癒しをもたらす思考の停止

DIYの店にドリルを買いに来る来る人が本当に欲しがっているのは、「ドリルそれ自体」 ではなくて、「ドリルのあける穴」だ。

  • 店員は、どんなドリルが欲しいのかを知りたい
  • 店に来る客は、なんでもいいから簡単に穴を開ける方法を教えて欲しい

店員と客の見ているものは、ほとんど同じだけれど微妙に違う。

議論をしたい人は、本当は思考をしたくて相談をするわけじゃない。

思考を停止したいからだ。

人工知能のフレーム問題

現実世界では、人工知能を動作させることは難しい。

何かの問題を解決するよう命じられた場合、人工知能は起こりうる出来事の中から、 その問題に関連することだけを振るい分けて、自分が考慮にいれる問題の枠(フレーム)を設定する。

ところが、世界でおきている出来事というのは無数にあるから、 このふるい分けの段階、フレーム設定の段階で、無限の時間がかかる。

結果として、人工知能はどんな問題をも解決することが出来なくなってしまう。

有名な例に、ロボットによる爆弾処理の例がある。

状況:洞窟の中に、ロボットを動かすバッテリーがあり、その上に時限爆弾が仕掛けられている。 ロボットは、「洞窟からバッテリーを取り出してくること」を指示された。

  • 人工知能ロボット1号機は、うまくプログラムされていたため、洞窟に入って無事にバッテリーを取り出すことができた。 しかし、1号機はバッテリーの上に爆弾が載っていることには気づいていたが、 バッテリーを運ぶと爆弾も一緒に運び出してしまうことに気づかなかったため、洞窟から出た後に爆弾が爆発してしまった。
  • そこで、目的を遂行するにあたって副次的に発生する事項も考慮する人工知能ロボット2号機を開発した。 しかし、このロボットは、2号機は、バッテリーの前で「このバッテリーを動かすと上にのった爆弾は爆発しないかどうか」 「バッテリーを動かす前に爆弾を移動させないといけないか」「爆弾を動かそうとすると、天井が落ちてきたりしないか」 「爆弾に近づくと壁の色が変わったりしないか」などなど、副次的に発生しうるあらゆる事項を考え始めてしまい、 無限に思考し続けているうちに爆弾が爆発してしまった。
  • そこで、目的を遂行するにあたって無関係な事項は考慮しないように改良した人工知能ロボット3号機を開発した。 しかし、このロボットは、洞窟に入る前に動作しなくなった。 3号機は、洞窟に入る前に、目的と無関係な事項を全て洗い出そうとして、無限に思考し続けてしまったのである。

面倒くさがる人間の脳

フレーム問題の解決策というのは、まだ「これ」といったものは分かっていない。

人間の脳は人工知能と違い、 フレームを決定できなくても無限思考に陥ることはない。

人間の脳は、全ての可能性を計算しない。適当なところで考えるのを止めて、結論を出してしまう。

その「適当なところ」を決定するものというのが、「感情」なのではないかと言われている。

感情の持つ機能を説明する仮説の一つに、 「ヒトは、普段の生活で行う考慮すべき選択肢を感情によって大幅に減らし、 限定された数の問題について合理的な判断を行っている」というものがある(ソマティックマーカー仮説)。

人間には「感情」という情報処理工程があって、「急ぎたい」とか、「めんどくせえ」とか、 「恐怖」とか「不安」とか「安心」といったいろいろな感情で情報にバイアスをかけることで、 半ば強引にフレーム問題を解決しているらしい。

情報処理とは「忘れること」

記憶を永遠に保持している人は、考えることができない。

ボルヘスの小説「記憶の人フネス」の主人公、フネスの記憶力は完璧すぎて、 たとえば三時十四分に横から見た犬と、三時十五分に前から見た犬とが同じ犬 であることが理解できない。

入ってくる膨大な情報を処理しようと、フネスは一生懸命考える。ところがその光景は、 外から見ると「思考停止」しているようにしか見えない。

情報を「処理する」というのは、「ものを忘れる」ことにほかならない。

何かを思考して、答えを見つけることというのは、外から入ってきた情報から 「いらないものを忘れ、思考を止める」 工程のことだ。

フレームの形と粗さ

思考のフレームというものは、砂山の中から必要な情報だけを残す、ふるいのような役割をしている。

話が噛み合わない、共感できない人というのは、お互いの持っているフレームの形が違う。

一見同じ情報を議論しているようでいても、お互いの頭の中では違う情報を「忘れている」から、 頭が処理している話題の形もまた、全く異なったものになってしまう。

相手の情報の欠落をいくら指摘したところで、その指摘もまたフレームにより除外されるから、 そもそも相手の意識に入って来ない。

お互いの議論を促すためには、同じ規格のふるいを持つこと、フレームを共有することが欠かせない。

膨大な実世界の情報をお互いに「上手に忘れて」、同じ結論が出た時点で「思考停止する」。

対話の先の理解と共感というのは、たぶんこういうことなんだと思う。

フレームの「目の粗さ」と問題のややこしさ

思考は、「思い込み」と「経験」によってふるい分けが行われ、 それをくぐりぬけた情報だけが議論に上る。

たとえば、「ある食品」が「健康食品店」に売られているならば、 「その食品は健康によいに違いない」といった判断が、思い込みによってつけられる。

そこの店でひどい目に会ったことがあるとか、その「ある食品」に関する悪い噂を聞いたことがあるとか、 そうした経験は、その判断を様々な程度に修飾する。

こうした思い込みと経験による判断は、ある問題について必ずしも正解が導けるとは限らないが、 ある程度正解に近いような解を得ることができる。

この判断を細かくしてから議論すると、「論理的な思考をしている」ように見える。 これを非常に大きなレベルでやると、「何も考えていない」ようにも見える。

判断の細かい人から見れば、粗い人は大雑把に見えるし、逆の立場から細かい人を見ると、 細かいことにこだわりすぎる人に見える。

違うのは、古いの目の細かさだけ。やってることは、基本的には同じ。

大事なのは、お互いの「目の粗さ」をあわせることだ。

問題というのは、「複雑さ」とややこしさ」の2つのパラメーターを持つ。

問題のややこしさというのは、お互いが見積もった「問題の複雑さの差分」で決まる。

みんなの中で、「ふるい」の目がもっとも細かい人と、もっとも粗い人とが、 それぞれに問題の複雑さを考える。

お互いの見積もりの差が大きいと、その問題は「ややこしい」。

みんなが持っている「ふるい」の目が一緒ならば、ややこしさは小さい。 どんなに複雑な問題も、こじれずに議論が進む。

みんなの見積もりがばらばらならば、どんなに簡単な問題でも、トラブルは避けられない。

同じ「場」に立つということ

フレームの形を決めている「場」というのは、頭から見た「こう見えるはず」という世界の風景だ。

鉄火場で冗談を言う奴は許されないし、飲み会の席でアルコールの害について議論を吹っかけられても白ける。

ギャグ漫画の場なら死んだ人もすぐ復活するし、推理小説ではそうは行かない。推理ものだと思っていた小説が、 最後になって「実はSFでした」をやられると、本当にがっかりする。

自分が「日常」という場に立って世界を見ているとき、相手が「犯罪捜査」という場に立っていたりすると、 同じ場所で会話をしていても、お互いが見ている世界は全然違う。

座を和ませるための軽口は、相手にとっては犯罪の証拠に見えているのかもしれない。

  • 自分と相手との情報収集の粗さは共通しているのか
  • 自分はどんな「場」に立ってものを見ているのか、あるいは、相手はどんな「場」からものをいっているのか

両方やると、お互いのフレームの形を合わせることができる。

相手がどんな「場」に立っているのか、あるいはどんな場に立ちたいのか。

これを察するのは基本的に無理だから、時として強引に場を作って、相手にそこに入ってもらう。

結婚もしていない人に「あなたは結婚したらどんな家庭を持ちたいと思いますか?」 と尋ねるのはこうした例だ。

「結婚したら会社辞めてくれるよね?」というネガティブなフレーム限定を行って、 「元気な子供を産み、夫を助けて、明るい家庭を作りたい」などという「模範解答」を引き出そうとしている。

思考を停止する言葉

みんな本当は議論をしたいんじゃない。思考を停止したいだけ。

罪を犯したから監獄に入るのか。監獄に入りたくて罪を犯すのか。 因果の順番なんて、本当はどうでもいい。

思考を停止する手段というのはたくさんある。

  • 「そんなの当然じゃん」「そんなこと考えてもしょうがない」という決めつけ
  • 「難しいね」「今後の参考にします」という先送り
  • 「教育の問題」「ゆとり教育のせい」という責任転嫁
  • 「テロを受け入れるか、戦争か」という二者択一
  • 「普通は…」「~であるのは常識だ」という勝利宣言
  • 「お前○○だろ、違うなら証明してみろ」(○○の中には未熟とか、経験不足とか、サヨクとか)という悪魔の証明

単純な方法だけれど、相当有効。なぜなら、みんな本当は思考なんてしたくないから。

思考を続けることは重要だろうか?

「考え」なんていう面倒な作業は、きっと誰かが行ってくれる。 宗教を信じる人はみんな天国へ行ける。神様が考えてくれるから。

信仰というのは、信じることだ。理解することじゃない。

思考停止という癒し

「テロとの闘い」という言葉。どんな問題にもこの言葉が使われて、いろいろな問題が 正当化されて数年。最初はみんなで議論したけれど、結論はなんにも変わらなかった。

結局テロリストはいなかったけれど、やってることはそれでも同じ。考えないほうが、ラクだから。

テロの定義という「いれもの」の中には何でも入る。自衛隊派遣だろうが、増税だろうが、僻地医療の崩壊だろうが。

テロとの戦い自己実現。「○○のせい」。

定義があいまいで、なんとなく反抗しにくいようなこうした言葉というのは、 お互いのフレームを合わせる作業を無くし、結論を提供し、思考という作業から解き放ってくれる。

思考を止めた人というのは、知能を持たない機械と同じ。

機械は知能がないから、そもそもフレーム問題をおこさない。そもそもの問題がないから、 それを解決するためのプロセスも必要ない。矛盾のない、完全な存在だ。

人はなかなかそうはいかない。「思考をしない人は不完全だ」という思いに縛られているから、 みんな何とかして思考するふりをしようとするし、だから疲れてストレスがたまる。

みんな医者のせいだ

このあいだの医者叩きのスペシャル番組。

有名なN淵先生をはじめとする医師側のパネリストは、基本的にはみんな正しいことをいっておられたように思う。

「悪い医者」の再現ドラマはひどいものだったけれど、それでも台詞に「ウソ」はなかった。

  • 3時間待っても見てくれない救急病院
  • 「待ってて下さい」としかいわない医療スタッフ
  • 子供に馬乗りになって点滴する若い医者

どれも、それなりに真実だ。

正しい現状を伝えて、やっぱり医者は悪くなる。

番組を作ったスタッフをはじめとする「みんな」の見る世界にとっては、 「頑張る医者」なんていうものは単なる異物にしかすぎないから。

「ああ、医者はやっぱり悪かったんだ」という分かりきった結論は、見る人にとっての最高の癒しだ。 だから医者叩きは受ける。

思考停止ワードの作り出す癒しの空間から、「みんな」の意識を追い出すのは難しい。

状況を変える可能性の一つは、身体で分かってもらうこと。

意識はラクをするけれど、身体はいつも物理現実を見ている。

だから病気になった人は、どんなに医者が嫌いでも、結局は病院に来る。

「医者はみんな悪い奴」という意識の認識を改めてもらうには、 結局のところ病気を治すこと、身体に分かってもらうこと以外にないような気がする。

仕事をまじめにやるしかないんだけれど、 症状のない人、今の時点で「治す」ことの難しい人と対話するのは、やっぱり難しい。

どんな症状も「だって癌だから」の一言で済ましてしまう思考停止なんて、 医者側だって便利だから、つい使ってしまうし。