影踏み鬼の2つの顔

影というのは、呪術的には本体の延長。

影踏み鬼という遊びには、「その人を捕まえる」「影の中の魔を払う」という2つの呪術的な意味がある。

文章化されて没落する企業

「エクセレントカンパニー」とか、「社長の成功法則」みたいな、提灯持ちの評論でもてはやされた 企業というのは、没落してしまうことが多いのだそうだ。

没落してしまった企業は、今度は「○○の失敗の研究」みたいな文脈で、 評論家の人の懐をもう一度潤すことになる。

  • 経験の蓄積を一般法則へと文章化する過程で、経験の大部分は単純化され、 最初からなかったことにされる
  • 出版された「自分達らしさ」のイメージを見せられてしまうと、 それに引きずられて、現実に即した自由な戦略を立てられなくなる

たぶん、こんな理由で企業や社長さんは不完全な形で文章化され、 自由を奪われるから、競争においていかれる。

影踏み鬼では、踏まれるのは本体でなくて、ただの影。それなのに、本体の自由もまた奪われて、 その人も鬼の仲間になってしまう。

文章化した考えかたというのも、本体とは関係ない、ただの影。それなのに、影は本体の動きを縛る。

概念の文章化という行為

頭の中にあるあいまいな概念を文章化するのは、本当に難しい。

「こんなはずじゃないのに」。いつもそう思う。

いろいろな人から「文章長すぎ」と指摘を受けてはいるけれど、 まだまだ全然言い足りない。

言いたいことが全部かけたと思ったことなんて、本当にわずか。 逆に、書いているうちに自分の中に何かの法則を「発見」して、はじめに想定した内容と、 全く異なった展開になったこと、何回か。

概念の伝達とは何か。こんなおしゃべりになったことがある。

もしも完全な記憶の伝達というものがありうるならば、 当然それには身体記憶や「カン」みたいなものも含まれるはず。 たとえば、研修医が内視鏡をするときに、事前に「消化器部長の○○先生」の 記憶を注入すれば、次の瞬間にはベテランの動作ができるといったように。

伝わりやすさと、頭の中の概念からの隔たりというのは、たぶん反比例する。

部長の弟子として一緒に仕事をすることと、その消化器部長の本を読むこととの間には、 すごい隔たりがある。本をいくら読んだところで、動作のコツなど分かるわけもない。

文章化する前の「概念」というものは、文章で表現できるもの以外に、 たぶん動作とか、音声とか、視覚とか、どうやっても文章で表現できない「何か」を 大量に含んだ、混沌としたもの。

頭の中身の文章化という作業は、その「概念」に強力な光を当てて、 地面に写ったの輪郭をなぞる行為だ。影は2次元情報だから分かりやすいけれど、 その過程では大量の情報が失われてしまうし、 影から本体を再現するのはまず不可能。

一貫性の罠

影はしばしば、本体を乗っ取る。

頭の中にある概念の劣化コピーにしかすぎないのに、カタチを持った文章というのは、 無視できない存在感を持つ。

方法論が文章化されて、そこから導き出される結論が一般化されるとビジネス書ができるけれど、 それにもっとも強い影響を受けるのは、たぶん取材を受けた企業であったり、社長さんであったり、 その本の取材対象となった人そのもの。

影が本体にとって代わることなんてあるはずがない。

ところが「影」の主となった人、あるいは企業が、何かを迷って自信を失ったとき、 文章として実体化された影は本体の思考を支配する。

  • 「今まで自分はこんなふうに考えて来た」
  • 「こんなとき、全盛期の自分達ならきっとこうするだろう」

一度文章として実体化した考えかたは、一種の契約として、その人の行動を後々まで縛ってしまう。 自由さを失った本体は、競合者との競争にはどうしても不利になる。

矛盾のないきれいな結論

概念というのは形を持たない。

決定というのは本来、その概念と、その場その場の状況との相互作用で生まれてくる。 そこには一般法則なんてなくて、個々の事例の積み重ねがあるだけ。

事例の蓄積には矛盾が多いし、理想的に展開した事例もあれば、グダグダの展開になった事例もあって、 きれいな結論を見出しにくい。

ところがそれでは文章にならないし、ましてや売れる本にはならないから、 評論家の人は、取材を通じて強引に結論を見出そうとする。

「踏む」という行為のもうひとつの意味は浄化

本の作者にとって、一番大切なのは取材対象の真実なんかじゃなくて、 自分の頭の中に作った必然と、そこから見出された結論。

「企業の成功法則」は、たいていの場合は取材者の頭の中に最初から出来上がっていて、 取材を通じてその結論に当てはまる事例だけを拾い上げているだけ。

だから、出来上がった本は矛盾が少なくて、分かりやすい。

真実は、作者の創作したイメージにより踏みつけられて、焼却される。

そうして出来上がった本は分かりやすくてよく売れるけれど、 その中には真実なんてほとんど残っていないから、あんまり役に立たない。

衝突するイメージの争い

たとえば医療過誤報道の取材のときなどは、病院側が述べた「事実」なんかには、 取材する側は興味がないのだそうだ。

みんな、最初から「事故に至った必然」と「そこから得られる結論」とのイメージを持って 取材に臨むから、病院側が伝えたいことは無視されるし、インタビューに答えたところで、 使われるのはそのうちの「イメージ」に合致した部分だけ。

「影踏み」のルールは、鬼が一人しかいないから、鬼の力は一方的。 ところが、「鬼」が複数になると、影踏みのルールは複雑になる。

取材を受ける側とマスコミとの間に立つ存在として、PR会社というものが注目されている。

彼らの戦略というのは2つ。

  • 取材者の持つイメージに対して、こちら側も最初からイメージを作って、 取材しやすい物語を作ってしまうこと
  • 相手の持つ取材イメージを補間する材料になるような答えかたを避けたり、 取材の会場をうまく仕切ることで、取材者のイメージが一人歩きするのを避けること

「PR会社の時代」という本の中では、こうした行為は 「真実を正しく伝える」ためのものと書かれていたけれど、 悪い言いかたをすれば、これはやはりイメージ操作の争い。生データは 別にあって、真実は公表されない。

データサーバーとしての出版社

「鬼」役の人がもっと増えて、ついには「人」と「鬼」との人数が逆転すると、 影踏み鬼はもはやゲームとして成立しなくなり、人と鬼との立場の逆転がおこるかもしれない。

文章の流通に問題のあった昔は、表現自体に「感染力」を持たせないと広まらなかったから、 どんな本でも、こうした単純化のジレンマみたいなものからは自由になれなかった。

ネットワーク時代の昨今、文章の流通コストは信じられないぐらいに下がって、 誰が書いた文章でも、数千人オーダーの人に読んでもらうのなんて簡単になった。

出版に「次世代」があるとしたら、感染力と引き換えに 創作せざるを得なかった結論とか、単純化といった行為を廃止して、 「感染作業」は思い切ってネットに任せ、面白い事例を蓄積して、 それを安価に配信するような伝えるようなやりかたができるかもしれない。

同じデータを目にしても、立場が変われば、データから見出す「必然と結論=イメージ」は みんな異なる。

取材した人は今までどおり本を出すにしても、出版社側は、取材した生データを管理して、 それに検索機能を持たせたりして、生データを参照可能にしておく。

本の作者は、もちろん自分の意見にそったデータを引用して本を書くけれど、 出版者に対価さえ払えば、他の誰かが同じデータを使って、全くちがった文章を発表したり、 あるいは本を出版したり。

データから対価を得るモデルさえうまく作れれば、ネット上の「」のエネルギーを お金に変えることができたり、出版された本に対して異論が続出しても、そうした意見の 全てから対価を得るということができるかもしれない。

本の作者というのは、主に生データの「変換」という部分で報酬を得ていたけれど、 ネットでは誰もが、同じ行為を無料でやる。質はピンからキリまでだけれど、 平均コストは間違いなく下がった。

生データ自体から対価を得るモデルが本当に可能ならば、作者の報酬というのは、 たぶん生データの面白さ自体から得られるようになる。

その流れというのは、たとえば戦場カメラマンみたいな現場仕事の人には福音をもたらすかも しれないし、生データを作れない、評論だけやっていたような人の一部を失業に追い込むかもしれない。

現場をやっているぶんには、その流れというのは決して悪いもんじゃないと思うのだが…。