家の改装歴史の階層

家具を直してる。

引っ越しのあと。大量の本とか、いろんな荷物とか。ダンボール箱の山。 新しい住処には、うまく収納できない。大量の本を処分したけれど、それでも足りない。

生活が変わって住居を変えて、以前と違う形の住居は、今度は生活スタイルの変更を要求する。

住居と生活。2つは相互に影響しあって、「建物」という大きな構造を作る。

建物の6つの階層

建物という社会構造は、6つの層でできている。

  1. 敷地:これは地理的条件であり、都市のなかでの位置関係であり、 法律的に定義された区画で、建物が世代交代しても変わらない
  2. 構造:基礎や荷重を支える構造物を変えるのは危険であり、 費用が高くつくので、普通は変えない
  3. 外装:流行や技術の進歩などから、外装は平均して20年程で取り替えられる
  4. 設備:建物の内蔵にあたる電力・通信などの配線、配管。 これが建物に深く埋め込まれすぎていると交換が難しく、 建物自体が取り壊されることになる
  5. 空間:ドアや壁など。変動の激しい商用スペースでは 3年ごとに変わったりもするが、平穏な家庭なら30年もつこともある
  6. 生活:椅子、机、電話、絵画、台所用品、毎月のように動かされる ありとあらゆるものと、「中の人」の生活スタイル

今は「生活」レイヤを変更して、それだけでは全然追いつかないから家具を作り変えて。 たぶんそれだけでは変えられなくて、たぶんドアを外したり、 壁に棚を作りつけたり、「空間」レイヤに手を加える予定。

人を取り巻く社会が変わっても、建物は変化する。

家族が増えて、生活が車中心になって、パソコンなんか使わなかった時代から、 今ではこれが無いと生活すらできない毎日へ。

部屋の隅で埃をかぶっていたパソコンは、今はモニター2台つながって部屋の真ん中に。 テレビを見なくなって、MP3 が普及して、引越しをきっかけにオーディオセットも処分。 空いたスペースは全部本棚に。

消防法の改正とか、地震や台風、地球温暖化などの気候変動が 今後生じたら、住居は「構造」レベルで変化を迫られる。 住居は元の形を保てないかもしれないかもしれないけれど、 それでも「建物」という大きな構造は壊れず残る。

「その場所での生活」に需要があるかぎり、たぶん誰かが「建物」という営為を続ける。 構造を壊しても、設備を壊しても営みは続くし、中の人の生活が変わっても、 構造に需要があるならば、他の人が内装を変化させて、建物は別の誰かに受け継がれる。

建物が終焉を迎えるのは、「層」が離開したとき。

社会や環境が変化して、「その場所での生活」というもの自体に需要が無くなって、 その住居の構造で生活を維持する理由が消滅したとき、建物は役割を終える。

ローマ帝国は何故滅んだ?

ローマ帝国の興亡については、塩野七生が「ローマ人の物語」でやったような英雄史観、 「人の物語」という視点とは別に、ローマ帝国の滅亡というのは単なる気候変動の 結果であって、環境の変化に「帝国」という社会モデルが耐えられなかったという見かたもあるらしい。

実はローマ帝国崩壊の大きな原因に「3世紀以降北半球の気候が寒冷化した」という話があります。 この時期はローマ帝国に限らずあちこちで戦乱が記録されていて、 例えば中国では漢が滅びて三国志の戦乱が起きてます。日本だと倭国大乱の頃だから 「古墳寒冷期」て呼ばれてる。(中略)寒くなって食えなくなった北方民族がみんな移住しようとした。 寒冷化による農業の不振から税収も落ち込み、あちこちで国が滅びたわけです。 (中略)環境問題ってえやつは、キャラクタとしての登場人物の視点からは出てこない。 「人間も環境を構成する要素の一つに過ぎない」っていう自然科学的な視点が必要になる。 (中略)我々が未来をかけるべきは、物語じゃなくて、サイエンスですよ。 raurublockの日記 - 「ローマ人の物語」シリーズに欠けているもの より引用

たぶん「帝国」にも建物みたいなレイヤ構造があって、 人の層では人の物語が、構造の層では気候変動とか、 民族大移動とか、もっと別の物語が進行している。 帝国の瓦解という現象は、この「層」どうしの歪が大きくなりすぎて、 「帝国」という一つの構造を保ち切れなくなってしまった結果なのではないかと思う。

救急崩壊と老人医療と

  • 研修医が内科に来なくなった
  • 産科や小児科の問題
  • 僻地医療の問題
  • 訴訟社会になった現代医療の危険
  • 老人医療の問題
  • 医療保険制度の崩壊

こうした諸問題をパラレルに論じるのはたぶんあんまり正しくない。

「建物」とか「帝国」みたいに、医療もまたレイヤ構造をとるならば、 それぞれの問題が「どの層の問題なのか」 を一緒に考えないと、うまく行かないような気がする。

  • 医師の心境変化とか、「人の層」で進行する問題ならば、それは人のレベルで解決可能
  • 高齢化の問題とか、不景気に伴って国家予算がなくなって…とか、「環境の層」で進行する 問題については、解決するよりは適応する術を探ったり、 あるいは「人の層」とは別の方法を使わないといけない

言葉の使いかたは、たぶん「層」が変わると異なってくる。

「人-人」レイヤの問題に対して役に立つのは誠実さ。 嘘を言わないこと、論理を重ねて正しい答えを 探すことが大切だけれど、「人-環境」レイヤの問題に対しては、「正しさ」は無力であるか、むしろ有害。

産科の問題とか、救急医療の問題を突き詰めると、ネオコンの思想に行きつく。

人は「自分でできることは自分でやる」。 どうしてもできないことだけ国家が助ける必要がある。 知識人はそのことを分かっているけれど、知的水準の高くない一般大衆はそれが理解できないし、 また大衆に迎合したネオコン以外の知識人が「タダなんだからどんどん使いましょう」とやるから国が滅びる。

ネオコンの立場をとる知識人は、何かを発言する場合、 大衆がそれを受け止めて、どう行動するのかまでを含めて 戦略的な発言を行う。要は「嘘をつく」わけだけれど、それは決して不誠実な態度ではなく、 「発言の結果に対して誠実な態度をとるのだ」と考える。

人殺したり、戦争したり。ネオコンの人はろくなことしてないように見えるけれど、 「言葉で社会を動かす」ことを 世界で一番真剣に考えているのは、ネオコンの人たち。「正しさ」だけでは、まだまだ不足。

世代を超えて生き残る構造

あいかわらず本を読む。生活スタイルがどれだけ変わっても、本だけは不変。

いつでも読めるとか、パソコン無くても読めるといった利便性以外に、本が便利なのはその自由度。

ページを折るとか、線を引くとか。本には「目次」という基本構造があるけれど、 読者の興味に応じて、あるいは本を読む目的に応じて、その内部構造はいくらでも変えられる。 1回読んだ本は、2回目以降は大事に思った場所から読めるし、 もちろん最初から読み直すのも自由。

他人が読んだり、線を引いた本を読むのも楽しい。

誰が何をしようが、ページを破くような真似さえしなければ、 本の基本構造は変わらないから、誰かが読んだ本でも最初から読める。

自分が思いもよらないところに線が引かれて いたり、何かの書き込みを見つけたり。そうした自由さは、 所有者の「世代」を超えて、楽しさとして 受け継がれていく。

  • 外側の構造が硬いこと
  • 内側の構造が変更可能で、その自由度が高いこと
  • 構造の「外」と「内」との乖離が激しくなっても、その影響が構造に及ばないこと

世代を超えて続く「構造」の条件というのは、たぶんこんなこと。

人間が作る組織で長持ちしているのは、公務員組織。

書類ひとつ回すのに20も30もハンコを要求する、非効率の代名詞みたいな組織構造は、 それでも世代を超えて受け継がれて、みんなの恨みを一心に受けながら、今も変わらず続いてる。

もちろん、公務員組織を維持するために莫大な国家予算が突っ込まれているのだろうけれど、 公務員組織というのは「外からは硬くて、中は意外に自由度が高い」という、継続する構造の 条件を満たしているようにも見える。

  • バッドノウハウの蓄積が可能:書類のハンコをあらかじめ押しておくとか、 書類の内容に応じて巡回ルートを決めてしまって、意味の無い会議をパスするとか、 面子にこだわる変な上司さえいなければ、たぶん状況に応じた業務の効率化が可能
  • 外乱からの安定性:意味不明な法律の山とか、ハンコの山は、 ノウハウを知らない「外」から見たとき、強力な「壁」として機能する
  • 「内」と「外」との整合性:役所内のバッドノウハウというのは、 あくまでも「法律を変えないで」蓄積されるから、 内層と外層との整合性が高く、外部構造が破壊されにくい

役所のいいかげんな上司というのも、言いかたを変えれば組織の自由をヘッジする存在。

ものすごくまじめな、不正を許さない公務員の上司がいて、 「自分が目の黒いうちは法律違反は許さない」とか、 「全ての書類は自分を通してほしい」とかやったりすると、 役所という組織は動かなくなるような気がする。

今は政治家の人たちが中途半端にクリーンになって、法律が分かりやすく、 厳密な解釈がされるようになった。その影響で「構造」が透明化して、 外乱がもろに役所の組織内に入ってきて、 官僚組織がまともに機能しなくなったなんていう要素、ないんだろうか?

医療組織は、「中の人」が医療従事者。 「外乱」要素を与えるのがマスコミや政治家。 最近は外乱が激しくなって、もう揺らぎまくり。

医療組織の「構造」部分を守ってきた医師会の偉い人とか、 あるいは学会の偉い人なんかが、今はすっかり市民の味方。

偉い人達は何もかも公開して、正しいことを重ねることで「誠実さ」でもって 「外乱」に対抗しようとしているけれど、やっぱり道具の選択を誤っている気がする。

「正しさ」という道具は「内層」に働きかけるには有効だけれど、 「外乱」に抵抗するには無力。

偉い人たちが「正しく」なったおかげで、医療という組織には、 建物でいう壁や屋根に相当する「構造の固さ」が失われ、 中身むき出し。雨や風がダイレクトに現場に当たって、 もう家具の移動で何とかするとかそういうレベルじゃなくて、 逃げ出す算段をするしかなくて。

「中身」が自由に変化して、時代に対応していくためには、 「構造」が十分固いのが必須条件。

偉い人の邪悪なロビー発言、けっこう大事だと思うんだけれど。