を支える教科書がほしい

1800年代のイギリス海軍では、「正しい戦いかた」が議会で決められて、 それに違反した提督達はことごとく有罪になったのだそうだ。

当時戦争状態だったイギリス海軍は、そんな中でも連戦連勝。ところがその戦いかたは、 ことごとくルール違反だったものだから、提督達はみんな犯罪者扱い。

戦争の現場は命がけだから、提督達は正しさよりも命優先。もしもこのとき、勝つやりかたじゃなくて 正しいやりかたを優先していたら、もしかしたら今のイギリスはスペインの一部になっていたかも。

刑法の解釈が変わった。 診療中に亡くなった人というのは、今後は全て「異常死体」扱いになるのだそうだ。

検査中のトラブルとか、あるいは外来で急変した人とか、これからはとりあえず警察に届けて、 検死を受けないといけないらしい。

血管の塞栓療法に使うゼラチンスポンジ。今年の2月から、製造メーカー自らが 「血管内投与禁忌」という添付文書を発行した。今血管塞栓療法をやっている医師は、 法律上は誰もが犯罪者。でも病気は待ってくれないから、そのまま続けるしかなくて。

たぶん、司法サイドにも「正しくない」人達がいて、今のところは「事件性が無ければ大丈夫」 ということになっているのだろうけれど、相手は世の中で一番正しい人達。 正しくない人達は淘汰されるだろうから、そのうち正しい人が増えてきて、 きっとますますやりにくくなるんだろう。

現場の狂気を正しい教科書が保証してくれる医療現場。最近なんだかやられっぱなし。

法律は、司法の正気を保証してくれるのだろうか?