ストレージの進化が行動を変革する

胃カメラの検査を一通りやって、保存できる画像は20枚。その中からさらに4枚、 その場でプリンターに焼き付けて、患者さんへの説明に使う。

内視鏡の構造というのは、デジカメと一緒。未だに銀塩フィルムでの保存が一般的だけれど、 これをデジタル保存して、無限に記録できるようにするのは簡単。 CCD が拾った画像は、リアルタイムで動画観察できるから、保存容量の問題さえなくなれば、 動画保存だってたぶん簡単。

デジタルデータの保存デバイスは、毎年のように安くなっている。たかだか20枚程度の 静止画像より、同じ解像度の動画10分のほうが、情報量は圧倒的に多い。同じ検査を受けるなら、 情報量は多いほうが、患者さんはきっと喜ぶ。

医師はそのとき、プレッシャーに押しつぶされる。

道具は人を変える

弓矢の時代から鉄砲の時代へ。

誰でも使える弓矢に比べて、鉄砲や大砲を維持するためには専門の知識が必要だし、 莫大なコストがかかる。威力は圧倒的に強いけれど、それを維持するためには 国家のありかたが変わる必要があった。

王様の気まぐれで簡単に戦争ができた時代は、鉄砲が登場して終わりを告げた。 上流階級のお遊びから、国どうしのぶつかりあいへ。技術が進歩して、 戦争という言葉の重さは、大きく変わった。

検査は進歩した。

心霊写真みたいな写真しかとれなかった昔。レントゲン写真は「とりあえず撮っておく」ことが許された。 写真は見るんじゃなくて、「読む」もの。見落としたって機械が悪い。

「これは見落とすよね」。同業者なら同意してくれた。

CT スキャンができて、人体の横断面が1cm 刻みで撮影できるようになった。 この時点で、人間の画像処理能力は機械に追いつかれた。

「異常ないと思います」。 深夜、眠い目で読んだ腹部CT は、 翌朝になれば研修医だって見逃さない病変を写していたり。もう誰も許してくれない。

最近のヘリカルCT やMRI は、人体の情報をミリ単位で把握する。 立体情報は大きすぎて、もはや人間に処理できない。 わざわざ情報を割り引いて、横断面画像を構築したり、あるいは立体画像にしてみたり。

機械の進歩は人間を完全に追い越して、もう言い訳は許されない。 その時人体に何がおきていたのか。検査をした時点で、機械はそれを知っている。 人間は、それを理解できない。

全てはデジタルデータ。これから先、誰もがギガバイト単位の保存デバイスを持ち歩く時代になれば、 過去に撮影されたデジタルデータを全て持ち歩くことぐらい簡単。

あるとき癌が見つかって、過去に撮ったCT データを再構築してみたら、 同じ場所にすでに腫瘍が…なんて 時代はもうすぐそこ。

全ての行為に理由が必要になる

処理能力の不足は明らか。もう「何となく検査する」とか、 手術前のルーチンワークで検査をオーダーしたとか、 そんなことをすれば後出しじゃんけんで必ず負ける。

何かを隠すとか、いい逃れるとかもう無理。 たぶん、自分自身を追い込んでしまうだけ。

こんな事態への対処は、全てをオープンにして、目の前の患者さんにゆだねてしまうこと。

何を意図してその検査をオーダーしたのか。そのときどんな病気を発見したくて、 その画像を撮ったのか。後出しじゃんけんを回避するためには、 検査をオーダーするときの、こんな理由が欠かせなくなる。

画像の保存先も、病院から患者さんへと変わるだろう。

オーダーした医師でも分からないぐらいにぼやけた画像データは、 今ではいつ自分の背中を撃つのかも分からない、そんな 物騒なデータへと変貌した。

物騒な情報は、手元に置いたら負け。「画像を有効に利用する機会を妨げた」。 こんなクレームをつけられるのがもうすぐ当たり前になる。

情報の所有者は患者さん自身。データを利用したり、 加工したりは患者さんの権利でもあり、同時に患者さんの責任でもあり。

医師の判断とか、考えかた、検査から得られる情報なんかは、 すべてお金を払った患者さん自身のもの。ある意味当たり前なんだけれど、 情報と判断とが分離できなかった昔は、情報の主体は医師じゃないと回らなかった。

その医師が判断しないと意味を持たなかった画像情報は、もはや十分に詳細になって、 「判断」と「情報」とは明確に分離できるようになった。

同じ「情報」を持ち歩いて、必要ならば別の「判断」を購入して比較して。 判断と情報、それぞれに対して「他者の目」を自由に購入できるような時代になれば、 カルテの記載内容もまた、必然的に患者さんのものになる。

パターナリズム。「医師を信頼して、全て任せて下さい」という伝統的な考えかたは、 機械の進化が過去のものにする。

Blog 化する医療

保存可能な情報量が莫大になって、患者さんとの会話とか、病状説明とか、 そんな行動のログが全て記録に残るようになるまであとわずか。

医師の振舞い、会話、思考過程、そして人間の処理能力を越えた、莫大な画像データは 全て記録され、必要があれば誰かに検証される。カルテだけ隠したって無駄。 あとから矛盾が見つかったり、いいかげんに流したところから ミスが見つかったりした日には、もうおしまい。

全てが監視される中での診療。考えかたとしては、 同じハンドルネームでblog を続けるのに似ている。

適当なこと書き込んで逃げられる匿名掲示板と違って、 誰でもアクセスできる場所でWeb を立ち上げて、 そこを維持するのはけっこう大変なこと。

無難なことばっかり書いて人気が出なければ悲しいし、 嘘ついて中途半端に盛り上がれば、今度はいろんな人が突っ込んできて炎上。

書けば書くほどそれが自分を縛って、過去の自分を裏切れなくなって、 適当なことを書けなくなっていく。やればやるほど不自由になるのだけれど、 その中で自由に振舞えなければ、忘れられておしまい。

視線の中で自由に振舞うために

昔は形容詞。差別とか、過激を気取ってキツい言い回しを考えて。 文章の分かりやすさとか、内容なんかは、書き捨て上等の掲示板文化では二の次。

自分の言葉を発信する場所をもつようになってから、昔の言葉が使えなくなった。

文章は変化した。

  • 無難な言葉を重ねる代わりに、分かりやすさとか、文脈を工夫するようになった
  • 矛盾をなるべく作らないか、矛盾に自覚的であるように気をつけるようになった
  • 不必要な他人の批判を止めた
  • 頭のよさ自慢を止めて、読者との共通点を探すようになった

どうあがいたって後だしじゃんけん。だからといって、口をつぐめば仕事にならない。

情報も、医師のの思考過程も全て患者さんのストレージに入る時代になると、 後から誰でも突っ込み放題。そんなとき、自分を守るために大切なのは、 「そのとき」の自分と、今の自分との間に矛盾がないこと。

患者さんにログを取られる時代。余計な敵を作らないで、お客さんを集める工夫というのは、 もしかしたらこれから実世界で役に立つ。

人間側の進歩もあったってかまわないはず。その過程で、過去の自分を捨てるのだってあり。 でもそれをオープンにしないで、自分がかかわった患者さん達にそれを隠すと、 あるいは将来トラブルを抱えるかもしれない。

「私はこんな奴です。いい部分もそうでない部分もあります。 昔はこうで、今はこんなふうに考えています。気に入っていただければ、外来に来て下さい」

医師が実名blog をつけるなんてまだまだありえないけれど、 そのうち臨床にかかわる全ての医師が、ネット上で自分の考えかたを みんなの目線に晒す時代が来るかもしれない。

宣伝とか、自慢とか。あるいは、自分自身を守るために。