交渉ごとにおける原資の問題

  • どんな交渉ごとにも、賭けごとでの「チップ」に相当する原資というものが存在する
  • 交渉ごとでの原資になるのは大きく3つ。社会的な地位や名誉、お金、時間のどれか
  • 交渉で何かを得ようと思ったら、「どう交渉するのか」よりも、「何を原資に交渉するのか」を考える
  • 相手が失いたくない「原資」を発見できれば、交渉の上手下手に関係なく有利な結果を得られる

ポーカーにはバンクロールが必要

交渉ごとのやりかたを考えるときには、 「ディベートの力」とか、「言い回し」といったテクニック的なもの だけではなく、相手と自分との「原資」の差というものを常に考えないといけない。

原資を考えに入れない交渉というのは、チップをかけないでポーカーゲームをやるようなもので、 ゲームとしては片手落ちだ。

プロのギャンブラーの人達の大会では、大会前にどれだけの資金を集められるかが勝負を左右する。

プロだから、賭けるのは現金。

集められる現金の量というのは、その人の普段の勝率とか、その人がギャンブラーの社会で どれだけ信用されているのかといったものを厳格に反映する。

ポーカーでの原資、バンクロールが対等でない相手とは、最初から勝負にならない。

どんなに腕に自信があっても、10億持ってきた相手に1000万円の現金しか持っていなければ、 相手がポーカーの素人であっても、勝負には負けてしまう。

相手が続けざまに1000万円ずつ勝負してくれば、 全財産が1000万円しかないほうは、1回降りればもう破産。 どんな名手だって勝負にならない。

原資になる3つの要素

原資とは、交渉者の強さのよりどころになっているものだ。

具体的には以下の3つ。

  • 社会的な立場の強さ
  • 持っているお金の多さ
  • 交渉ごとにかけられる時間の多さ

たぶん、「持っている夢の大きさ」なんていうのは、本当は最強の 原資で、世の中のすごい人達はこの原資の大きさが とてつもなく大きいんだろうけれど、自分には夢を原資に使う方法が分からない。

夢のない話。

交渉力の最初は原資をそろえること

交渉相手が必要な「何か」を持っているとき、その「何か」が欲しくて交渉が始まる。

交渉の目的と原資が一致する交渉、「あなたのその地位を下さい」とか、 「あなたのお金を下さい」というのもあるけれど、 普通はその人に何かをしてほしいとか、自分のやることに協力してほしいとか、 交渉を通じて得たいものは、原資とは別のもの。

何かの交渉をするときは、原資の量を少なくとも同じにするか、相手よりも上回らないと、 そもそも交渉の席につくことすらできない。

たとえば病院での、転科の交渉。

医学的にはそれがどんなに正しい要請であっても、内科側の交渉人が研修医1人で、 相手の科が教授回診の真っ最中だったら、もうその時点で負けは決定。

転科の交渉は、立場の強さが原資。 交渉を開始するなら、白衣を着た人間の数をそろえるのは最低条件。

弱い原資を武器にする

相手と自分との交渉力の差が決定的に開いていても、 相手に不利な原資を見つけて、それを交渉に持ち込むことができれば、 弱い立場でも有利な交渉を行うことができる。

スティーブ・ジョブズ氏が Apple にCEO として復帰した頃、Apple 本社は 資金難で倒産の危機に瀕していたそうだ。

まず底を尽きかけている現金を増やさなければ、なんの対策も打つことができない。 そこで考えたのが「Appleが潰れると困る会社はどこか?」だった。 その答えはスグに見つかる。Windowsの寡占が進む中、 何かと批判を浴びがちなMicrosoftが、ライバルとしてのAppleを必要としていたからだ。 週刊モバイル通信より引用

Appleマイクロソフトと提携関係を結ぶことで持ち直し、iPOD の大ヒットにつながった。

社会的な立場はマイクロソフトのほうがはるかに上だったけれど、 Apple が舞台から去ることで、その立場が危うくなる可能性があった。

Apple は自分の弱さをうまく利用して、ライバル会社から有利な譲歩を引き出せた。

立場というのは、もちろん強いほどいいのだけれど、「失うものがない相手」には、 立場の力は全く無力。このとき原資のバランスはひっくり返り、立場の強さに 頼ったほうが「弱く」なってしまう。

お金の問題も、たぶん同様。

お金をたくさん貸している立場の人にとって、もっとも怖いのが 「自己破産しますけど何か?」と開き直られること。

「使ったお金は返さないといけない」という道徳がみんなを縛っているけれど、 高利貸しも、病院も、このはかない道徳が無視された時点で崩壊するのは どちらも同じ。

お金を持っている人との交渉というのは、「その人から借金している人」が 一番有利な交渉人だったりする。

時間のある人の強さと怖さ

医者という仕事をやっていて一番怖いのが、時間のある人に絡まれること。

自分達の社会的な立場というのはそこそこ強くて、 経済的にもそこそこに恵まれているほうで、世の中の交渉ごとには 結構有利な原資を備えているのだけれど、時間だけはもう絶望的なぐらいに全く無い。

その一方で、自分達には相手との接触を断る権利は全くなくて、 「話をさせて下さい」「診察をして下さい」という人が来たら、 基本的には絶対に断れない。

社会的に持っているものが少ない人というのは、しばしば「時間という原資」だけは 大量に持っていて、そういう人がしばしば、 医者を罵倒するのだけが生きがいだったりする。

  • 救急車を何回も呼びまくる
  • 病院に名指しでクレームをいれる
  • 外来に夜中に来ては「主治医を呼べ!!!」と半年前に診察した医師の名を叫ぶ

今働いている地域は社会が暖かいからなのか、そうした人はほとんどいなくてホッとしている。

「時間のある人」が1人いると、救急外来は仕事にならなくなり、 こういう「常連さん」が3人もいれば、スタッフが嫌になって逃げ出してしまう。

こういうのは本来が理不尽な行為で、議論をすればもちろんこちらの正義が通るのだけれど、 「時間」という原資の量が医者にはほとんど無くて、相手には無限にあるから、「勝負」は 最初からついている。もう100%、医者側の負け。

そういうときには交渉専門の人、ソーシャルワーカーのような人に 十分な「時間原資」を持ってもらって交渉に臨むのだけれど、 「時間のある人」というのはしばしば何も持っていなくて、 立場も無ければお金も無い。

失うものが無い人の交渉力はとても強くて、またそうした人の受け皿として作られたのが 本来は病院という組織だから、もうどうしようもない。

下級生には「議論の席についた時点で負けだから、そうなる前に謝り倒して、とにかく逃げろ」と 教えていたけれど、他の方法、何か無いんだろうか…。