記号になった医師の価値

ずいぶん前、島の診療所に派遣されていた医師の話。

僻地の医療に熱意があって、大学から離島の県立診療所へと派遣されていたその医師は、 あるとき学会への出張を県に願い出たらしい。

本土の学会へ出張したいので、その日1日だけ、代理の医師を派遣してもらえませんか?と 県の担当部署に申請を出したところ、出張許可自体は即座に下りた。

代理の医師の派遣は、全く決まる気配がなかった。

許可だけもらったところで、代わりの人が来なければ、島には医者がいなくなる。

その医師が県庁に問い合わせたところ、課長さんの返事はこんなものだったらしい。

「先生の役割は、書類上、その島の医師定数を『ゼロ」から『1』にすることであって、 毎日医療活動を行うことまでは期待していませんから、 休みを取っても大丈夫ですよ。」

その時は大学からの派遣だったから、そのときはそれ以上、何もいえる立場じゃなかった。

その医師は後年、義務年限が明けたあと、 今度は「ものをいう医者」として、もう一度その島の診療所へと戻っていったそうだ。

役所は査定を放棄する

世の中には、評論家とエンジニアとの2種類の人間しかいない。

父親の口癖だった。

技術系の典型のような人だったけれど、自分の研究所に「P&I Labo」 なんて 横文字つけて喜んでたから、案外文系萌えの属性もあったのかもしれない。

エンジニアという人種は、要は道具がたまたま呼吸していたようなもんだから、 「役に立ったよ」といわれるのが一番うれしい。感謝なんて大それたもんじゃなくて。

評価を行うためには、成果を数値化することは欠かせないのだけれど、 役人様の評価というのは「0」と「1」の2つの記号だけ。

よくやったとか、どれだけやったとか、そういう評価は全くなし。 その時間、そこに「いた」か「いない」か。

医者の仕事なんて、たしかに「そこにいる」ことが仕事の大部分だけれど、 国家機関の「個人の努力を一切査定しない」という態度は徹底していて、 今の時代、これをやられると本当に腐る。諸悪の根源。

ところが、性善説的に考えると、この評価システムというのは、 現場を本当に信頼しているシステムであるともいえる。

昭和50年ごろまでは、現場で働く技術者の数というのは本当に不足していて、 みんながベストを尽くすのはある意味当たり前だったのだそうだ。

天下り」という言葉も、現代でこそ悪い意味で使われるけれど、 昔は本当に神様が来てくれたような歓待ぶりだったらしい。

優秀な技術者というのは中央官庁にしかいなくて、その人が現場に降りてきてくれると、 現場の生産性というのが、本当に上がったそうだから (第5世代コンピュータとかシグマ計画とか…何だったんでしょうね)。

厚生労働省

厚労省は病院の査察と指導を行うけれど、昔の査察官というのは、 病院から出された食事には絶対に手を出さなかったのだそうだ。

病院側がどんなに豪華な食事を用意しようと、昼休みに入ると、査察官は 駅前の立ち食いそば屋まで歩いていって、そこで昼ご飯をかき込む。 それがキャリア官僚の美学だったらしい。

今はみんな、当然のように病院内でお食事。

昔はみんな、プライド高かった。悪くいえば、バカ正直すぎた。

絶対だれも信じてくれないだろうけれど、個人的には、 いまだに世の中には悪い人なんていないと信じてる。

分かってくれない人、自分と合わない人というのは絶対いるけれど、 純粋な悪人なんて、絶対いない。

ゲド戦記」には納得がいかない。

あの話、悪役が本当の悪人。何の魅力もない、単に主人公に殺されるためだけに存在する 悪役なんて、世の中にいるわけがない。

ジャーナリスト。医療評論家。県の役人。厚生労働省

医師という主人公を取り巻く「悪役」はたくさんいるけれど、やっぱりコミュニケーションの チャンネルだけは閉じたくない。いやマジで。

いずれにしても、役所サイドは、今も昔も評価方法を変えていない。

むしろ、変わったのは現場のほう。

自分も含めて現在の医師は、自分が単なる数字でいることに、 何で耐えられなくなってしまったのだろう?

数年で変わった空気

医療の崩壊という現象は、この数年で一気に進んだ。

たしかに、象徴的な事件はいくつもあった。30年ぐらいあとになったら、 歴史家はその事件をきっかけに、医療の崩壊が一気に進んだと記録を残すんだろう。

でも、現場の空気は、世間のそれとは少し違う。

研修医を指導する立場の医師も、彼らの空気が急速に変わりつつあること自体は感じてる。

それでも、たとえば「○○のような事件はどうなんですか?」とか、具体的な形での 不安の声というのは、そんなに多くない。ただただ、なんとなく熱意が感じられないとか、 臨床の泥沼に首を突っ込んで働こうとか、そういう泥臭さが感じられないとか、 漠然とした「変化」だけ。

「これだから若い奴らは…」と言っちゃうと、自分も若い人の群れから外れてしまうから、 これだけは口が裂けても言いたくないのだけれど、 とにかく急速に空気が変わった。

  • 何でもできる医者、ボロボロになって働く医者に対する視線が、急速に冷たくなった
  • 少ない労働時間でいいとか、責任が発生しにくいとか、悪い意味で「クレバー」な選択肢が、おおっぴらに語られるようになった
  • 循環器内科とか、消化器外科とか、主流派だった医師が、廊下の真ん中を歩けなくなった
  • 現在、廊下の真ん中を闊歩するのは、皮膚科や眼科

患者さんのため

若い人は笑っちゃうかもしれないけれど、ほんの5年ぐらい前までは、日本中の医者というのは 本当にこのお題目を信じていて、それを達成するためだけに命をかける人までいた。

どこの科に進むのかという問題も、労働時間とか、収入とか、そういう本当の理由じゃなくて、 みんな「これが患者さんのためになると思ったから」。こじつけだろうがなんだろうが、 その理由、または言い訳を、必死になって探したもんだった。

拘束時間の長さ。感染の危険。私生活の犠牲。

こうした要素は、厳しい科の「魅力」にこそなれ、 それが理由で人が集まらないなんていうことはありえなかった。

「医師は聖職」なんて、今では地域医療を叩き潰したくてしょうがない政治家の常套句に なってしまったけれど、ほんの少し前までは、誰よりも医師が、この言葉を信じてた。

まだそんなに昔の話じゃない。

小さくなる世界

医師、あるいは医学生個人の気質というのは、たぶんそんなに変わっていない。

相変わらず、誰もがブラックジャックを読むし、スーパードクターK の連載だって、 まだ続いてる。

この数年で、何よりも一番大きく変化したのは、 個人と個人の「隔たり」が急速に緊密になったことだと思う。

手紙や電話、電子メールや、インターネットの掲示板。

個人と個人とを結びつける手段というのは、時代とともにだんだんと増える。

個人同士の隔たりというのは、定量化できる。連絡を取れる知人は「1」。そのまた知りあいは「2」。 全ての組み合わせを計算すれば、ネットワークに参加する個人間の隔たりの平均値というものもまた、 計算できる。

通信手段の進歩とともに、個人の隔たりの平均値は小さくなる。

ここまではみんな理解していたけれど、読みが外れたのは、その速度。

世界の小さくなる速度というのは、みんなもっとゆっくり来るだろうと予想していた。現実は逆。

エンデルシュとレニエの「ランダムグラフ理論」によれば、ネットワークに参加する人の数が十分に 多いとき、「世界の隔たり」の平均値は、ある臨界を境に急速に小さくなるという。

この現象、「ネットワークの相転移」が生じると、個人の行動や決断が、 他の人に与える影響力が突如として大きくなる。

この数年間で起きた「新人の空気の変化」というのは、個人一人一人が変わったというよりも、 個人の集団であった新人医師が、この数年間を境に、急速に「一つの巨大生物」へと変貌した と理解したほうが、正しいような気がする。

以前は別の大学の噂にしかすぎなかった訴訟事例なども、 ネットワーク化した集団では、その隔たりが少なくなった。 今は、「友達の話なんだけど…」で始まる悲惨な話がゴロゴロ。 これなども、訴訟の実数が増えただけではなくて、 たぶん「友達」の数が飛躍的に増えているから。

緊密なネットワークを持った集団には、「同調圧力」が生じる。

飛びぬけてダメな人間も救済されるかわりに、飛びぬけて優秀な人間もまた、集団からは疎まれる。 集団は、一定の「模範解答」を志向する。その解答が「苦労する奴はバカ」であれば、 その意思に反して忙しい医局に進むには、従来以上の意志が必要になる。

何のことはない、公務員というのは未来の自分達だった。

自分たちが敵視してきた公務員の業界というのは、 医師が追いつく何年も前からネットワーク化が行き届いていて、 今のような「役所仕事」の体質を作り出した。

もともと競争を行う必然性が存在せず、個人個人がいい意味で「独り善がり」の 努力を続けてきたことで何とか均衡を保ってきた医療業界は、 今ネットワークの力を得、ようやく公務員のやる気のなさに「追いつこう」としている。

医療が急速に崩壊している。

現場の実数は、実はそんなに減っていなくても、今までは優秀な人なら 無理して1人でやっていた仕事も、 今は2人そろうまでは絶対に始まらない。

現場で必要な実働人数というのは、この数年、 加速度的に増加している。10人やそこらの定員増加では、間違いなく全く足らない。

医師が記号になった後

社会は変わる。あと30年ぐらいしたら。

  • たぶん、「一つの日本」はもうすぐ終わって形骸化して、社会は100人から10000人程度の 見えない「部族」ごとにまとまって、国家というものは象徴としてそれを統治するようになる
  • 雇用の形態は今までどおり残る。それとは別に、政党を選ぶように、 誰もが自分の入っている「部族」を持つ
  • 大きな部族は、その中に医療、法律の機能を内包しており、さらにその一部は 国会へ議員を送り出すだけの力を持つ
  • 部族にとっては、医師は査定が難しく、投機性の高い機能単位として取引される
  • 医師は相変わらず病院に勤めるだろうけれど、それとは別に、自分の「医師」という記号を どの部族にくっつけるか、その寄生先を探して右往左往するようになる

競争は厳しくなる。人件費の安い、海外の企業の参入も増える。

単細胞生物と、多細胞生物。

役割を分担して、大きくなれる多細胞生物というのは、生存に競争が必要で、厳しい環境に 対する適応状態として生まれてきた。

従来型の政党とは、少しだけ意味が違う。政党の目標というのは、 一種の社会革命。「部族」の目標というのは、 「生存」そのもの。それは、身内の生存を補償するための集まりだけれど、 同時に身内以外の人からは機会を奪う。この時代、機会というのは少なくて、 もはや公平なんてないだろうから。

世界はネットワーク化して、小さくなる。医師の業界もそうだけれど、他の業界はもっと 何年も前からそうなっている。

決定的に違うのは、他の業界には「競争」と「失業」というルールがあって、生存競争を 行いつつ、個人間のネットワークを維持しなくてはならないこと。

医師は今のところ、医師免許さえ持っていれば、一応失業とは無縁だから、 そのあたり決定的に違う。 一番似ている業界を探すと、たぶん弁護士と公務員。

ベンチャー企業をおこす人の間では、「起業するときには、 公務員と弁護士、医師の3つの職業に 知人を作っておけ」というのが鉄則なんだそうだ。

ベンチャー企業を成功させる人というのは、今の時代一番「目効き」の上手な人たちだから、 その人たちが公務員、弁護士、医師という3つの仕事を並列的に扱うということは、 医師の仕事というのも、もはや「記号化」しているということなんだろう。

冒頭の、島の医師を「1」という数字で査定した公務員というのは、たぶん正しいことをしている。

1年365日、その日だけ医師がいなくなったところで、島の死亡率なんて変わらない。

その島にいるのが研修医だろうが、ブラックジャック級のスーパードクターであろうが、 やっぱり島の死亡率は変わらない。

ネットワーク化した社会では、医師の能力は個人では終わらず、「誰かに紹介する」ことで、 自分の能力を補うことが可能だ。

診療所の医師がたとえ研修医だろうが、 来る患者全てを本土に紹介すれば、死亡率はそんなに変わらない。助かる人は本土で助かるし、 島で亡くなる人は、漫画みたいな名医だって、たぶん半分ぐらいしか助けられない。

伽藍からバザールへ。

これから先、国家とか、企業とか、そうした大きさ組織の力というのはだんだんと小さくなって、 いくつかの会社を転々とする人が増える。会社を離れて、「部族」の仲間に別の話を紹介して もらって、また仕事して。そんな感じ。

個人の「属性」の持つ意味は薄れる。ちょうど、フリーマーケットのように、 社会はネットワーク化して、みんな自分の技術とか、 作ったものなどを、思い思いに出品して、「現物」を評価してもらう時代。

バザールの時代というのは、技術系の人に有利だ。

「○○を作った実績」とかフリーソフトとか。農家や漁業なんて、 そもそもが物を生産する技術者だから、 出品物は収穫物そのもの。

機能が記号化してしまった職業というのは、このあたり、結構つらい。

みんながフリーウェアを発表する昨今、医者として、 自分がバザーに出品できるものというのはなんだろう…と 考えてみると、これがもう何にもないことに気づく。

  • 医療の技術というのは国家がスポンサーだから、実際に病院に来てもらわないと使えない
  • 医療相談なんて、メールだけじゃ危なっかしくて無理。「医者に行ってください」としか返事できない
  • 「ボランティア医者」なんて、責任取れるの?なんていわれたら無理。無補償の医療なんてありえないから、責任取れない
  • 人によって手を抜いたりまじめにやったり…なんてやったら、単なる犯罪者

結局のところ、自分たちが「売りに出せるもの」というのは、医師としての機能に由来した 品物ではなくて、「医師と友達になれる」という、その事実だけ。

医師が記号化する時代。技量が査定されない組織の中での自己表現とは、「早く帰ること」。 余計なことをしない。責任を背負い込まない。自分の優秀さを表現しようと思ったら、 5時になったらダッシュで病院を後にする以外に方法がない。

今多くの医師がやっている余計なサービス精神に根ざした医療、 時間外に回診するとか、夜中に病院に行くといった行動は、たぶんことごとく行われなくなる。

案外、それでも大丈夫なんじゃないかという気もするけれど。

どこかの「部族」に医師が入るとき、そのコミュニティの人達は、顔見知りとして認知され、 一種の信頼関係が生まれる。このコミュニティ相手の仕事をするときだけは、 医師は「記号」の仮面を脱いで、昔ながらのスタイルで仕事ができるようになるかもしれない。

普段手抜きしているつもりはないし、知りあい相手の診療というのは滅茶苦茶に緊張して、 必ずしもそれがベストなわけじゃないんだけれど、「売りもの」になりそうなのはこれぐらい。

「いくら頑張ったって、つけこまれるだけで評価されない。努力するだけ無駄。」

今の時代、本当にそのとおりで、どう転んだってその傾向はもっとひどくなるんだけれど、 それでも頑張ることというのは、最後は自分の身を助けるんじゃないかと思う。

医師のネットワークの中に、常に自分をおいておくこと、医師のコミュニティとは別に、 将来「部族」を率いそうな人というのを、なんとなく予想しておくことは、 何かの役に立つかもしれない。

大分先のことではあるだろうけれど。