「話が見える」ためには記憶の想起が必要な件
話が見えない理由
「先生、403号室の○○さんの検査のことなんですが…」
病棟からのPHS が鳴って、その「○○さん」の件が全く分からなくて、 「話が見えません」と聞き返すことしばしば。
その患者さんの主治医は自分。検査をオーダーしたのは、もちろん主治医。でも「見えない」。
なんでなんだろうと思っていたら、「記憶の想起」のしかたというのが、 職種ごとに違うためなんだと気がついた。
- 医師は、患者さんを経過で記憶するから、「病名」と「今までの出来事」で想起する
- 看護師さんは病棟の住人だから、患者さんを「名前」と「部屋番号」で想起する
医師は人につくけれど、看護職の人は場所につく。
時間軸を重んじる歴史的な理解のしかたと、属性や部屋番号のような地理的理解。
同じ患者さんを見ていても、その理解のやりかたは異なる。
だから「見えない」。
記憶をアフォードしてくれるもの
同じ病人であっても、医師と看護師とでは同じものを見ていない。
「患者さん個人」という一つの概念。
人間一人をありのまま記憶するのは無理。頭のメモリーは少なすぎるから。
たぶんみんな、誰かを記憶するときには、 その人が「何かの不自由さ」に対してどう反応するのか、 それを想像して記憶の引き金に利用している。
- 医師の診る患者さんというのは、「医師の場所」という不自由さに対応して、時間軸を泳いでいる
- ナースの見る患者さんというのは、「時間が限られる交代勤務」という不自由さに対応して、同じ場所に立っている
泳いでいる患者さんと、立っている患者さん。
同じ個人に対してであっても、立場が違えば、その人に対して付加される「不自由さ」はみんな違う。
泳いでいる人をみて、その人が立っている情景を想像するのはけっこう難しい。
「コミュニケーション能力」という言葉にはいろいろな意味があるけれど、分かりやすい話をする、 あるいは「話が見えやすい」という意味でこの言葉を用いたときには、記憶のしかたと、 編集力みたいなものがかかわってくる。
- 会話している相手は、泳いでいる人を見ているのか、それとも立っている人をみているのか、 それを察することができるかどうか
- 自分の頭の中で「泳いでいる」話題を編集して、相手に「立っている」話題として提供できるかどうか
「話を見せる」ためには、情報の共有だけでは全然足りない。 情報は、その人ごとに興味が持てる形で、頭の中に再構築できなければ意味が無い。
話が見える人、あるいは意味の共有が上手な人というのは、 誰がどんな形の情報理解のしかたをするのかを理解して、 その人の好む形に情報を編集するのが上手。
正しい想起の生む記憶
記憶が不自由だ。
30人持ち。誰がどんな病気を持っていて、どんなことで悩んでいるのか。
意識がアクセスできる記憶の量というのは本当に少なくて、30人分の記憶を置いておくなんて無理。
じゃあどうしているのかといえば、この数年は「忘れる」ことにしている。
一人の患者さんと会って、いろいろ話を聞いたらすぐに忘れて、次の○○さんのベッドに行ったら、 「○○さん専用の主治医」であったときの自分を思い出して、またおしゃべりして、また忘れて。
研修医やカルテを使って、記憶を徹底的に外部化すれば、30人ぐらいまでならメモなしで行ける。
記憶というのは不思議なもので、意識のメモリを空けて、想起のトリガーさえきちんとしておけば、 気持ち悪いぐらいにいろんなことを覚えてる。
今いる病院の年配の先生方も、「先生が10年前に脾弯曲部の結腸切除を行って、横隔膜浸潤があって 剥離に難渋した…」なんてやりかたをすると、その人の術後経過から家族背景、 化学療法の量から病理診断名まで、すごい量の情報を記憶していて驚かされる。
その代わり、想起のやりかたを間違えてしまうと、今受け持っている患者さんの名前すら出て来ない。
最近、特に記憶が不自由。今までは、研修医の人たちが、自分の記憶を想起する役を 負っていてくれたらしいことに気がついたのは、大学を離れてからのこと。
おかげで今、すごく大変。
今やっていること
もともとカルテというのは「未来の自分に対するお手紙」だと思って書いている。
昔からの習慣で、患者名と病名、検査や点滴のオーダーとは別に、オーダー用紙には「方針」 とか、「戦略」を付け加えて、そこにいろいろ書くことにしている。
- 5日以内に○○病院に転送させます
- 家族が納得してくれたらお看取りで行きます
- 要注意家族なので、できることは全部やる方針で
- 抗生剤点滴5日間、以降内服に切り替えて11月中にリハ棟、だいたい1ヶ月で在宅へ
こんな内容。
研修医がいなくなった今、自分の記憶をサポートしてくれる人がいないので、 今は暫定的に、看護師さんにここを読みあげてもらっている。
電話口であっても、病名と「戦略」を読んでもらうと、たいていの患者さんは何とか思い出せる。
残念ながら、それだけでは医師個人の需要は満たしても、相手に理解をしてもらっているわけでは ないから、まだ片手落ち。
どうすればいいのか
本当の専門家。単に詳しいだけではなくて、いろいろな人から頼られる役に立つ人。
こういう人は、いろいろな知識を可能な限り「不自由さ」を付加しない形で記憶していて、 その話題が「泳いだ」姿、「走った」姿、「思いものを持ち上げている」姿というのを リアルに想像できて、相手にそれを伝える能力が優れているのではないかと思う。
昔、ムツゴロウさんのエッセイか何かで、「鯨の種類を100種類いえる子供よりも、 本物の鯨を1種類見たことのある子供の方が、何倍も貴重で、面白い話を語れる」 なんていう内容のことを書いていた。
当時は厨房だったから、「どう考えたって知識100倍持ってる奴の勝ちだろ」なんて 考えてたけれど、やっぱり逆。
鯨の知識をネットで調べるのは簡単だけれど、本物に出会うというのは「どう」なのか。
検索しても分からないことを語れる人こそが専門家。人を集められるのは、そういう話ができる人。
閉鎖に対する、開放。閉ざされたサークルに対する、徹頭徹尾わからない人々に向けて開かれているコミュニケーション。そこがオタクとスペシャリストを分ける分水嶺だと千住さんは言うのである。 スペシャリストとオタクはどこが違うかより引用
医者は、患者さんのことを経過で記憶していて、過去のことから未来のことを予測して、 それに応じていろいろな検査や治療を組んでいく。そういう「歴史の面白さ」、医師のそうした思考過程 を他の職種の人に面白がってもらって、理解してもらうのが正解なのだろうけれど、やはり難しい。
みんな忙しいし、自分の「面白がりかた」というものが、決定的に足りていなくて、 会話の相手を自分の土俵に引っ張る力がまだまだ足りない。
効率を追求していくと、結局突き当たるのが「面白がる力」の壁。
もっと面白がっている人は、きっとどこかにいるはず。