よいものと残るもの

引越しをきっかけに、部屋を占領していた書類や本の山を半分近く処分したときに 考えたこと。

ネット以前

学生の頃に愛用していたのは、袋ファイルと製本機

パソコンはまだ普及してなくて、部屋の壁は全部本棚。 机2つと、業務用のコピー機製本機が家財道具の全て。

いちいち本を開くのは非効率。調べ物をしたり、何かを書いたりするときは、 必要な部分だけをコピーする。角をホチキスで止めただけの紙の束と、 背表紙をつけて製本した資料とでは、生産性が全然ちがう。

大事な資料は製本して保管して、そうでもないのは袋ファイルにインデックスをつけて保管して。

就職してから何回も引越しを重ねたけれど、資料の山はずっと一緒についてきた。

ダイアルアップ時代

インターネットができても、状況は一緒。

ネット上のデータの永続性なんて信じられなかったから、 部屋の中には加速度的に増えていくコピー用紙の山。研修病院の医局は恵まれていて、 1人で2本の本棚を勝手に使えたから、袋ファイルの置き場には不自由しなかった。

大学医局に入って唖然としたのが、個人スペースの少なさ。

大学には広大な敷地があって、みんな自由に空間を使える。

子供の頃に遊びに行った工学部の父親の部屋は広かったから、医局に入るまではこんな先入観。 実際は本棚1本どころか、棚一つもらうのがやっと。病院には自由な空間なんかほとんどなくて、 みんなスペースの節約に必死。

本も資料も置けなくなって、資料の電子化を真剣に考えはじめたのがこの頃。 それでもパソコン上で見る資料というのは本当に読みにくくて、検索も面倒だったから、 あいかわらず印刷してばかり。

医局では、レーザープリンタだけは自由に使えた。論文雑誌を引っ張って、PDFを印刷しては 自宅に持ち帰って保管する日々。

google 以降

ブロードバンドとgoogle の出現が、うちの地域では大体同じ頃。

ハードディスクの容量が10倍以上になって、タブブラウザを導入して レンタルサーバーを借りるようになったのも、大体この頃。

ネット上で何かを発信するようになって、ネットで何かを検索する頻度が増えた。

検索エンジンの反応速度が上がると、同じ概念を何回でも検索できる。

以前なら「このキーワード」というのを思いつくまでは頭で考えて、 その後ネットで検索して…という手順だったのが、google 以降は まず適当な言葉で検索して、画面に出てくる単語の中から自分の問題に近い言葉でまた検索…という やりかたが快適にできるようになった。

十分広い探索空間と、適切な検索手法の組み合わせというのは、ほとんど知性として近似できる。

快適な検索エンジンの出現というのは、単に便利になったというだけではなくて、 ネット空間を「知性」として、自分の対話の相手として利用できるようになったという意味で、 とても大きな進歩だった。

日常生活とか、本を読んだりした経験から何かを発想して、そこからの連想を ネットで検索して、何か面白い話題につき当たったら発信して…というのが 生活サイクルに入ってくるようになったとき、保存されている資料を見る機会が減ってきた。

そんな流れで、今回の引越し。

書類や論文を捨てた

袋ファイルと製本機を併用して、 ずっと上手くやっていたけれど、壁一面がA4封筒の山になったらもう限界。

医学論文は全部廃棄。図書館経由でログインしないと閲覧ができなかった医学雑誌も、 最近はバックナンバーを公開しているところが多くなった。論文のPDF配信ができたばかりの頃は、 このサービスがなくなるのが怖くて全部印刷していたけれど、たぶんもう大丈夫。

PubMed の検索システムも進化した。

PubMedの"limits"で、"Links to free full text"にチェックを入れれば、 全部読みできる論文に絞って検索できる。

検索したキーワードを経時的に追っかけたかったら、論文の一覧が出た画面の一番下、 "Send to"と書いてある窓から"RSS feed"を選択して、出来上がったRSS フィードを 適当なRSSリーダーにそれを登録しておけば、あとはPubMed 側から勝手に情報を送ってくれる。

今は core clinical journal に限定して、"heart failure""stroke""clinical guideline"を チェックしているけれど、送られてくるのが週に20本ぐらい。

無料公開しているあまり有名でない論文雑誌の記事と、4ヶ月ぐらい前の有名どころの論文雑誌の 記事が混ざって送られてくるけれど、このぐらいの量なら何とか追っかけられる。

捨てられなかったのが、論文以外の資料。

  • 東医体評議委員会の議事録とか、国試対策委員会の資料とか、今後絶対にネット上に出てこないもの
  • 寄せ書きとか、誰かの手書きの文章とか、情報よりも情緒が大事なもの
  • 研修病院時代のカンファレンス資料みたいな、書かれた内容よりも、書式みたいなものが参考になるもの
  • みんなの名刺。防衛医科大学の学園祭委員会の名刺には「地球防衛軍No.○」と通し番号が入ってるとか、 実物がないと楽しくないもの

内容じゃなくて、実物があることに価値がある。そういう資料は使い捨てられないし、 たぶんこれからも手元に保存する。

blog もそうだし、論文もそうなんだけれど、「かたち」の価値は変わらない一方で、 「内容」の消費スピードというのは、この数年どんどん早くなっている。

臨床系の大きな論文を1本作るには数千万円オーダーのお金がかかることすらあるけれど、 それが論文雑誌に載って、いろんな国の医師がそれを読んで、話題になるのはその日だけ。

今はもう、「臨床の流れ」みたいな大きなものはもうなくなっていて、 みんなが適当に、「ここは当たりかも」という場所を 好き勝手に掘っているみたいなかんじ。

そんなわけで、蓄積した資料は放棄。そのつど調べて考えることに。

本を捨てた

本の山も、「それを読んで何かを書きたい気分になる」 ものを残して半分ぐらい処分した。

  • 「内容が面白い」小説、筋回しが面白いとか、読んだ体験それ自体に意義があるような小説は全滅
  • 「部分が面白い」本は、たとえつまらない筋書きでもけっこう残った

みんなが読んでいるような小説とか、部分じゃなくてあらすじが面白い小説なんかは手もとに 残す必要がない。みんな読んでるし、あらすじ引っ張ろうと思ったら、誰かがネット上で 公開したり、評論したりしてるから、それを引っ張れれば十分。

ところが、たとえつまらない本であっても、言い回しをまねしたい文章とか、 引用したい台詞の入っている小説なんかは、実物が手放せない。 小説の引用というのは、前後の筋を細かくよんで、「ここ」という場所に入れないとかっこ悪い。 著作権なんて、確信犯的に無視して引用するんだから、せめて実物ぐらい持っていないと、 なんだか作者の人に悪い気がするし。

大雑把には、引っかかるところのない名作は廃棄して、 何か尖ったところのある駄作は手元に残すみたいなポリシー。

小説以外の本、ルポルタージュも同じ。情報の古さはあんまり関係ない。

昔の立花隆の本、たとえば「電脳進化論」とか、「アメリカジャーナリズム報告」あたりの文章は、 今読んでも「何かやりたくなる」感覚いっぱい。内容はもう古いんだけれど、それでも読み返すと 元気が出る。最近のは、本当にもうどうしちゃったんだか…(泣)。

最近の科学読み物は、カオスとネットワークが全盛。

一般向けに売られたネットワーク科学関係の本は、たぶんほとんど手元にあるけれど、 読み返す必要をほとんど感じない。

ネットワーク科学は面白すぎて、たぶんみんなが「何かいいたい」分野。本の内容や、 有名な実験の結果なんかはいろんなblog に少しづつ 引用されたり、あるいは解説されたりしているから、何回か読んでしまうと、 「ああ、あの話題ね…」と元ネタが割れる。

自分の文章に複雑系の話題を引用しようと思ったら、手元の本を写すんじゃなくて、 その話題でgoogle を引っ張る。自分で書く必要がないくらいに「そのもの」を引用して いる人がいっぱいいるから、そこをコピーして、適当に切り貼ってしまえばくれば十分。

そういう意味では、複雑系やカオス、あるいは物理や進化論系の解説書は もう手元になくてもかまわないのだけれど、 さすがに投資金額が馬鹿にならなくて、今回は捨てられなかった。 1冊4000円とか、医学書じゃないんだから…。

漫画も減らした。

「星の時計のLiddle」「イティハーサ」「ヘルシング」「ディスコミュニケーション」「夢使い」「エイリアン9」 「陰陽師」「夢幻紳士」あたりは、たぶん今後も捨てずにとっておく。もっとメジャーなものは処分。

ファイブスター物語」「アップルシード」は、追っかけて18年目にして力尽きた…。もう無理。

いいものと残るもの

検索という行為が日常に組み込まれて、 捨てるものと、残すものとの価値判断が変わってきた気がする。

nature に載った論文なんて、世界中の研究者が読むものだから、 放っておいても誰かが要約するし、本当に価値のある論文ならばすぐ常識になってしまう。 いいものは、それだけ消費のスピードが速いから、 あえて今自分がそれを残しておく必要なんかない。

多くの人が参加して、要約や翻訳とか、意義付けとかを多くの人がやってくれるものについては、 今さら自分が参加するよりも、自分以外の「誰か」の善意を信じて待っていたほうが楽。

みんなが読んでいるものであっても、あえて原著に当たって、その文章の持つ意味を考えて、 それからみんなの意見を聞いたほうが、たしかにそれだけ頭に入る。

問題は、それに消費する時間コスト。

内容が消費される速度は上がる。人の思考速度には上限がある。全部の話題についていこうと思うと、 もう何も考えられなくなってしまうから、情報量を制限して、自分のリソースを節約することは大切。

自分の考えというものを、自分が物理的に手が届く範囲で閉鎖するのか、 それとも頭の「ポートを開いて」、集団意識みたいなものの演算能力を積極的に取り入れるのか。

引越し。残すべき本をダンボールに詰めて、最後まで手元に残しておいたのは、 ギブスンの「ニューロマンサー」。

やっぱりこれが原点。