あいまいさのもたらす豊かさ

病室の中に心電図モニター置かれるようになってから不自由になった。

どうしようもない病気で亡くなる人の病室。

昔は、家族の方が病室に集まって、本人が息を引き取るのをずっとみていた。

息が止まってから、実際に心臓が止まるまでの間には、けっこうな時間がある。

医者はみんな、ナースルームでモニターをみていて、 心停止が何分か続いたのを確認してから病室にいく。

死は「見送る」ものだった。

移動可能な心電図モニターが安くなって、 個室にもモニターが入るようになった。

心電図モニターは、生死の境界を可視化する。死は見送るものから、「待つ」ものへと 変貌した。

今は、息を引き取る患者さん自身を見る人なんか誰もいない。

みんな心電図モニターを食い入るように見つめて、波形がフラットになる瞬間をじっと待つ。 そのタイミングに遅れたら、全てが手遅れだ。

あいまいな時間の境界

生と死との境界というのは、昔はあえてぼかされていた。

大事なのは、その瞬間を待つのではなくて悼むこと。

「その瞬間に立ち会えないと不幸」という教義は、 間に合わないリスクが高いわりに、信者に利益を生まない。 だから、メジャー系の多くの宗教が回避してきた。

葬式仏教なんかでも、卒塔婆をあげれば後からでもOKという ルールがあったり、追善供養なんていうものがあったり。

いくらでも敗者復活がきくルールは、団体側にも 信者側にも利益をもたらす。

あいまいな時間の境界線というのは、それを待つことを 無意味化してくれる。だからみんな救われる。

境界の中の「私たち」

あいまいな境界とは対象的に、はっきりとした 時間の境界線には、「次の機会」が存在しない。

「その瞬間」を逃さないためには、待たなくてはならない。 送ることに比べて、待つというかかわりかたには 強制力と罰則とが生じる。誰もが罰は受けたくないから、 みんなそれに参加する。

終末思想とか、ハルマゲドンといった「待つ」ルールを 採用した宗教は、伝統的な「送る」宗教に比べて より積極的な参加を要求する。

はっきりとした時間の境界が作った集団は、 世間との間にもまたはっきりした境界を作る。

「境界の中の私達」と、外の人。病院の中なのに、病院スタッフは 「外の人間」と定義される。

だからトラブる。

境界を引きたがる人

「待つ」人。罰する対象を求める人。まじめな人。正義の好きな人。

はっきりとした境界を引きたがる人というのは、 何がしたいんだろう。

  • 正義の境界を外れたから、誰かに罰してもらおう
  • 大事な瞬間に間に合わなかったから、そいつは傷ついて当然

境界というのは、思考停止の道具だ。

境界を守ることにとらわれてしまうと、 手段と目的とが入れ替わる。

境界を守ることで何をしたいのか。そもそも何故それを守らなくては ならないのかは、そのうち議論の対象にならなくなってしまう。

ごめんで済んだら警察はいらない

かつて地中海地方にあった、「海賊の作った自由の国」には警察があったのだろうか?

  1. 嘘つきと正直者とが戦うと、勝つのは必ず嘘つきのほう。
  2. 正直者は常に負けるから、だんだんと理不尽な思いがつのる。
  3. 正直者の多い社会を作ろうと思ったら、その理不尽さを「何かのせい」にする対象と、 正義の執行者が欠かせない。

「ごめん」で済んだら、警察はいらない。正直者と嘘つきとが共存する社会では、 嘘つきがすぐに「ごめん」と言うから、その言葉の価値が信じられなくなる。

正直者は固まって、警察を作る。 正直者の境界をはみ出した奴は、基本的には全部敵。争いは絶えない。

事態を解決するのは簡単。みんなが嘘つきになればいい。

嘘つきは嘘をつくから、常にに裏切られることを想定している。

みんなが裏切りを想定しているならば、正義の裁定者としての警察なんか必要ない。

境界なんて本当はなくて、あるのはきっと、「みんなの総意」みたいなものからの隔たりだけ。

その隔たりの力がいいものなのか、悪いものなのかは、状況に応じて確率論的に決定される。

最適解は、「みんなの総意」の真ん中あたりを維持しながら、自分の利益を出しつづけること。 そのやりかたというのは要するに、みんな少しだけずるをしながら、 対話と裏切りとを繰り返しながら生きていくことに他ならないわけで。

そういった混沌とした社会の持つ豊かさの総和というのは、「正直者の楽園」みたいな警察国家のそれよりは、 きっと大きくなると思う。

生死の境界。善悪の境界。職種ごと。病棟ごと。

病院がハイテク化して組織がだんだん大きくなって、いつのまにかどこに行くにも境界だらけ。

今いるところは小さな施設だけれど、病院サイドの境界はまだまだ少なくて、 自由度は高い。

境界の無いあいまいで豊かな世界。

第一歩は、まずは個室から心電図モニターを追い出す交渉から…。