社会の自然治癒力

万象すべからく数理上に在り

正しい理論を重ねた先には、正しい結果が待っている。

「打ち上げの全ては方程式で導き出せる」 「飛ばなくなる要素を付け加えない限り、絶対に成功する」

漫画「なつのロケット」で、液体燃料ロケットを選択した主人公達は、こんな宣言をした。

これは従来からの科学理論。

物理化学や数学、工学やコンピューター科学あたりまでは、たぶん科学というのは 決定論的な性格を持つ。正しいことをやれば正しい結果にたどりつくし、 間違った要素が入れば、失敗する。

医学も一応科学。でも、「正しい結果」にたどりつくための道筋は、他の分野とは大分異なる。

  • 正しいことを積み重ねても、それが正しい結果にたどりつくとは限らない
  • 適当にやっても、案外正しい結果になることが多い
  • 結果は「だいたいこのあたり」という範囲に落ち着くところまでは読めても、「ここ」 という正確な場所までは分からない

時間軸の問題も大事。

短期的に最善な結果を出せる治療は、しばしば長期的には悪い結果を生んだりする。

極端な話、予防医学をいくら一生懸命行ったところで、人はいつか死ぬ。 だから、予防に力を入れる態度は、総医療費の抑制には全くつながらない。

予測不可能性。拡散散逸系。ストレンジアトラクタ

複雑系科学のこうしたバズワードは、病院で仕事をしていると、 けっこうリアルに実感できたりする。

「正しい結果」に至る道筋

だいたい問題なんてひとつで終わる人のほうが少ないから、 プランはいくつも候補が上がる。

患者さんを診察して、解決しなくてはならない問題点を洗い出して。

一つの臓器の問題を解決するための手段は、大きく「松竹梅」の3コース。

  • 「松」コースは、その臓器の問題解決に全力をあげて、他の臓器への負担を容認する
  • 「竹」コースは、全身に負担をかけない範囲で、問題解決の方法を探る
  • 「梅」コースは、とりあえず患者さんが死なないように、その問題を先送りする

何とかしないといけない問題が2つあったとして、考えられる「プラン」というのは、 3×3で9とおり。

「松-松」とか「梅-梅」プランなんていうのはありえないから、 実際に使えるプランは、9のうち5つぐらい。

他の科学分野だと、「正解」は一つなんだけれど、医学の分野は逆。

プランが5つあったとして、そのうち4つは、だいたい「正解」にたどりつける。 それぞれのプランには患者さんとの相性みたいなものがあって、たいていどれか一つは全然ダメ。

どのプランが駄目なのかは人によってバラバラ。考えても無駄だから、候補の中から 適当に選択して、無理そうならばさっさと別のプランに変える。

距離が変われば、最適なプランもどんどん変わる。目標が遠いときには理想的だったプランも、 目標が目の前に迫ってくると、どうも上手く行かなかったりする。最後は現物あわせ。

お祈りの必要なとき

正解にいたる道筋が思いつくまでの時間というのは、ごく短時間。 考えつくと言うよりは思い出す作業だから、そんなに頭は使わない。

「正解」というのが治癒でなくて、どこか専門機関に紹介するとか、他の先生に問題を押し付けるとか、 そういう後ろ向きな解答に至ることも含めて、「自分にできることとそうでないこと」それさえ 把握できていれば、そんなに迷わない。

怖いのが、「プラン」が全く浮かばないとき。

自分の頭の調子が悪かったり、何か必要なデータが欠けていたり。 こんなときには、一度仕切りなおして、自分が信仰する「確率論の神様」に 祈りを捧げてから、もう一度ベッドサイドへ。

医療の分野では、「生データ」は本当に生きている人だから、 やっぱりそれに当たるのが確実。こんなときばかりは、生化学検査の数字とか、 画像診断をいくらながめていても、あんまり上手く行かない。

自然治癒力というやっかいなもの

厳密な化学の分野と、あいまいな医学とを分けている原動力になっているのが、 「生体は自然治癒する」という要素。

正しい手術さえできれば正しく患者が治る、医療の分野では比較的厳密な、 「外科」においても、その治療というのは組織を切除して、適当に縫いあわせてくるだけ。

細かい隙間は残るし、糸なんかも放置したままだけれど、生体はそうした隙間を勝手に埋めて、 異物を受け入れて、「新しいバランス」を見つけて、そこで落ち着く。

6気筒の乗用車のエンジンを、「ノミと金槌」で2気筒削って安静にしておいたら、 いつのまにか排気系が順応して、「4気筒の乗用車」として落ち着いた。

自動車工学なんかではありえない現象は、医学ではあたりまえ。

自然治癒力は本当に便利なんだけれど、これがあるからこそ結果が読めず、 最後の「詰め」が失敗することもしばしば。自己免疫疾患とか、喘息の人なんかは、 この力こそが敵だったりするし。

「波動理論」とか全然信じる気はないのだけれど、生体には「周期」みたいなものがある。

原発巣の切除後に転移巣が急に大きくなる、俗に「癌が怒った」という表現は 全国区のスラングだし、上手な、あるいは「引きの強い」医師というのはやっぱりいて、 見た目に同じ事をしているし、それを本人も認めているのに、何故かその人が処方した 薬というのは治癒率が良かったり。

オカルト8割だけれど、たぶんやっぱり「何か」あるんだと思う。

ここから先は妄想。

自然治癒力というのは非常に勤勉に見えるけれど、たぶん案外「飽きっぽい」。

細菌感染にしても、人工血管なんかの異物にしても、何とか体を維持して一定期間が過ぎると、 生体はそれをむしろ受け入れるような振舞いをする。

実際問題、ある種の疾患の「治療」というのは単なる対象療法でしかないのに、 たしかに患者さんは退院にまでこぎつける。それは自然治癒力のおかげともいえるけれど、 むしろ「自然治癒力が自分をいじめるのに飽きた」から退院できたともいえる。

「分からないときには現状維持」というのは内科の鉄則。

「分からなさ」の原因になっているのは たいていはこの自然治癒力だから、そいつが飽きると、やっと問題解決の道筋が見えてきたりすることもある。

社会はどちらに近いのか

医療崩壊の話。

理論的には、もう医療崩壊への道筋というのは「明らか」で、マスコミも、専門の先生方の Weblog でも、「崩壊以後」の話題が取り上げられていたり。

状況はたしかにどんどん悪くなっていて、世の中明らかに間違った方向に突っ走っていて。

でも、本当に滅ぶんだろうか?

たとえば、自動車のエンジンの中にネジを1本忘れてきたら、たぶんその車はすぐに壊れる。

ネジはピストンの内面を傷つけたり、歯車の間に挟まったりして、エンジン全体を破壊してしまう。

ところが、同じ「ネジ1本」を、人体の中に落としてきても、案外大丈夫。

骨折はネジ止めするし、腹腔内に落ちたネジだって、異物反応の末に線維芽細胞が被覆して、 たぶんそのまま。感染さえおこさなければ、たぶん大丈夫。

打たれようが、刺されようが、とりあえずの「止血」さえできて、急性期を乗り越えられれば、 生体は丈夫。場当たり的な、その場限りの治療を重ねさえすれば、勝手に「治癒」が見えてくる。

自動車と人体。

「社会」、あるいは医療という大きな物体は、どちらに近いのか。

医療崩壊の話題というのはもうずいぶん前から言われていて、 以前はうちも「日本の医療はもう駄目だ」とさんざん煽ったけれど、 今でも何とかなっている。

2ちゃんねる医療崩壊スレッドも、以前よく見かけたハンドルネームの先生方は少なくなった。

病院を移ったとか、大学院を卒業したとか、理由はきっといろいろあるのだろうけれど、 「飽きた」というのもきっと大きな理由。

状況はたしかに悪くなった。

ちょっと前まではそんなに忙しくなかったのに、今では常時30人持ち。 病棟の充填率は90%を割ることは少なくなり、土日も無いも同然の週、しばしば。

先週末から今週にかけて、けっこう大変だった。

それでもけっこう何とかなってる。使命感だとか、名誉だとか、そんなんじゃなしに、 単に仕事として、「こんなもんだ」という気分で淡々と。

自分の意思をネットで表明する人なんて本当にわずかな割合だから、 「サイレントマジョリティーの意見を考慮すれば」、もっと忙しくなってもそのまんまな人、 本当はものすごく多いんじゃないだろうか。

実際のところ、産科や小児科をはじめとした医療制度は明らかに崩壊しかかっていて、 みんなのやる気が地に落ちていたり、何よりも後継者がもう育っていなかったり、問題山積み。

医療という制度が工業製品に近いものならば、とっくに崩壊していてもおかしくないレベル。

でも、「社会」に対する「絆創膏」の効果というものもまた、 たぶん人体以上に強力。

全ては絆創膏の導くまま

絆創膏というのは、本当に場当たり的な、表面だけ取り繕う治療手段。根本的な解決には程遠い。

それでも、絆創膏でベタベタに表面を固めてしまえば、形だけは取り繕える。 医療制度の「自然治癒力」の担い手たる医師は、そのうち「飽きて」、 きっとその形の中で、淡々と中身を治す。そんな気がする。

制度は変化したり、あるいは崩壊していったりするのだろうけれど、その速度はきっと穏やか。

「穏やか」という言葉もまた、時間軸をどう取るかで受け取られかたが全くちがう、卑怯な言葉。

劇的な崩壊が生じる可能性ももちろんあるのだろうけれど、 そこは「人体にはアナフィラキシーがある」 と逃げておく。

怖いのは、厚生省が「絆創膏」に飽きたらず、「注射」を使って医療制度を根本的に改めようとしたとき。

絆創膏を何百枚張ったって「かぶれる」だけだけれど、注射は別。 蜂に刺されたって、人間は運が悪ければ本当に死んじゃう。

制度の抜本的な改革というのは効果よりもリスクのほうが高い。

たぶん、正解は場当たり的な局所の対策の 積み重ねのその先、絆創膏でベタベタに固めただけの、 汚らしく仕上がった、古臭くて不細工な制度の継続。

「エレガントな解法一発で完治」というのは気分がいいけれど、 「人体」に適用するのにはどこか無理があって、 どうしても「汚く」アレンジすることが欠かせない。

最後はきっと、厚生省の人達が、自分達が築いてきた医療制度と、 その「自然治癒力」をどこまで信じきれるかどうか。

何とかなるんじゃないか。

最近はバカみたいに信じてる。