話しかた

  1. 足をそろえる
  2. 情報の所有者を明示する
  3. 「分からない」ことを恐れない
  4. 自己欺瞞の箱」を上手に使う
  5. 全体を見せてから部分を説明する

数あるやりかたの、ほんの一部。

人は足下をみる

会話をするとき、人は必ず足下をみる。

医師の靴をそろえた延長線と、対象の目線とが一致しているとき、 その人は「話を聞いてもらっている」という感覚を持つ。

ベッドサイドから立ち去ったり、あるいは外来で机に向かうときに足をずらすと、 靴のラインが患者目線から外れる。医師が話を聞いていたとしても、 ラインのずれは「あなたの話には興味が持てません」というメッセージとなって 相手に伝わり、トラブルの元になる。

会話が続いているときは足を動かさず、相手が会話を切ったタイミングで 足の軸線をずらすように心がけると上手くいく。

裏を返せば、話を聞こうが聞くまいが、足の方向さえそろえておけば、 それだけでたいていの患者でトラブルを回避できる。

医師-患者という特殊な関係では、お互いの目線をあわせることは 少ないので、「顔を見て話す」という会話の基本は外しても大丈夫。

「あなたの病気は」と言わない

「その情報は誰のものなのか?」を会話の中で区別するように気をつける。

相手は「症状」を訴えて病院に来る。それを解釈して「病名」にするのは医師。 患者にとっては、症状は真実だけれど、病名というのは医師の意図が混入した異物。

他人の意図が混じったものを「あなたのもの」と言われても、幸福になる患者はいない。

基本文法はこんなかんじ。

「○○さんの症状は、私は××が原因だと考えています」

症状は患者のもの。病名と考えかたとは医者のもの。

「あなたの病気は……です」で会話を続けて、「あなた」を話題の中心に置くのは間違い。

一見すると、このほうが責任をあいまいにできるように見えるけれど、 このやりかたは「目の前の医者を信用する」という行動が、選択肢ではなく前提になってしまう。 結果として、トラブルになったとき、医師が全ての責任を被らざるを得なくなる。

「私はこう考えます」という言い回しは、情報の所有者を明示的に分けることができる。 このやりかただと、患者サイドに「あなたの考えかたは気にくわないから、他の医者を当たります」 という選択肢を、最後の最後まで残すことができる。

情報の所有者を明確にするやりかたはハンドリングが難しくて、 言い回しを間違えると「全責任を主治医が被る」と受け取られかねないし、 話をしているときに、話している医師自身も混乱したりする。

それでも、このやりかたは「医者は間違える生き物だ」という立場を前提に会話ができるので、 治療が上手く行かなかった場合、次にどうするべきなのかといった話題に話をつなげやすい。 できれば慣れたほうがいいと思う。

トラブルケースのときほど、みんな「医学的には…」とか、あいまいな立ち位置にすがりがちだけれど、 あいまいな立ち位置のいかがわしさというのは、医師がマスコミに抱くいかがわしさと同じ。 話すほうは楽なんだけれど、これではますます信用を失う。

「あなたの病気は○○です。医学的にはこんな治療が主流ですが、合併症の危険があります。 治療を受けるのかどうかはあなたが考えて下さい」なんてやりかたは、喧嘩を売っているのと同じ。 説明になっているわけでもなければ、医師の責任回避にもなっていない。

「自分は医者だけれど間違える可能性だってある」という立ち位置を崩さないで、 「ベストを尽くすけれど、分からないときはこう振舞って、間違ったときには次にこんなことをやります」 という、思考の過程さえ明示できれば、立ち位置を固定することに問題はないはず。

その代わり、立ち位置を固定するとウソをつけない。些細なことであっても、 ウソや矛盾がばれると致命的なので、会話にはウソや誇張を入れないか、 入れるならば完璧に演じきる覚悟をした上で。

分からないときは「分からない」と伝える

「たぶん○○病だと思います」というやりかたは間違い。

「原因は分かりません。分からないので、まずは致命的な病気からの症状でないことを確認して、 その次に治療を安定サイドに振って様子を見て、症状に変化が現れたら そこでまた診察をさせて下さい」みたいなやりかたのほうが正しい。

分からないときはまず「分からない」と宣言して、 それから分からないなりの方針を説明する。この場合、ここで口ごもると最悪なので、 「分からないときどうするのか?」の対策は常に考えておく。

病名が分からなくてトラブルになる患者さんというのは、病名が知りたいという目的意識が強くて、 「分からないなら誤診」という思考回路を持っている人が多い。

こんな人にあやふやな病名を伝えたところで満足してもらえるわけがないので、 むしろ「分からない」ということを早めに伝えたほうが、トラブルにならない。 その解答が気に食わない患者さんなら他に行ってしまうし、分からないことに 最初に納得してもらえれば、その後はトラブルになりにくい。

自己欺瞞の「箱」を使い分ける

言うことが伝わらない、トラブルになりがちな患者さんというのは、 「医者は基本的に患者を見下して、横柄に振舞うものだ」という先入観に とらわれていて、どう接しても、それがねじれて伝わってしまう。

そんな患者さんをみたとき、医師もまた「先入観のきつい人には何を言ったってムダ。 防衛に徹しないとやってられない」みたいな自意識で固まってしまう。

お互いが自意識で固まった状態では、交渉は成立しない。 患者満足度はどうやっても最低にしかならないし、トラブルがおきたとき、 お互いの信頼関係が全くないから、火を消すことができなくなってしまう。

理想的な医師-患者の関係を作るには、何とかして相手の意識を変えないといけない。

「相手をあるがままに見直す」とか、「相手に対して心を開く」なんて自己啓発じみたことを 考えなくても大丈夫。病院の中であれば、「医者が心を変えた」素振りをするだけで、 かなり高い確率で、患者さんは変わってくれる。

相手を自意識の箱から引きずり出してしまえば、印象操作は簡単。

たとえば外来が気まずいまま終わった患者さんに対しては、待合で会計を待っている間、 医師が外来ブースから待合室に歩いていって、ほんの10秒でも世間話や服薬の注意など を行うようにする。こんな下らないことですら、医師に対する印象を大きく変えられる。

立ち去った患者に対して、外来ブースで悪口を言っても何のプラスにもならない。 患者さんが病院の門から外に出るまで、印象操作の機会はいくらでも残っていると考えるべきだと思う。

外来ブースの内と外、白衣を脱いだ状態と着た状態、目線の上下や会話の調子など、 あらゆるものが「私は変わりました」というメッセージを明示するのに使える。

両端を明示して全体を見せる

状態を説明するときに大切なのが、数字の絶対値を伝えることではなくて、 「両端」を示した上で、その数字がどのあたりにあるものなのかを伝えること。

たとえば40mgのプレドニンを内服してもらうときなどは、そのまま伝えても、 その意味が伝わらない。患者さんは「多いのがよくない」という思いを持ってしまって、 自分の症状よりも、薬の量で状態を判断するようになってしまう。

症状の査定を医師にゆだねてしまう状態というのはけっこう危なくて、 患者さんが自分のことを何も決定できなくなってしまうから、避けたほうがいい。

全体像というのは、最小の状態と、最大の状態とを示さないと把握できない。

ステロイドの量を表現するならば、たとえば喘息の人は○mgぐらい、糖尿病が問題になるのは ○mgぐらい、リウマチの人なんかはこれぐらい使います…みたいな、想像が及ぶ病気での 標準量を説明して、それから患者さんに投与するステロイドの話をしたりすると、けっこう上手く行く。

判断基準を伝えるのも大切。どうなったら悪くなったと評価して、 どうなったら良くなったと言えるのか、そんな基準、は早い時期に話しておいたほうが、あとが楽。 そのかわり、増悪して致命的な経過をたどる病気でこれをやると、「天国まであと○日」の カレンダーをつけられかねないので注意。安定した経過をたどる病気限定。

呼吸するように嘘をつく

メディアにとりあげられたり、本を何冊も発行しているような有名な先生というのは、 ほとんど例外なく嘘つきだ。

患者さんから神様みたいに拝まれる先生は、夜になると下半身だけ魔王になったりとか、 この業界にはそんな話はゴロゴロしてる。

そんな名医の姿をみて「大人は汚ねぇ」なんて嫌悪するのは簡単だけれど、 明暗2つの顔をあわせ持って、そんな矛盾を飲み込んでもなお全くぶれない、 そんな名医の感性を勉強してほしいなと思う。

この業界は結局サービス業であることからは逃れられないし、病気を治すことはもちろん 大切なんだけれど、気分良く病院から帰ってもらうこともまた、同じぐらいに大切な要素なわけで。

救急外来とか、一見すると一瞬の判断が大切な、技術系の診療科にも思えるけれど、 人あたりの良さ、黒すら白く見せる会話のやりかたというのは、 時として腕の差を補ってあまりある武器になる。

あんまり重要視されないし、 系統的に習うこともない技術なんだけれど、きっとどこかで役に立つはず。