「理想の世界」の像

植物園の温室みたいな、木が茂る廊下を抜けて、光にあふれる道を歩いて。

その先の角を右に曲がると、自分が一番くつろげる世界があるということを何故か知っていて、 その角を曲がってみると…南4階病棟の入り口だった。

やべ、バイトすっぽかした!!」とその日が外勤日に当たっていたことを思い出して焦ったけれど、 考えてみれば今そのバイト先に勤めているんだ…ということを思い出したところで、夢から覚めた。

以前の病棟では、廊下を左に曲がると病棟だった。夢の中では、左右逆。

昔の勤務先がそんなに懐かしかったのか、それともその逆か。

夢の中なのに世界というものは小さくて、たかだか50床も無いような 病棟こそが、自分が志向する黄金郷だったというのはちょっと寂しかった。

小さな世界でやる仕事

医者という仕事は、とても小さなスケールの世界を相手にやる仕事だ。

人口10万人ぐらいの町に、総合病院2つ。内科医10人。

一人の医師の総受け持ち患者数が、大体600人ぐらい。入院している人は20人ぐらい。

ITベンチャーの人たちなどは、「世界を相手に仕事をする」という言葉を使うけれど、 医師一人が「自分が相手にする世界」と考えているのは、大体この20人と少しぐらいの大きさ。

大きな世界を相手にする仕事と、世間のごくごく一部に全力投球する仕事と。

高い視点からものをみるのと、地べたすれすれからものをみるのとでは、見えかたはずいぶん違う。

衛生写真の解像度をいくら上げても、見えるものは「上から見た詳しい写真」にしかすぎない。 ところが、実際地面におりたって見ると、世界のありようは全く異なる。 人や動物には全部名前がついていて、「関係」という、写真には絶対写らないものが大事になってくる。

  • 高い高度から見た地球というのは美しい
  • 高度を下げると、環境汚染の汚い部分がどんどん見えてくる
  • ところが、もっと高度を下げて着陸してみると、 地球全体のことは後回しになる。環境問題はとりあえず置いておいて、 今晩何を食べたらいいのかという問題のほうが重要になってきたりする

システムを外から見下ろす人と、システムの中にいる人とでは、しばしば議論が食い違う。

中の人の方が詳しいからか? そうではない。 「中の人」と「外の人」とでは、そもそも見えている問題の姿が全く違うのだ。

病院の複雑な手続き

病院のオーダーシステムは最悪だ。

  1. 薬を出そうと思ったら、まずカルテに薬品名を書く
  2. さらに処方箋に同じことを記載する
  3. さらに看護婦さんに「○○さんに薬を処方しました」とお話をする
  4. そうしておいて、事務方が処方箋を会計処理して、その処方箋が薬局に回って、はじめて薬が病棟に上がる。
  5. その後薬を看護婦さんが確認して……。

一度処方を書いてから、実際にそれが患者さんの口に入るまで1時間以上。

大きな病院になるともっとかかる。

事故防止のために、何人もの人が関与している部分もあるのだけれど、 実際の効果はその逆。いろいろな人の伝言ゲームになってしまって、 医療過誤がおきる温床みたいになっている。

このままシステムに乗っかっていては、治る病気も治らないから、 どうしても急ぐときには回避手段がある。

処方箋を書く前に、病棟で誰かに聞く。

「誰か、○○持ってない?」

事故防止のために、病棟には処方された薬以外は無いことになっている。

ところが実際には、抗がん剤と麻薬以外の大抵の薬は、何故かナースルームのどこかに転がっている。

病院というところは、急ぐときには無いはずのものが何でもでてくる。そういうことになっている。

緊急手段は、時々自分で使ったりもする。

みんな忙しくて、病院なんかかかる暇無いから。

うまくいっている醜いシステム

ひどいシステムなのに、何故かそれなりにうまくいく。 そんな現場には、大抵の場合「バッドノウハウ」が大量にあって、 システムの悪いところを補間している。

医師はバッドノウハウを見つけるのが上手だ。

  • 煩雑な書類手続きの回避
  • 急を要する病気の治療
  • 中の悪い科の協力をどうやってとりつけるのか

「正しく」やってたんじゃ話にならないし、システム全体を変えるだけの 時間的な猶予も無い。だから「正しくない」方法を探す。基本的には 偏差値高めの人が多いから、問題があれば、それを回避する手段は必ず見つかる。

醜いシステムをバッドノウハウで効率よく運営するためには、 システムが変わらないことが大前提。システムが変えられてしまうと、 今まで作ったノウハウが全部無駄になるから。

世界を美しくする動機

組織やシステムを何とかしたいとおもって、いろいろな本を読んでいる。

本は汚しながら読む。蛍光色鉛筆を使って、線を引いたり書き込んだり。 面白いページは端を折っていくので、何度も読んだ本ほど無残な姿になる。

線を引く部分というのは、自分が思いもよらなかった視点とか、 「想定外」だったことが書いてあって、なおかつその意見に同意できる文章だ。

いつもボロボロになる本は、プログラマーやSEの人達の書いているものばかり。

現場で実際働いている人のものがいい。同じ技術系でも、ワインバーグとか、デマルコとか、 プロのコンサルタントの本になると、なぜかあまり線を引きたくならない。

現場の人の本というのは、半分近くがプログラムの話だから、 そっちは何の参考にもならなくて、コストパフォーマンスがとても悪い。

それでも、抱えている問題に対する意識とか、その解決に至るまでの 思考過程がとても新鮮で、いつも線を引きながら読んでしまう。

彼らの視点がなんで新鮮に思えるのか。たぶん、「世界を変える」という発想が、 自分の中には全く欠けているからなんだと思う。

プログラマーの人達は、自分達でプログラムを組む。 あまつさえ、そのプログラムを作るための言語も自作したりする。

作るものは抽象性の高い、美しいものなのに、実際の現場は泥臭い人間仕事だから、 「どうやって現場を美しく合理的に改変するか」の発想がたくさん出てくる。

医者の仕事というのは、「エラーの出た人体」というシステムにパッチを当てて、 何とか動くようにもっていく仕事だ。

なんとか治った人であっても、 今度は家族が誰も引き取らなかったり、退院後の生活の面倒までみてくれないと 退院しないとごねられたり。

人体だろうが、家族や社会というシステムだろうが、基本的には改変不可能。 だから、「変えよう」なんて発想は、なかなかでて来ない。

違った業界の人の意見は面白い。

自分にとっての理想の世界

自分にとって一番望ましい社会とは、昔の小さな村社会だ。

入院している20人とその日の外来30人ぐらい、病棟のスタッフ全部いれて、合計100人程度。

大昔の小さな村社会。矛盾だらけの因習に満ちていて、掟とか祟りとか、見えないけれど気を使う 風習がまかり通って、それに抗うと村八分を受けたり、陰湿ないじめを受けたりして、 みんながお互い疑心暗鬼になっている。そんな社会。

偉い人達に今一番やってほしいのは、時計の針を巻き戻すこと。

大体7年ぐらい前。 まだまだ大学病院が元気があって、 その一方で、民間の病院組織もそろそろと力をつけてきた頃に。

医療のシステムの欠陥はたくさんあったし、世間はもう十分に醜くなっていたけれど、 それでも今よりうまくいっていた。

何の合理性も無かった代わりに、それを強引にうまくやるノウハウだけは山のようにあったから。

システムを作りなおす不合理

いろいろなものが電子化した現在。

IT関係の人達の発想というものは斬新で、 何もかもが合理化の方向に向かっている。

医療のシステムは、度重なる改革で、グダグダになった。

医療は1回崩壊すべきとか、市場経済の原理を導入すべしとか。 医療者側からも、そんな声がけっこう聞こえる。

いいかげんなシステムというのは、本当に悪いものなのだろうか?

官僚主義的な、欠陥だらけのシステムをバッドノウハウで固めて、 それを現場で強引に動かすことこそは、医者の得意分野だ。

保険システムの不合理さをみんなで馬鹿にしながらも、 強引に動かしつづけてここまでやってきた。

十分に機能している醜いシステムというものは、それが今まで続いているというだけで、 悪いなり、醜いなりの価値というものを十分に持っている。

それを壊して、最初から作りなおそうという最近の「改革」は、 現在のところことごとく裏目にてでいる。

何もかもがうまくいきそうも無いように見える昨今。

考えうる全ての選択肢が絶望しか生まない場合、 最悪に見える選択が、最善手ともなりうる。

とりあえず前に戻して、何もかも全て先送りして放り投げる」。

思考を停止した上での先送りというのは最低のプランの一つだけれど、 今の医療現場に対して国がとれる、最善手の一つなんじゃないかと思う。