没入感のもたらすリアル

たぶん「リアル」と認識される根拠というのは、感覚の中心として認識される場所には無くて、 むしろ視野の端、意味をなさない言葉や音、感覚の外の「気配」みたいな場所から知覚されるのだと思う。

銀河鉄道の夜

映画銀河鉄道の夜が面白い。

プラネタリウムでしか上映できない特殊な映画。 関東だと、サンシャインシティプラネタリウムで上映中。

スクリーンはドーム。天井いっぱいに画像が広がるから、上映が始まると、視野の全域が コンピューターグラフィックスでいっぱいになる。

これが滅茶苦茶リアル。

3D 画面になっているわけでもなく、 画像の質感も、CG らしいつるっとしたものなのに、 「凄いCGを見た」ではなくて、「別の現実を見せられた」ように感覚される。

目の前を銀河鉄道が横切る画面とか、星が自分達にむかって降ってくる場面とか、 ありえないぐらいに説得力を持って、 「今見ている風景は現実だ」と認識させる。ありえないのに。

上映内容が宮沢賢治の童話だからいいようなものの、毎年アニメ映画を作ってる 某宗教団体あたりがこれで映画を作ったら、間違いなく信者が増えそう。

周辺視野と没入感

この映画にリアルさを付加した仕掛けというのはいろいろあるのだろうけれど、 たぶんもっとも貢献が大きいのが、上映場所がプラネタリウムであるということ。

映画館なら、スクリーンの中がどんなにリアルな画像であっても、 スクリーンには「端」があるし、視野の中には他の観客の頭も見える。

自分の意識が認識する「スクリーンの中」と、周辺視野が認識する「映画館の中」の 出来事とは、本質的に矛盾があるから、頭は「これは現実ではない」と判断する。

プラネタリウムの「スクリーン」の範囲は、上下左右とも180°。

視野の周辺、自分では意識していない部分にまで 作者の意図が入った画像が映されているから、自分の視覚認識の中に矛盾が生じない。

そうなると、どんなにありえない画像が上映されていようが、意識は「リアルである」と認識してしまう。

自己のイメージと周辺環境との間に矛盾が無いと、 意識というのは、どんな「リアル」でも簡単に受け入れる。

  • 私服を着ているときには元気だった人は、点滴がつながって、病衣を着せられてベッドに横になると、 とたんに「病人」となり、なんとなく元気が無くなり、 医師-患者の独特の人間関係を積極的に受け入れるようになる
  • どんなにしっかりした高齢者であっても、 施設なんかで「おじいちゃん、○○でちゅね~」なんていう 子供言葉で話しかけると、急速に痴呆が進むという
  • 手足に麻痺を生じると、患者の脳は「他人の手足がついた自分」というモデルを作って、 現実世界に適応しようとする。これが作られる前にリハをはじめないと、 麻痺した手足の回復は悪くなる

病院や施設という異質な場所と、自分の衣服や言葉といった自己認識との間にある 矛盾が外されてしまうと、意識は即座に「新しいリアル」を受け入れる準備をはじめる。

舞台におけるリアル

演劇の舞台で「リアル」を表現するには、いくつかの手順を踏む必要があるそうだ。

  1. 俳優どうしが対話をしても不自然ではない舞台を設定する
  2. 自分が行いたい「表現」をするのに必然性のある登場人物を設定する
  3. 最後に、「リアル」を表現しうる台詞を考える
  4. 台詞の順番は、「遠いイメージ」から

演劇空間での「リアル」というのは、必然性のようなものらしい。

たとえば、美術館の中という設定の舞台を作るとき、最初の台詞が 「美術館っていいなぁ」だと説明的になってしまい、観客はリアルを感じられないという。

演劇空間で美術館を表現するためには、まずは「美術館」からイメージされる言葉をいろいろ考える。

絵を見るところ。静かなところ。デートスポット。絵に群がる大勢の人。

こうしたイメージの中から、「美術館」という言葉にもっとも遠いものを選び、 そこから役者の台詞を作っていくと、自然な感じになるのだそうだ。

たとえば、カップルが黙って歩くところから舞台を開始。次に、舞台の中に絵を登場させ、 役者に「たまにはこういう所もいいだろう?」みたいな台詞をしゃべってもらい、 最後に「美術館って…」という台詞に持っていく。

平田オリザの「演劇入門」という本の中に、こんな言葉がある。

私たちは、主体的に喋っていると同時に、環境によって喋らされている。 この「喋らされている私たち」をいかに表現するか。 そこに着目したのが、新しい演劇の流れの、大きな一つの特徴だろう。

主張したいことは真ん中にあっても、それが空虚なものではないと信じられる根拠は、 むしろ周辺にこそある。

よく出来た演劇や、周辺視野の感覚をしっかり作られた映像の没入感を見せつけられると、 たとえばハイビジョンみたいな精度の高い画像を作る努力というのは、 一体何なんだろうと思ってしまう。

自分にとっての「リアル」とは

病気の状況をどんなに正確に説明しても、分かってくれない人は全く分かってくれないし、 あまつさえ「そんなこと言われても知りません!!」と怒られたりする。

医者側が「あなたにとってのリアル」を力説すればするほど、 たぶん患者側にとっては「私にとってのリアル」と、 医師が認識してほしい事態との乖離を生んでしまい、うまくいかない。

現実と非現実の境界というのは、意識の中心から境界までのどこかにあって、 たぶんそれは技術的に移動することが可能だ。

対話をしたり、あるいは誰かを説得しようと考えるとき、 「中心」のクオリティを上げる努力をする代わりに、「境界」を移動する努力、 意識の周辺のさらに外側、感覚できる限界のそのまた外まで「境界」を追いやることに 力を注ぐと、案外うまくいくのかもしれない。

表現者と鑑賞者の間での「リアル」の共有が行えるのならば、 表現者の主張したい意図というのは、たぶん鑑賞者の心の中に自然発生する。

それが、たとえば「私は癌で、もう治らないんですね…」なんかだと困るのだけれど、 最近は「うちのばあちゃんは、一生この病院で入院できるわけではないんですね…」とか、 「日本という国は、真夜中には健康診断をしてくれないんですね…」とか、 現状と、「俺様のリアル」との乖離がぶっ飛んでいる人が、相当増えて困ってる。

そんな人の「リアル」に生身で付き合うのは大変で、 病院の中にもプラネタリウムが1台あると、そのへん楽になるのかなあ…なんて思ったり。