それはまた別の話

新聞記者の文章は技術のたまもの

短い文章を書くのは本当に難しい。

なあに、かえって免疫力がつく」の名フレーズを産んだ東京新聞の社説。 あれだって生半可な技術では、絶対に書けない。

たかだか1000字ちょっとの分量で問題を分かりやすく解説して、 作者の経験に照らした感想を結語に入れて、あまつさえ 読者の想像を刺激する突っ込みどころを作っておいて、 いろいろな人から反響をもらう文章にする。

はなれ業。よほど訓練を受けた人でないと、ああいう結果は作れない。

新聞記者の文章というのは、無駄のない文章を書くという技術においては最高峰だ。

文豪ヘミングウェイは、かつて何年間か新聞社に弟子入りした。

見てくれ!!一片の脂肪もない、100% 筋肉だけの文章だ」と、 そのあと書き上げたのが、かの「老人と海」だった(うろ覚えだけど)そうだ。

従来の文章作法では、必然性のない動作やセリフは「脂肪」であり、 削ぎ落とすべき悪だった。

ところが、こうした文章作法を継承するのには経験が必要で、新人は、ベテランには絶対勝てない。 短い文章を書くのは難しくて、その技術を磨くのには相当な努力がいって、 よほど優れた人でないと、社説を書く論説委員にまで登りつめるのは難しい。

社説じゃなくて、小説の世界なんかでも、たぶん同じ。

物語に対する必然性

従来型の物語にとって、必然性というのは絶対にはずせない要素だった。

登場人物の台詞や動作というのは、物語の流れが作る必然によって規定されていて、 そこから外れた要素は全て無駄。

いい文章、名作と呼ばれる文章には無駄がない。文章を解読して、そこに隠された 作者の意図を読み取る技術は再現可能なものだから、国語の教育とか、 現代国語の試験といったものが成立する。

世界中の作家が同じ土俵で勝負して、みんなが 従来の文章作法を継承して競争する世界では、「いい」文章と「悪い」文章の 序列もはっきりしている。新人がベテランを打ち負かすのは難しい。

文章の短さとか美しさ、必然性や感染力みたいな属性での競争は厳しい。 パイの大きさは限られているし、洗練された文章は、それについていける読者が少ない。

従来の競争から外れた世界を開拓しようと思ったら、 従来必要と思われていた何かを削って、別の何かを加え、 全く新しい読者層を開拓しないといけない。

変化させるパラメーターは、以下の2つ。

  • 削るものは、物語に対する必然
  • 代わりに加わるものは、自由さと可能性

従来の名作文学、たとえば太宰の「斜陽」のキャラクターを使って2次創作をしようと思うと、 とても不便な思いをすることになる。

「斜陽」の登場人物、没落貴族の主人公とか、自殺する弟にも、 物語では語られない私生活は当然あるはず。ところが、あの物語の中での人物の「動き」や 「語り」には必然性が高すぎて、自由度がまったくない。

従来の名作文学の中では、登場人物の動きや動作は、物語の必然性の中に刻み込まれている。 それがあまりにも強いから、物語のバックグラウンドの「世界」を想像することがしばしば 難しくなったりするし、物語に対して自由な想像力を働かせることが難しい。

世界に対する必然性を持った物語

  • 従来の文学は、物語に対する必然性を重視する
  • それを放棄する変わりに、世界に対する必然性を強めた物語は、読者に自由を与えるかもしれない

物語にとっての必然を放棄して、代わりに世界に対しての必然を強力に打ち出したのは、 エンデの「はてしない物語」が最初なんじゃないかと思う。

あの長い長い物語には、「それはまた別の話」というフレーズがたくさん出てくる。

物語世界では、主人公と別れたキャラクターにもその後の生活があるし、 目的を達成した主人公にだって、その後の生活というものがある。

従来の物語の文法では、そうしたものは無駄なものとして省かれ、また物語の必然を乱すものとして 書かれなかったから、それを想像することは難しかった。

はてしない物語」は、あえて「別の話」を想像してもらう余地をたくさん残して、 読者にその世界を想像してもらうための材料をたくさん詰め込んだ。

物語に対する必然性を放棄した物語は冗長になるけれど、 その代わりに「リアルな世界」と、「自由なキャラクター」との2つを手に入れる。

ミヒャエル・エンデは、従来の物語ルールとは違った側面を打ち出すことで、 競争相手のいない、新しい読者の開拓に乗り出そうとしたんじゃないかと思う。

この本は、厚くて硬くて高くて重い。 ハードカバーのほうなんて、撲殺用の凶器に使えるぐらいに硬い。

映画化もされたぐらいに有名なわりには、高価だったからかそんなに 本が売れている印象はなかったけれど、 それでもきっと「はてしない物語」は、想定した新しい読者層の開拓には成功した。

冗長な台詞回しと、必然性の少ない、状況を楽しむためのたくさんのセリフ。

読者の自由な想像を刺激して、活発な2次創作が行われる文学領域。

つまり、こういうこと。

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結論はネットのどこかに

小説に「次世代」があるのだとしたら、 ライトノベルというのはその先端にあるのだと思う。

作者は世界観の設計と、登場人物の造形を担当して、主要なエピソードの 間隙を補間したり、あるいは登場人物の心理の解釈は、 読者の自由な想像にゆだねるやりかた。

そんな物語は、たぶん無数の解釈を生み、それが面白ければ、 ネット上で議論を生んでも、統一した答えなんか出てこないはず。

当然、現代国語の試験問題なんか作れるわけもない。「そのとき、主人公の心理を述べよ」なんていう 設問があったところで、こうした物語には無数の解釈が可能だろうから。

全文を見せないで、途中で「続きを読む」というリンクを張ってあるブログがあるけれど、 次世代の文章というのは、きっとリンクの先にあるのは、2ちゃんねる掲示板だったり、 はてなブックマークのコメント欄だったり、作者が管理するページ以外のどこか。

もしかしたらリンクした先には文章すらなくて、画像であったり、Youtubeの動画であったり。

作者の提示した世界観に対して、実世界のさまざまな立場の人が、思い思いに結論を考察する。

そこでは作者すらも「その他大勢」の一人となって自説を展開して、 正解が誰なのかなんて、誰にも分からない。

従来の文章メディアは、結論まで含んだ「完成品」を作って、水平展開した広さを競う。 次世代の文章メディアは、むしろ縦方向に展開する。

作者や、その周囲の人がお互いに相互作用して、巨大な情報ツリーを作る。

筆者に対する評価は、どれだけ大きな木を作ったか、あるいは、どれだけ「幹」に近い体験を 記載することができたのかに寄せられる。

なあに、かえって免疫力がつくの社説というのもまた、 従来の文脈では失敗なのかもしれないけれど、 読者に「東京新聞」という世界を提供した、大成功した文章であるとも言える。

あの言葉を黒歴史化しないで、「東京新聞というのは、こうしたスタンスから情報を発信する プロの記者集団です」というメッセージを象徴する言葉として大々的に用いていれば、 きっとみんな絶賛したと思うんだけれど。