陰謀論の怪物

怪物不在の陰謀論

Web2.0が殺すもの」という本を読んだ。

最近流行のWeb 2.0 とは、google や梅田某をはじめとする一部の人々の陰謀であり、 みんな彼らに踊らされ、搾取されている

こんな内容。陰謀論は昔から大好きだし、作者の論理も分かりやすくて、 ごまかしも少ないような気がしたけれど、陰謀論特有の「やっぱりそうだったのか!!」 という感激はなかった。

国際ジャーナリスト、落合信彦氏のドキュメント「20世紀最後の真実」 を貫く論理もまた、陰謀論

これは、ナチス残党が今でも潜伏する証拠をつきとめた落合氏が、彼らの姿を求めて 単身アルゼンチンの危険地帯に潜入、ナチス残党との接触に成功して、 南極にあるUFO の秘密基地の存在を明らかしていく物語。

今でも全部実話だと信じているけれど、あの本が出版された当時、 その内容の信憑性をめぐって、同級生の間で議論になった。

  • Web 2.0 という言葉を弄して、一儲けたくらもうとしている連中がいる
  • ナチスドイツの生き残りが、再び世界征服を計画して、南極にUFO 基地を作っている

実行しやすい陰謀は、圧倒的に前者。ところが、「ああ、なるほどな」と感覚できて、 物語として納得しやすいのは、圧倒的に後者のほうだ。

梅田望夫氏とナチスドイツ。2つの陰謀論で悪役として語られる「怪物」。

存在としてリアリティが高いのは、もちろん実在する梅田氏のほう。 ところが、陰謀論世界に君臨する「怪物」としてのリアリティは、 ナチスの残党の方がよっぽど高い。

陰謀論を成功させるには、論理なんて二の次。なによりも、怪物のリアリティが大事。

怪物が怪物であるための条件

  • 怪物は言葉を喋ってはならない
  • 怪物は正体不明でなければならない
  • 怪物は不死身でなければ意味がない

…某小説から。

陰謀論物語の説得力を背負う「怪物」がこの定義を外してしまうと、 怪物はただの人間となり、陰謀論は説得力を失う。

ナチスの残党。ユダヤ人やロックフェラーの陰謀。 NHK や、霞ヶ関の住人、あるいは、悪徳医者。

悲観的な話を作って、それは全部「○○が悪い」という陰謀論が流行ってる。 悪役の「○○」が怪物らしくあることで、物語はリアリティを増す。

厚生省の官僚は、毎夜真っ裸のお姉ちゃんの大腿にむしゃぶりつきながら、 ノーパンしゃぶしゃぶに舌鼓を打つそうだ

毎晩税金で遊び呆けている官僚の図というのは、しゃぶしゃぶ肉の1枚に至るまで、 リアルに想像できる。下衆な遊びにうつつを抜かす怪物としての「厚生省官僚」という存在は、 それだけリアルだからだ。

怪物認定された側の反論は、たくさんあるだろう。実際のところ、霞ヶ関は 忙しすぎて、肉喰うどころじゃないらしい。

ところが、「嘘で固めた反論」というのもまた、 みんな怪物としての存在の中に折り込み済みだから、官僚や医者がいくら反論したところで、 観客の耳には、怪物の雄叫びとしか届かない。

同じことを、たとえば「梅田望夫氏が…」なんて陰謀めいた都市伝説をでっち上げて、 ネットに発信したところで、[これはひどい]のタグをつけられて終わり。注目エントリーの端にも かからないような気がする。

Web 2.0 にはなぜ楽観論が似合うのか

Web2.0が殺すもの」の中で悪役とされたgoogle や、梅田望夫氏には、怪物としての条件が 決定的に欠けている。

  • よく喋る。ネットを通じて、あるいはblog を通じて、常にいろんなことを主張しているし、 いろいろな人とつながっている。id:umedamochioRSS リーダーに登録されているblog 管理人、 けっこういるんじゃないだろうか?
  • 正体が分かりやすい。本で指摘されているとおり、 みんな崇高な理念じゃなくて、ビジネスで行動している。 ところが、そもそもそれを隠していないから、怪物の正体不明感には結びつかない
  • 刺せばたぶん死ぬ。官僚一般、医者一般といった一般概念で括られると、 なんだか一人や二人倒したぐらいでは、何のダメージにもならないような気がしてくる。 犬を飼っているとか、散歩をしたとか酒を飲んだとか、そうした記載というのは、 人間としてのリアルさを強め、怪物のイメージを遠ざける

ネット世界では、NHK朝日新聞は、ほぼ例外なく叩かれる。

あれは、「お遊び」の要素もあるのだろうけれど、 たぶん原因になっているのは、彼らが「怪物」へと変貌しやすい要素をたくさん持っているからだ。

彼らは個人個人が何を考えているのか分からないし、「公平」とか「正義」とか、 実世界にはありえない立場から現実を論評しようとするから、 言葉がリアルでなくて、正体が分からない。 一般概念化した集団だから、なんとなく不死身っぽい。、

「秘書がやった」という政治家の発言も、政治家に不死性を与えることで、 その存在を怪物化させるきっかけになっている。

怪物性は、「やっぱりあいつらが世の中悪くした」 という陰謀論を広がる原動力になる。

Web 2.0 。この言葉が多分に広告的な意味あいが強いのは確かなんだろうけれど、 この世界にはやっぱり楽観論が似合ってる。

その理由というのは、結局のところ「人間がリアルな言葉を喋っている」という、 すごく素朴なものなんじゃないかと思う。

リアルな言葉が作る通じ合う空間

ネットでは、「きれいなジャイアン」は嫌われる。

  • 表裏がない人、「リアルな」言葉を喋る人は、たとえ悪いことを考えていても支持される
  • リアルさのない人、過去の自分の発言と矛盾したり、きれいな理念を口にしながら、 汚い面を隠す人は嫌われる

ネット時代で敵を作らないために大切なのは、自分の立ち位置をはっきりさせることと、 その場所からリアルな言葉を発信することだ。

倫理的な善悪とか、使命感とか正義感とかは、たぶんそんなに重要じゃないか、 もはや意味をなさない。

むしろ大事なのは、自分がどんな立場の人間で、何を求めて言葉を発信するのかを はっきりさせること、何を考えていて、それが実現するとどんなメリットがあって、 誰が割りを食うことになるのか、そんなことを美麗な言葉で隠さないこと、 どうやってそれを実現するのかだけじゃなくて、 自分はなんでそれをやりたいのかを一緒に語ること、そんなことなんじゃないか。

意見の集積コストがゼロに等しいネット世界では、「無難で、支持を得やすい」意見というのは、 もしかしたら全く力を持たなくなるかもしれない。

マスからニッチへ。無難さと、支持の強さとは反比例する概念となる。

それぞれのニッチにあった、 無難さから離れた意見は、強い支持を集める。 ところが、いくつものニッチをまたぐ際にその意見が変われば、 その人は瞬く間にリアルさを失い、誰からも支持されなくなってしまう。

楽観論が支配するWeb の空間でも、支持される人もいれば、叩かれる人もいる。 叩かれる人というのは、悪い連中の集まりではジャイアンになり、いい連中の集まりでは 「きれいなジャイアン」を演じようとして、 結局のところ両方の陣営から「リアルでない奴」と叩かれる。

怪物にならず、人としての自分を発信すること、リアルな言葉を発信しつづけて、 その蓄積の果てに、多くの人と通じ合うこと。

通じ合ってさえいれば、きっと本物の怪物とだって分かりあえる。

エイリアンVSプレデター

公開されたのは深夜のロードショーだったけれど、 あの時はたぶん、県内のSFホラーファンがみんな集まった。

深夜の映画館。年齢30代後半から50台の男女ばっかり。 もちろん、邪魔な子供なんか一人もいない。

スクリーンの中も外も、みんな「分かっている人」だけ。 笑うところも驚くところも、みんな一緒。

まるで、映画監督から「おかえりなさい」といわれているようだった。

内臓を撒き散らしてエイリアンに引き裂かれる人間達を 見物しながら、みんなでなんだかなつかしいような、暖かいような、 不思議に安心した空気を共有できた。

あれだけ幸せな映画体験というのは、そんなに多くはない気がする。

あのときはたぶん、スクリーンの内外では、「種」の壁すらもこえて、きっと何かが通じあっていた。