ネット時代の帝王学

昔の王様というのは、祭事から政治、裁判に至るまであらゆることを 仕切っていたから、この世のあらゆることに精通している必要があった。

帝王学というのは一般教養のこと。よい王様になってもらうために、 国中のあらゆる学者が王のまわりに集まった。

城の中庭には学者が集まり、王様の興味のおもむくままに 講義が進む。ある専門家の守備範囲を越えてしまったら、別の専門家が話を 引き継ぐ。

専門家どうしで意見が違う問題については、王様の目の前で 議論をして、王様が正しいと思うほうが「正しい」意見になる。

興味を持てば、すぐに答えが返ってくる。王様の周りには、王権がおよぶ範囲の あらゆる専門家が集められるから、その様子は膨大な知識を蓄えたインターネットと同じ。

お城の中庭にあってネットにないもの

検索エンジンが発達した。

今の時代、その気になれば誰だって、昔の王様以上の知識を引っ張れる。 議論だって活発。WebLog の時代。いろいろな分野の人同士、今は世界中で議論が続く。

ところが、世の中はそんなに変わらない。ネットをさまようことで知識は身についたけれど、 自分が帝王になったような気分、あんまりしない。

昔の帝王学と、現在のインターネット。お城の中庭にあって、ネットに欠けているのものというのは、 「王様」というわがままな権威の存在。

ネット上の議論がリベラルアーツの構築へと昇華しないのは、 それが「コンテクストをそろえた議論」になっていないからだ。

絶対王政の時代。

王様というのは神様だったから、その人を敵に回すのは死ぬのと同じ。

お城の庭では、王様を囲んで学者たちが議論をしたけれど、 学者は常に、「王様という観客」を楽しませることを考えなきゃいけなかった。

王様の興味と、自分達の学閥と、自分の信じる「真理」との両立。

たとえば王様が「地球は動いているのか?」という疑問を持ったとき、 尋ねられた物理学者は「動く」といい、 居合わせた天文学者神学者は「止まっている」と思っていたかもしれない。

「○○だから動いています」と物理学者が持論を述べ、「ですが王様…」と、神学者が反論する。

両者は議論をする。その議論には、きっとこんなルールがある。

  • 議論には勝たなくてはならない。負ければ、自分の学問は立場を失う
  • 議論は噛み合わなくてはならない。噛み合わない議論はつまらない。つまらない学者は、お城の中に居場所は無い
  • 議論は分かりやすくなくてはならない。王様そっちのけで議論を戦わせた2人の学者は、2人ともお城には居られない

「噛み合いやすく」と「分かりやすく」。

この2つの条件を満たすには、対立する学者同士の言葉を、 王様の言葉にそろえる必要がある。

同じ日本語だって、話し言葉はみんな違う。「大きな…」とか、「すごく…」とか。 同じ言葉であっても、「大きさ」や「すごさ」を感覚する量は、みんなバラバラ。

だから議論が噛み合わないし、それを聞く第3者には、もっと分からない。

言葉を合わせた議論から生まれるもの

議論をする学者と、それを聞く観客。

その場に居合わせた全ての人が、同じ文脈で会話をして、お互いの感覚を 共有しあうことが出来たなら、問題に対する解答を与える作業が無意味になる。

数式を解くという行為と、数式の意味を理解するという行為とが等価なように、 正しい問題というものの中には、最初からその解答が内包されている。

問題の完全な理解は、その必然として頭の中に解答を呼び起こす。

王様の尋ねた問題を学者が考え、その理解の過程を解体して、 王様が共有可能な言葉に置き換えることが出来たのであれば、 「問題の答え」というのは王様の心の中に自然に出来上がってくる。

識者に問題の解答をせがむ人というのは、本当は回答がほしいのではなくて、 理解のプロセスを共有したくて質問をする。

理解が得られない状況で与えられる解答というものは、それをもらったところで 消化不良の不快感しか得られない。

インターネットは答えをくれる。ところが、画面の向こうの誰かは、 自分と同じ言葉をしゃべってくれるとは限らない。

理解は常に、中途半端な形でしか共有されない。

google はまだ帝王を生み出せない。

文脈をすり合わせるのに必要なもの

演劇なんかの世界で使う「文脈」という言葉の意味は広くて、 「絶対」とか「大きな」といった言葉の感覚を共有することから、 文章のリズムや、方言の差異を吸収することまで、いろいろ。

議論する相手と、それを見守る観客。お互いの文脈を共有するためには、 結局のところは、対話を通じてでしかありえない。

昔ながらの掲示板文化。

掲示板に生息する常連の人達がお互いに対話を繰り返すことで、 その掲示板独特の「文脈」というものを築き上げ、共有してきた。

掲示板文化特有の、ネットの向こう側の匿名人に対する信頼感とか、 古参の人が言うところの「空気嫁」というのは、みんなで共有してきた「掲示板の文脈」と いうものに対する信頼による。

病気の説明なんかでも同じ。

「患者の理解力不足」と実感する出来事のほとんどは、要は医師-患者間で「文脈」というものを 共有できなかったという敗北宣言みたいなもの。

患者-医師同士で文脈を共有するには、残念ながら医学の話だけでは不足で、 むしろ相手の得意分野、 医学とは離れたおしゃべりを、どれだけ一緒に話せるかによるところのほうが大きかったりする。

たぶん大切なのは、説明の正確さや誠意といったものよりも、単純にお互いに交わした言葉の量と、 相手に対するサービス精神とか、相手の持つ「文脈」を理解して、 積極的にそれに合わせて行こうという意志 みたいなもの。

本当は、リベラルアーツとしての統計学というものを必須にして、 中学生あたりでこれを必須にすべきなのだろうけれど、 統計というのは、とにかく難しいうえにつまらない。

自分などは、もう統計で勝負することを最初からあきらめているから、 統計学なんていうものは、もっともらしくウソをつくための学問だとしか認識できない。

統計を信じられないし、それを人に説明するのはもっと無理だから、 とにかく会話の量で勝負していくしかない。

オブジェクト指向は文脈の壁を越えるのか?

ところで、「言語」以外の言葉、たとえば perl みたいなプログラム言語にも、 「文脈」みたいなものは存在するのだろうか?

「あの人の書くプログラムはどうも感覚にあわない」とかいったことはあっても、 そのプログラムの出力する数字が処理可能なものであるならば、それを 共有するのに問題はないはず。

オブジェクト指向というのは、 たぶんこういったプログラムごとの文脈を共通化することで、 コードをみんなで共有しましょうといった考えかた。

もしも、プログラム言語が「文脈(コンテキスト)」に相当する概念を 技術的に解決しているのであれば、その考えかたの一部はたとえばコミュニケーションの手段とか、 あるいは演劇論の中などに応用できるものは無いのだろうか?

プログラマーの人達の間にも、きっと人間関係のゴタゴタというのはあるのだろうけれど。。。