理解と信仰

オカルトというのは、現象の理解に科学を用いるのではなくて、非科学を用いる体系のこと。

その目的は、怪しげな魔術とか、神話の盲信ではなくて、あくまでも現象の理解。

ここを間違えると、おかしな方向に突っ走る。

信仰も理解の手段

オカルトも科学も同じ。

術者のやったことが無効なら、その行為に意味はないと判断されるのは、科学と同じ。 失敗した術者は立場を失うから、その失敗はしばしば「信仰の不足」のせいにされるけれど。

誠実な術者は、常に自分の体系を信じているし、失敗の原因を他人に求めるような真似はしない。

フィリピンの有名な心霊治療師の女性で、あるとき「パワーが出なくなった」から、 斧で自分の手を切り落として しまった人がいる。そうしたら、断端からまた出るようになったとか。

彼女のやったことは狂信から来た行為だけれど、自分の引きおこした神秘を 現象として体験して、それを誰よりも理解していたのも、彼女自身だったのだと思う。

信仰というのは、神様という現象を理解するための手段であって、 誰かに盲信を強要するものではないはず。

宗教を主催する人へ

癌を治すと謳う新興宗教に財産を捧げたあげく、癌が悪くなって入院してくる人がいた。

「信仰していたのになぜ?」と問うても、「あんたの信仰が足りなかったから」と 教団の人からダメ出し。

落ち込んでいた。

同じ信用商売として、これはやっぱりひどいと思う。

同じ効かない言い訳であっても、「私のパワーが不足していた。 まだまだ修行が足りない。一緒に祈ろう。」 とでも言ってくれれば、こちらにも慰めようもあるのだけれど。

真○教のトップの人は、ぜひとも一度、放射線医学総合研究所重粒子加速器と真っ向勝負をして、自分に向かってくる重粒子を光の力ではね返してみせてほしい。

西洋医学に喧嘩を売る宗教家ならば、やっぱり一度は医学と対決すべき。

最大出力の加速器から飛ばされた炭素原子を、教祖が信仰の力で止めてみせる。

止められた重粒子から放たれる電子は、たぶん教祖の手のひらを青く輝かせるはず。

手からチェレンコフ光を発する者」に対してなら、どんな学者もその前にひれ伏す。

不信心な医者だって、きっと奇蹟の力を信じるよ。