美しい道具

道具の美しさや洗練というのは、その代償に進歩を放棄しないといけないのかもしない。

内視鏡黎明期

胃カメラを習ってる。

師匠は、もう70近く。NHKプロジェクトX」に内視鏡の特集があったけれど、 あれに出てくる先生方を素で知っている世代。

昔の胃カメラはひどかったのだそうだ。

形は今の内視鏡に似ていても、ただ先端にカメラがついているだけ。 検査中は、もちろん胃の中がどうなっているのかを見ることはできず、 フィルムを現像してみないと、自分達が何を見たのかすら分からない。

不細工な道具。

昔は、オリンパスの技術者と、現場の医師との会合が定期的にあったそうだ。

  • この使いずらい胃カメラをどうやって現場で使いこなしているのか
  • どこをどう改良すれば、もっと使いやすくなるのか
  • それは技術的に可能なものなのか

連絡を密にとることで道具が進歩し、胃カメラが日本のお家芸になったころ、 実際の映像を目で見ながら検査ができる内視鏡が開発され、現在のCCD 内視鏡へ。

道具は進歩したけれど、もう技術者と医師とが対話を持つ機会は ほとんど無いらしい。

昔の心カテ

昔のカテーテルはまっすぐだった。

患者さんの胸部単純写真を見ながら、「たぶんこんな感じだろう」 とカテをドライヤーであぶって曲げて、それを検査に使う。

非常に使いにくかったのだそうだ。

不細工な、使いにくい道具を使いこなしていく中で、 「このあたりがもっと硬ければ」「ここがもっと柔らかければ」といった要望が いくつも出され、メーカーの方がそれを受けて、カテーテルを改良していった。

一見すると単なる管だけれど、今のカテーテルは、手元から先端に行く間に 材質が変わっている。だいたい3種類から4種類。過去の改良の積み重ね。

研修医を終えて後年のとき、今まで以上に細いカテーテルをメーカーが試作してきた。

内科と小児科が全然別物なように、スケールダウンという行為の先には 全く別の世界が広がる。

最初に作ってきたのは、今までのカテーテルをそのまま細くしたもの。

これは心臓からの血流に負けてしまい、心臓に届かせることすら難しい代物だった。

どうすれば、これが「使いもの」になるのか。

結局役に立ったのが、心臓カテーテル検査を黎明期からやっていた、ベテランの先生方の アドバイス

最終的に出来上がったのは、今までのカテーテル延長には全く無いもの。

見た目は全く一緒で、少し細いだけ。でも、シャフトの材質とか、カテの「」の硬さとか、 カテーテルに込められたノウハウは、全く別物。

若手は見てるだけ。

自分達の世代は、すでに出来上がった道具を使う。より上手に使ってみようという、 「洗練」の努力はできても、道具はすでに使いやすく改良されているから、 「使いこなし」の努力はできない。

もっと良くしてよ」とは言えても、「ここを治せばもっと良くなる」という台詞がいえるのは、 不具合だらけの道具を使いこなして改良してきた、ベテランの方々だけだった。

世代は交代しつつあって、たぶん手技なんかも若手のほうが洗練されているのだろうけれど、 道具を改良できる人は、もう少ないかもしれない。

改良されて困ることをけなしていないか?

洗練をきわめた医師は、しばしば道具の進化を疎外する。

道具の進歩が落ち着くと、今度は「いかに上手にそれを使うか」という、 洗練の競争だけが残る。

現場のレッドオーシャン化。

こうなってしまうと、道具がより使いやすく進歩することは、今の場所に安住している 医師にとっては脅威にすらなってしまう。

心音図。

もう誰もやらなくなった検査だけれど、昔はどこの病院にもこの検査をする機械があって、 朝一番に患者の心音図を用意するのが、レジデントの習慣だったりした。学会だってあった。

原始的な心エコーが開発されて、当時の心音図の権威の先生方にこの機械を見せたときには、 「こんなもの必要ない」と一笑に付されたそうだ。

そのうち、何人かの医師は心エコーの可能性に気がついてそちらに移り、最後は 学会が分裂する騒ぎになって、心音図は滅んだ。

うちの県内でも、たぶん大学に1台残っているのが最後。

技術革新は技術者ではなくマーケットが起こすのか

ダブルバルーン内視鏡

「小腸までのぞける胃カメラ」として最近マスコミに取り上げられているけれど、 アイデア自体は昔からあったもの。

単に、みんな「必要ない」と思ったから、作らなかっただけ(追記:実際のところ、 「小腸を見たい」と言う欲求自体が普段の臨床でほとんどありません。小腸内視鏡は、 べつに消化器の先生の怠慢から作られなかったんじゃなくて、単純に需要が少なかったから 作られなかったといったほうが正しいです)。

この「必要ない」という感覚というのが、すでに進歩に対して抵抗勢力化している医師の陥る罠 なのだろうけれど、この内視鏡を実際見ても、あっけないほど簡単な構造をしていて、 正直あんまり「かっこいい」道具には見えない。

内視鏡の分野で、「洗練」の競争が一番激しいのが、大腸内視鏡の世界。

いわゆる「胃カメラ」は、道具が良くなって本当に誰でも出来る検査になったけれど、 大腸を観察するのはあいかわらず難しい。

術者ごとの「腕」の差がもろに出て、上手な術者とそうで無い人、検査時間からして全然ちがう。

本当は、「もっと挿入しやすい大腸内視鏡がほしい」という要望が現場から出たって不思議は 無いのだけれど、そういう声は無い。

内視鏡を習っている師匠にいわせると、ダブルバルーン内視鏡の技術を使うと、 たぶん大腸内視鏡は相当簡単になる(もの自体はある)だろうけれど、 たぶんそれが現場で広まることは 無いだろう…と。

大腸カメラの挿入法というのは、大学ごと、 あるいは術者の「流派」ごとに洗練された作法みたいなものが もう出来上がっていて、それを修行することで、医師は大腸カメラを扱えるようになる。

大腸カメラは「プロのためのツール」としてすでに完成しているから、 「あえてそれを使おうという術者は、たぶん出てこないでしょう」とのこと。

ダブルバルーン内視鏡は、見た目は不恰好だけれど、もしかしたら 「研修医でも使える大腸カメラ」となる可能性がある。

ところが、そんなものには「マーケット」たる医療現場からの需要がないから、進歩がおきない。

もしも近い将来、何かのきっかけで「大腸カメラブーム」なんていうものが おきて、日本中でカメラが3ヶ月待ちなんていう事態になれば、 あるいは道具の進歩が進むのかもしれない。

ドリルを買いにきた客が本当に欲しいのは、ドリルじゃなくて「穴」

使い古された有名な言葉。

現状に満足している自分というのは、「ドリルの使いかた」には 習熟したけれど、その一方で「穴を開けてどうしたいのか」という欲求を忘れてしまって、 何かを使いこなしたり、改良したりする目を曇らせてしまっているのかもしれない。

臨床の現場には、きっとまだまだ「穴」に対する需要が落ちているはず。