「集合知」を意図した発信

せっかくこれだけの人が集まったんだから、なんかやりましょう…といったご意見に対して。

集合知」の楽しさと「祭り」の怖さ

ネット世界で話題になっている「集合知」。

多様な意見の集積というものは、しばしば優秀な個人の能力をも超える

ネット世界では、これが本当に実現するときと、単なる衆愚になってしまうときと、 両極端。集合知が成立する要件のなかで、 けっこう大切なのは、「違いが楽しい」と思えることだと思う。

集合知の代表例としてとりあげられるのが、牛の体重当てコンテスト。

「大きな牛を連れてきて、会場に集まったお客さんが思い思いの体重を書き込んで集計すると、 その平均値は牛の体重を極めて正確に当てる…」というあれ。 対照的なのが、blog の「炎上」なんかに代表される強烈な同調圧力

「祭り」と形容される集団行動、「同調知」と、「集合知」を実現する牛の体重当てとの違い。

  • 牛の体重当てというものは、自分の予想が当たっていようが、大きく外れていようが、あくまでもその「違い」が楽しい
  • 掲示板炎上騒ぎでは「ひとつの正解に同調すること」が求められ、それから外れた人は叩かれる

「当たりはずれに対する期待感」の差。 外れることが面白い「集合知」ルールは必然的にまとまらないから、 何らかの集積装置が必須。同調圧力ゲームでは、ルールの中に 「ひとつの答えに行き当たること」が組み込まれているから、 自己創発的に回答が出る。

世間の「何か」に肩入れして、人を集めて何かを動かそうという考えかたは、同調知の考えかた。 散逸こそが本質の、集合知とは相容れない。

何かの目的があってみんなの知恵を集めるのと、個人の最適行動が集まった結果、何かがおきるのと。

順序の差にしか過ぎないけれど、個人的には譲れない。

脳の知性とネットの知性

仮説でも何でも無くて、単なる妄言レベルだけれど、 「脳の中の意識」とか、実世界で作られた叡智の成果というものは、 集合知よりは「祭り」に近いプロセスで作られるんじゃないかと思う。

感覚器を通じて頭の中に情報が入って、莫大な数の細胞に、 同じような情報が渡される。細胞個々の様々な反応は集積して、それが「認識」とか「意識」 と呼ばれるものになる。それは集合知みたいなエレガントなものではなくて、 むしろ「脳内2ちゃんねる」。大きな「祭り」が連発しているような状態。

実世界の成果物、たとえば「言語」なんかも、たぶん「祭り」の産物。 言語生成にはコミュニティの存在が不可欠で、みんなが思い思いの「意志発信」 をしていく中で、実用的な言語系がだんだん支配的になって、周囲の個体に 同調圧力をかけて「言語」としてまとめられていったんじゃないか。

  • ノード間の同調圧力「祭り」が支配する実世界
  • 個々のノードは独立していて、 google みたいな意見の集積装置が別に実装されるネット世界

より生理的なのは同調圧力が作る「祭り」世界のほうで、判断-集積の2元論的な「集合知」 世界というのは、たぶん相当に非生理的。

集合知というのは、生理的でないからこそ面白いのだけれど、その状態を維持するのには エネルギーがいる。ちょっと油断するとどこからか同調圧力が顔を出して、衆愚に陥る。

同調圧力を排するために

この blog というのは、もともとが関係各位に対する自分なりの生存報告とか、読書日記。

何かを変えたいとか、社会的な目的意識を持って文章を書いたことは あんまり多くなくて、ここにあるのはあくまでも「自分なりのバカ話」。

気をつけているのは、以下のような部分。

  • 文章内の「事実」には何も語らせないこと
  • 体験した部分と引用した部分、管理人が考えている部分とを明示的に分けること
  • 自分のスタンスとか、自分で管理できる範囲は「嘘をつかない」こと
  • どこかに肩入れする文章を書かないこと

事実といっても、このblog に書いてある「事実」は全部作り話。

もとネタはあるけれど、時制や病名を変えてみたり、 いろんな病院で体験した話を混ぜたり。事実上の創作。

こんな「事実」だから、一番恐れているのはそれが 「医師の体験した話」として一人歩きしてしまうこと。

「医師の意見」なんて同調圧力の塊だから、これが「歩けないように」するには、 事実に何かを語らせるような書きかたを避けないといけない。

うちの文章では、「事実」パートは笑いをとったらそれでおしまい。 筆者の感想とか、考えとかは明示的にわけて書く。 文章内に、うっとおしいぐらいに「…と思う」とか、「…なんだと思う」といった言葉が出て くるのは、一応そのため。

嘘をつかないこと。

実際問題書いているのは嘘話ばっかりだけれど、自分の立ち位置をコロコロ変えてみたり、 自分の心情を曲げて、別の話題を書いたりすることはほとんど無い。

自分の立ち位置というのは、倫理的にはどちらかというと「邪悪」。 それでも、それを隠して正義の立場をとるメリットはあんまり無くて、 むしろ何かを隠すデメリットのほうが、圧倒的に大きい。

嘘をつかないで誰かに嫌われて、それはしかたがないことだけれど、 嘘をついて誰かに味方になってもらったとき、その嘘がばれたりしたら、 世界全部が敵に回る。嘘をつかないのは、ネット世界で生きていくための知恵みたいなもの。

社会参加しないこと。

ただただ「俺様がどうやったら幸福になれるのか」、いつも考えているのはそればっかり。 日本がどうなるとか、格差がどうとか、そういうのは後回し。 まずは自分の食い扶持を維持する方法論があって、その結果として全体がよくなるならなお幸せ。 そんな立場。

老人内科とか、地域医療とか。ただただそれが楽しくて、 なおかつ仕事としてそれなりに「食える」ものなので、結果として続けているだけ。 誰かのためとか、地域のためとか、そんなんじゃなくて。

「あなた」は誰のものか

完成されたプログラム言語は、それ自身を記述することができる。

C言語なんかはそれができて、コンパイラとかOSみたいな言語が動くのに必要な部品を 自分で作れるから、「世界を書くための言語」として通用するのだとか。

集合知」というプログラム言語は、残念ながら自分自身を記述することは不可能で、 我々の言葉とか、ものを考えるのに必要な意識とかはもっと不恰好な言語、 「同調知」で記述しないといけない。

その代わり、集合知が作る未来というのは魅力的。

部分最適」でない、本当の最適解を探すためには、集合知の力というのは絶対に外せなくて、 同じことを同調知を使ってやろうとすると、これはもう進化論的なスケールの時間がかかる。 集合知の作る未来を信じてるし、自分自身、それに最適化したサイトを作りたいと思ってる。

Weblog というのは、一人の意思ではなくて、そこにいる「みんな」の意志で書くもの。 筆者がいて、無数の読者がいて、その相互作用の結果として一連の文章が作られる。

文章化されたコメントやブックマークはもちろん、「ただ見に来るだけ」という無言の読者の方々もまた、 筆者の思考に大きな影響を与える。つまらないならば、あるいは読むに値しないと多くの人が 判断するなら、こんなサイトにはそのうち誰も来なくなる。

読者を意識しないで文章を書くなんて無理。

書き手のスタンスとしては、「私」と「あなた」が集まっているんじゃなくて、 ここに「みんな」という漠然とした集団がいるだけ。うちのサイトに来た以上、 「あなた」の意見ですらここにいる「みんな」のもの。 コメントを書いていただいた時点で、それを含めてひとつのエントリー。

意見の集積と合意形成というバックエンドはやがて現れるであろう「誰か」に任せて。 この場所は、フロントエンドを意識して、「誰か」の検索可能空間を大きくするための場所と 割り切っている。

まとめ

反応をいただけるのは本当にありがたいものです。このサイトをはじめたばっかりの頃は、 掲示板を作ったって、コメントをいただけるのは2ヶ月に1人とか、寂しいかぎり。

今みたいに返信が追いつかないなんて、考えてもみませんでした。

コメントをいただける機会は増えましたが、自分のスタンスはこんなかんじで、 昔からそんなに変えていないつもりです。

ただ、そんなわけで、この場所から何か、具体的な行動を…とか、ちょっと考えられません。

ポリシーの無いあいまいな態度や、真偽のはっきりしない話に基づいた放言。質よりも量で、 重み付けとか集積とかは、他の人任せ。そんなことこそがこのサイトの 強みでもあり、同時に限界でもあるからです。