結束力の武器

価値の多様化が進むほど公○党の力が強まる件

Web がこれだけ普及しても変わらないのが、選挙制度と間接民主制。 数の多さと声の大きさとが 同じ価値を持ってしまう、そんな制度。

国会議員だって忙しいから、国民の意見を聞けるのは、平日の昼間ぐらい。 で、その時間に国会議員に会えるのは、その時間に思いっきり時間が取れる、 プロの市民団体とか、宗教団体の人とか、「普通でない」人達だけ。

会社を経営していようが、アルバイトをしていようが、 普通の社会生活を送っている人は、平日の昼間に議員に会って、声を伝えるなんて無理。 今の議員制度には、「みんなの声」が反映されることはない。

Web 時代。ネット上にはいろんな意見が飛びかって、価値観は本当に多様になった。

1.0 から2.0 へ。未来がそこに見えているのに、政治の世界はあいかわらず。 マスの意見を集約する手法は効果がないどころか、逆に意見が黙殺される原因にさえなる。

価値の多様化は歓迎すべきこと。特に、旧来の価値観を引きずっている人達にとっては。

現状の間接多数決ルールで戦うときには、旧来の価値観を引きずった集団のほうが、 戦いの効率が圧倒的にいい。意見が多様化して、「マジョリティー」が より分裂してくれれば、古い価値観でまとまった集団には、より大きな利権が 転がり込んでくる。

間接民主主義ルールでは、 「人数」と「団結力」という2つのパラメーターが、お互い置換可能なものとして 効いてくる。

絶対的な人数が少ない意見であっても、それを叫ぶ集団の結束が十分に高ければ、 政治の場では「大きな声」として通ってしまう。

カトリックプロテスタント

神父と牧師。どちらもキリスト教の聖職者だけれど、立場は大分異なる。

カトリックや正教の神父は、使徒の継承者という位置づけであり、 組織も軍隊的な性格を持っている。

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手元の資料(某漫画と某ゲーム)にある典型的なカトリックの聖職者は、剣を使う人が多い。

神父は伝統的に終生独身を守り、所属の教区の司教によって職場に派遣され、 その人がいなくなれば、教会から他の人が派遣される。

引退した神父にも「予備役」としての 義務が残る。カトリックには、「教区あたり何人」という人数配分が決まっているのだそうで、 戦争とか、何らかの非常事態がおきてその場所から神父がいなくなってしまったとき、 その地域の信仰の引き受け手として、引退した神父が召集されるのだという。

プロテスタントの牧師は、地域のリーダーとしてその場所にある共同体から招かれる。 牧師はあくまでも人間のリーダーであって、使徒から代々受け継いできた聖職という概念はない。 その地域の意志がボトムアップして招聘されるもので、トップダウン的なカトリックとは逆。

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牧師さんは銃で武装する。銃社会のアメリカは、プロテスタントの国。

剣から銃へ。時代が進んで、カトリックの考えかたに疑問を表明する人が増えて、 従来の組織を批判する 形でプロテスタントが生まれ、新世界を席巻した。

プロテスタントは、そういう意味ではより「進化した」考えかただけれど、 カトリックプロテスタントとが日本の政治の世界で競争したなら、 今の選挙ルールではカトリックが圧勝する気がする。

ボトムアップ的な価値観というのは、中心を持たない。指導者の人格による制限が ないから、しばしばその地域を熱狂に巻き込んで、 高い支持を勝ち取る。

ところがそこに「選挙」というルールがかぶさると、「多数である」ということは、 必ずしも「多数の議員が当選する」という結果に結びつかない。

同じ得票数であるなら、ある地域で圧勝して、1位当選の議員を一人作り出すより、 投票者を効率よく配分して、いくつかの地域で2位とか3位で当選した議員を 多数送り込んだほうが、議会での発言力は強くなる。

ボトムアップの欠点というのは、それが生じる場所をコントロールできないこと。

税金の無駄だから、国会議員を減らそうという動きがあるけれど、 その流れで一番徳をするのは、たぶんトップダウン的なシステムを持つ集団。

新しい世代の人達が発言力を持とうと思ったら、非効率を承知で、 国に「国会議員をもっと増やしましょう」と働きかけたほうがいいのかもしれない。

結束力を高める「罰則」と「権威」

結束力の強い、トップダウン型の組織を維持する原動力になっているのは、 「罰則」と「権威」 という2つのメカニズム。

同じ学会であっても、内科学会なんかには罰則なんかないし、 入会も大会も自由。

むこうはそうは行かない。上層部の方針に逆らうことなんか許される雰囲気ではないし、 退会しようと思ったら、いろんな方面からの圧力や、罰則は必至。

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司教は罰を下す。カトリックを題材にした物語では、 指導者は厳しい人物として描かれる。

求心力を増すためのもう一つの機構が、権威が付与する正当性。

医師や公務員が叩かれて、現場がどんどんやる気を失ったりしているれけど、 あれはある意味マスコミのせいなんかじゃなくて、上層部の責任。

医療の偉い人とか、あるいは公務員を統括する官僚なんかが 「我々が正しい。外野は放置しておけばいい」と言い切ってくれれば、 現場の士気は保たれる。上層部さえブレなければ、外野の声というのは むしろ集団の結束力を強くする。

今の医師会とか、単純に兵隊の位が上になっただけの普通の人が統率している印象。 たしかに立場は「長」なんだけれど、それが宗教的権威として正当化されていないから、 末端もまたトップの言葉を信じられない。

医師会長とか、事務次官の人とか、もっと「儀式」の力を信じて、引継ぎなんかを もっと派手にやったほうがいいと思う。

今の選挙ルールでは、「マス」を求める戦略と、「結束力」を求める 戦略とがあって、たとえ数で圧勝できたとしても、 結束力の戦いでひっくり返されてしまうから、どうしても旧勢力に負けてしまう。

医療過誤裁判とか、最近のWinny判決とか、ネット世界では様々な角度からの批判が とりあげられているけれど、政治世界との乖離は大きくなる一方。 時代が進んで、世論が多様化すればするほど、 政治の世界で力を増すのが単一の志向性を持った少数意見。

選挙制度が画期的に変更されるのでない限り、力を持ちつづけるのが、泥臭い、伝統的な 選挙戦術。時代には逆行してしまうけれど、先祖返りをして、あえて結束力を求める戦略、 裏切りの罰則とか、宗教的権威といったものを、偉い人はもっと考えてもいいと思うんだけれど。