指揮者のいない交響楽団

マスコミの人達に「自分が取材対象となったらどう振る舞うだろうか」という 問題意識を持っていただく、 そんな方法論。

交響楽団の2人の指揮者

指揮棒を振る指揮者と、コンサートマスター

交響楽団では、第一バイオリンの人が「コンサートマスター」として交響楽団を 統率して、指揮者の意志をみんなに伝えたり、逆に楽団の意思を指揮者に伝えたり、パイプ役をする。

演奏中は、指揮棒の動きだけでは細かい情報が伝わりきらない。楽団員は、 細かな音の出だし、微妙なニュアンスといった情報を、指揮者からではなくて、 コンサートマスターの演奏を通じて受け取る。

コンサートマスターと指揮者とはしばしば対立する。お互いのの仲が悪いとき、 コンサートマスターはしばしば指揮権を奪ってしまう。

指揮者は外様コンマスは仲間

学生の部活動とプロの交響楽団を一緒にすることはできないだろうけれど、 楽団にとっての指揮者というのは「外の人」で、「仲間」の最上位、 交響楽団の主将をやっていたのは第一バイオリンの男だった。

演奏会が近づいて、指揮者は指揮者なりの演奏プランを考えて練習に臨む。 主将がそれを気に入らないと、指揮者を無視して演奏が進む。みんな コンサートマスターに従うから、指揮者は楽団員に引っ張られて指揮棒を振る。

練習が終わって、反省会を兼ねた話し合いを何回もやって、指揮者のプランに 全員納得がいったところで、指揮者はようやく「指揮棒を振れる」ようになる。

題名のない音楽会のこと

指揮者 -> コンサートマスター -> 他の楽団員

こんな面倒な情報伝達経路を取るのは、たぶん伝送容量の問題。

交響楽というのは、「指揮者の意志」という莫大な情報を、 リアルタイムで伝えないと成立しないもの。

題名のない音楽会」という番組で、指揮者の人をカプセルに閉じ込めて、 マイクを通じた声だけで演奏をやってもらおうという企画があった。

指揮者カプセルの中にはマイクが一つあって、楽団員は全員、 イヤホンで指揮者の指示を直接受ける。演奏自体はうまくいっていたみたいだけれど、 指揮者の人は汗まみれ。通常の何倍も疲れたそうだ。

声による指示というのは、いわば情報を無圧縮で伝送するようなもの。 みんな自分の持つ「帯域」を使いきってしまうから、集中力がいるし、周りを見る余裕すらない。

情報というのは、お互い共有しているものならば、「あれ」という言葉で省略できる。 情報の圧縮幅は、お互いが共有しているものの量に比例する。

本来の交響楽団には、指揮者の他にコンサートマスターがいる。

指揮者とコンサートマスターとは、お互いに十分多くの情報を共有した者 どうしだから、両者の情報伝達には「圧縮ファイル」、指揮棒の動きだけで 十分。

コンサートマスターは、指揮者から渡された圧縮ファイルを「解凍」して、 自分の演奏を通じて楽団員に指揮者の意志を配布する。

トップダウン型ネットワークの問題点

実世界でのマスコミの立場というのは、ちょうどカプセルの中に入った指揮者のようなもの。

  • 楽団員はみんなイヤホンをつけているから、団員相互のリンクは不十分で、 指揮者のいうことを信じるしかない
  • カプセルの中に入った指揮者はどんな表情をしているのか、 そもそもカプセルの中に人はいるのかすら、楽団員には分からない

力関係は一方的。

マスコミの人とか、政府の人とか、あるいは厚生省の思惑があんまり上手く 動作しなくなった昨今というのは、 楽団員がイヤホンを片方外して、お互いの音を聞き出したような状態。

楽団員が聞いた自分達の演奏と、指揮者がマイクで怒鳴る指示の内容と。 ずれがあっても、確認はできない。カプセルの中にいる指揮者の顔は見えないし、 情報伝達経路は一方向。 不満もたまるし、従わない人も増える。

オーケストラという世界においては、指揮者と楽団員とは、 コンサートマスターを通じて双方向に対話する。

交響楽団にあって社会にないもの、社会から双方向性を奪っているのは、 「コンサートマスター」に相当する役割の不在なんだと思う。

本田勝一はサングラスを外さない

朝日新聞の有名な記者で、今でも左翼系の論客としてよく登場する本田勝一は、 常にかつらとサングラスで変装して、人前には絶対素顔を晒さない。

昔の取材は命がけで、どこで襲われるのか分からなかったから今でもそうしている らしいのだけれど、この方はたぶん、「カプセルに入る」ことの力をよく理解していて、 今に至るまで絶対に素顔にならないのだろうと思う。

オーケストラの楽団員が指揮者に従うのは、観客の前で無様な演奏をしたくないからだけれど、 それは指揮者だって同じ。演奏はちゃんとしているのに指揮棒の動きがあからさまにずれていたなら、 みる人が見れば(たぶん)何が行われているのかばれてしまう。一種の運命共同体

「指揮者がカプセルに入る」ことは、楽団員に対して指揮者への盲目的な信頼を強要する。 観客の目に入るのは、楽団員だけ。指揮者は安全地帯から、指示を出すだけ。

マスコミと、一般社会人との関係も一方向的。取材を受けても適当なことだけ 書かれて氏名を公開されて、身内の住所から何から 関係ないことまで全部公開されて、表を歩けなくなったり生活を滅茶苦茶にされたりしても、 相手の「顔」がどこにあるのか、全く見えない。そんな「指揮者」、信用しろったって無理。

社会におけるコンサートマスターの役割

コンサートマスターというのは、基本的には誰がなってもいいらしい。

社会に「コンサートマスター」という機能を実装して、 マスコミに双方向性を求めようと思ったならば、 必要なのはこんなこと。

  • コンマスは実体を持たない存在であるか、あるいは自分のメディアを持っていること
  • 匿名性か、メディアに拮抗しうる発信力のどちらかは必須
  • 取材を受けたら、取材のログや経過、約束事などを全部自分のメディアで公開したり、 匿名掲示板で、たとえば「TBSアナの○○、 こんな手続きで行けば、身内の住所晒せね?」みたいなやりかたをしたり

イデアが十分に「クール」で、方法と得られるものとが具体的であるならば、 誰かが調べて、誰かがまとめて、誰かがそれを公開して、 アイデアは自己創発的に実現してしまう。アイデアが屑なら、発表されても無視されて終わり。

「なんとなくおもしろそう」

十分な力を持ったアイデアは、コンサートマスターとして 一人歩きをはじめる。ネット社会の「仲間意識」というものは、 何の見返りがなくっても、人にすごい行動力を喚起する。

取材された内容を公開したり、相手の個人情報を晒したり。

そんな行為は「正義に反する」ことも多いけれど、正義の名の元にむちゃくちゃしてきたのがマスコミを 代表とする「上」の人達。彼らの方法論が正義なら、「おもしろさ」というのはそれに 対抗する動機としては十分に強力。

マスコミの巨大さ、強力さというのは、こうしたボトムアップ的なやりかた に対しては弱点にしかならなくなる。 晒し上げるようなやりかたを、彼らは「卑怯だ」と叩くだろうけれど、 叩かれることそれ自体が、たぶん創発のエネルギーを加速する。

改変前の取材内容が誰でも閲覧出来たり、マスコミ人の個人情報、 たとえばニュースキャスターの親御さんとか、 子供や孫の通学先やクラスといった情報をまとめたリストがネットのどこかに公開されたり、 あるいは「そんな物が出回っているらしい」という噂が流れた時点で、 マスメディアにはものすごい足かせになる。今まで「タブー」とされてきたいろんな利権集団なんて、 そもそもこうしたリスト、最初から持ってるんだろうし。

マスメディアで活躍するプロのジャーナリストは、たしかに実名で活動しておられるけれど、 それは単に「名前」だけのこと。実体はカプセルに入って指揮をしているのと一緒。

指揮者にカプセルから出てきてもらって、楽団員と一緒に演奏に参加してもらうには、 ネットのどこかにいる「コンサートマスター」がカプセルのドアを叩いて、 指揮者に指揮棒を振ってもらうこと。

実世界の交響楽団にだって「帝王」と呼ばれた指揮者がいたように、 実力のある表現者ならば、たとえカプセルの中から出てきたところで、やはり社会で 超越した立場でい続けることは、きっとできるはず。

イデアひとつで世界を転がす。そんな機会と可能性とは、 たぶんネットにつながった人が全て平等に持っている。

いつかできるはず。