病状説明のやりかた

夜間によく来るめまい発作の患者さんで、プラセボに依存している人がいる。

気分が悪い、動けないといいながら、スタスタ歩いて外来に来る。 生理食塩水を筋注すると、症状はすぐにおさまる。 時々、眼振を伴った本当のめまい発作をおこすことがあって、そういうときには治療の手段を 変える必要があるのだけれど、本人は「筋注してほしい」の一点張り。 他の治療薬とか、内服薬などを勧めても、「それは効かないから嫌だ」と拒絶。

生食注射したって、治るわけないのに。

この患者さんの本当の訴えは、「めまいを治してほしい」ではなくて、 寂しいとか、話を聞いてほしいとか、たぶんそういうもの。

ところが、病院には、薬だけは売るほどあっても、時間は全然ないから、 症状にかこつけて治療を開始してしまう。本人にはもともと症状なんてないし、 「本当の訴え」は解決されていないから、体よく「治された」ところで、 すぐまた救急外来にやってくる。

治療には、実務的側面と、祭事的側面との両方の要素があるけれど、 両者に乖離ができてしまうと、こんなことになる。

この人は、注射の効果は信じていても、医者のことは基本的に信じていない。 あるいは、今までの経過から、信じられない。

だから、本当に病気になったところで、もはやそれを治せる人は病院にはいない。

見たいものしか見たくない

患者の権利団体の人なんかは、 夜中でも医者が1時間ぐらい暖かく話を聞いてくれれば、 そもそもこんな状態にならないと批判するかもしれない。

研修医時代、有名な患者の権利団体の代表の方が、講演に来たことがある。

関西の方の団体だったけれど、当院の病棟や、救急外来、医療の取り組み方なんかを視察して、 そのあとで、スタッフを集めて講演をした。

批判された。

この病院は暗くて汚い。みんな白衣を着ていて、意味もなく尊大に見える。 寝ている患者さんが多くて、みんな暗い顔をしている。 患者は、もっと暖かい雰囲気の病院を求めている。 努力をして、みんなが明るい闘病生活を送れるようにしてほしい。

この団体がいろんな病院を視察した中で、理想的な医療を体現していた施設というのは、こんな工夫をしていたそうだ。

  • その病院では、誰も白衣を着ない。スタッフはみんなジャージで、職種に関係なく同じ格好をしている
  • まるで体育館のような広い部屋で、何人ものスタッフが、患者さんを囲んでミーティングを行っている
  • リハビリテーションに熱心に取り組んでいるので、寝たきりの老人なんかいない
  • 合併症が少ないから、点滴をしている患者なんかいなくて、みんなよくなって退院する

「それは、リハビリテーションの専門病院じゃないですか?」と誰かが突っ込んだら、 やっぱりそうだった。

スタッフがみんなジャージなのは、理学療法士の人がほとんどだから。体育館のような広い部屋で… というのも、リハビリのための病院なんだから、みんながリハ室に行くのはあたりまえ。

みんな元気になって退院するのも、リハビリ病院というのは、そもそもよくなる人しか取ってくれないし、 状態が悪くなった人は一般病院で引き取るから、悪い人がいないのもあたりまえ。

みんな、汚い物なんか見たくもないし、自分がそうなりたいとは思わない。

リハビリテーション専門病院というところには、たしかに「汚い」人は一人もいないから、 そこはたしかに理想の病院だった。

  • 見たくないものが見えない人と、見たくないものを何とかしなきゃならない医者。
  • 見えないものを診てほしい患者と、それを分かってて見えないふりしている医者。

相互理解は、難しい。

あなたは絶対悪くない

治療者がまずやるのは、「自分が悪い」モデル、 あるいは「その病名は汚い病気」モデルを否定することだ。

これを放置すると治療がうまく行かなくなる。

  • タバコをすったから肺がんになった
  • 自分がダメだからこんな病気になった

病気というのは理不尽なものだから、みんなどうにか理由をつけようとする。

最初に責めるのは自分。

自分を罰するモデルを作ったり、自分がその病名であることを否定しようとして、 全然違う症状を訴えてみたり。

これを否定しないと治療が始まらないのだけれど、 ところが、このモデルを否定すると、 今度はその思いの行き場が治療者の方に向かってくるから大変。

患者の思いを受け止めるのが治療者の度量だったけれど、訴訟社会の昨今、 気合だけでは受け止めきれない。

みんな医者がわるい

思いは何かに依り憑いて具現化する。

「みんな公務員が悪い」とか、「やっぱり教師が犯人か」とか。

自分の理解できない、あるいは受け入れたくない「何か」を受け入れなくてはいけない人は、 その存在の「依代(よりしろ)」になるものをさがして、 その「何か」を実体化して、責任をそいつに押し付ける。

  1. 最初は「自分」。病気になったのは、自分が悪いから
  2. 否定されたら、今度は「医者のせい」。それで、少しだけ安心できる
  3. その段階をジャンプできれば、相互理解の道が開ける

余計な思いは、実体化なんてしないで「理解」して、分解してしまうのが一番正しい。

ところが、病気になったとき、「そこで何がおきているのか」を説明することは容易でも、 「どうしてそうなるのか?」あるいは、「どうして私なのか?」を説明するのはとても難しい。

専門分化と、インフォームドコンセントの時代。病気の説明はますます煩雑になり、 その理解は困難になっている。

よいアナロジー

  • あなたの胃の中に「いぼ」のようなできものができていて、放置すると体のあちこちに転移する可能性があります
  • 癌という怪力乱神が、あなたを殺そうと画策しています

医学的により正しいのは前者。

ならば、「説明として正しい」のはどちらだろうか?

病状説明とは、医者と患者との間にバーチャルな共同体を作ることだ。

共同体を作るためには、お互いの病気のイメージや、会話の中の単語の文脈、 行間の意味のようなものをそろえて、当事者同士で共有しなくてはならない。

早期胃がんの患者と、医者。

初対面の相手同士、「胃の中のいぼ」という言葉の意味は、たぶん全くかけ離れて理解される。

「癌という悪者」という言葉は、医学用語としては今一つだけれど、 医者から見ても、患者から見ても、なんだか悪そうというイメージは共有しやすい。

たとえ話には、「距離」という概念がある。

  • 医者と患者、お互いの最短距離を結ぶ「近いアナロジー」というのは、お互いに正確で鮮明なイメージを 喚起する反面、医者は病気の悪い面、患者はよい面しか見られない危険がある
  • 病気と全く関係ない言葉を使った、「遠いアナロジー」というのは、イメージの喚起力はあいまいで、 ぼやけているけれど、医者からも患者からも遠い風景だから、イメージを共有しやすい。

説明は、遠いアナロジーから初めて、だんだんとお互いの距離に近い話、 具体的な病名や、臓器名を使った話へと距離を近づけていくとうまくいく。

ガスモチンを内服している、86才のうちの外来の患者さんは、5-HT のサブタイプを理解している。 「よく効く便秘の薬」からはじめて、セロトニンの作用のお話に至るまで、月一回の外来で、だいたい半年。

段階を踏めば、あるいは段階を踏むだけの時間的な余裕があれば、 医者のイメージの共有は、決して難しくはない。

会話のしかた

筋書きのない、即興劇の舞台を続けるコツは、相手の台詞を絶対に否定しないことなのだそうだ。

相手を叱ったり、相手の考えを否定してりすると、その時点でコミュニケーションが止まる。 言葉を反復して共感を示したり、あるいは相手の文意やたとえ話の土俵の中で、自分の考えを 伝えてみたりすると、会話がつながる。

患者さんはお客さんだから、基本的には患者さんの言葉でしゃべるようにする。

  • その検査はしたくないという人がいたら、「じゃあ出ていけ」じゃなくて、 それをやらない前提で何ができるかのプランを示して、 その検査を行ったときとの比較を示す
  • たとえば、一緒に料理をしようとして、相手がこちらの思うとおりに野菜を切ってこなかったとしたら、 その野菜を捨てるんじゃなくて、「その切り方」でカットされた野菜を用いてどんな料理が作れるかを考える

大事なのは、「なんでこんなことしたんですか?」なんていうふうに、 病人に疑問を返さないこと。

なぜ」には、疑問と否定の2つの要素が含まれている。

患者は、自分の「なぜ?」「どうして?」だけで手一杯のところに、 医療者側から「なぜ」という否定要素を突っ込まれてしまうと、 もう相手を信用できなくなってしまう。

正確と社交性

治療の方針や、患者さんの将来のボディイメージといったものは、 医者から与えられるものではなくて、お互いの関係が作り出す「場」の中から発見されるものだ。

病気に対するイメージがうまく共有されれば、その時点で大まかな治療の方針は決まる。

お互い共有できた「場」の中に内在されている治療方針が発見されて、それをお互いの言葉を使って 探索して、改変していくことで、納得できる治療の方針が固まってくる。

感覚的だけれど、教科書的に正しい治療のガイドラインの束を渡して、 「あなたの身体です。勉強して下さい」では、絶対にうまくいかない。

インフォームドコンセントの向こうにあるもの

結局のところいいたいのは、大事なのは医学的な大切さだけではなくて、 世間話のようなものも結構大事なんだということ。

本当に親密な関係になる必要は全くないけれど、病棟という劇場の中では、 お互い「役者」として、良好な関係を演じて、お互いの言葉の文意のずれを極力少なくして、 病気の先にある身体イメージを共有する。

時間さえ十分に与えられれば、決して難しくはない技術。

ところが、忙しい病棟でそれをやるのは結構大変で、とくに相手が「社会性」という仮面を 被っていないときは、逃げ出したくなるぐらい大変。

日常を社会レイヤに依存している人との会話は、非ゼロサムゲームだから、 必ずどこかに「落としどころ」があって、会話を通じてお互いにそれを探す。

ところが、そうでない人にとっては、世界というのは常にチキンランの度胸競争。 ごねたもん勝ち。なめられたら負け。 負けたら、国や地方公共団体にごねて、セーフティーネットで救ってもらう。

こういう系統の人達と、何かのイメージを共有するのは本当に難しくて、 いつも苦労する。苦労するというか、一番最初の「自分のせいだ」という本人の自責の念を増幅して、 自分の身を守るので精いっぱい。

霊感商法の人達は、こういった人をもターゲットにして壷を売ったりしているから、 あなどれない。

医者の口先なんて、まだまだ全然追いつけない。