祟りが支配する複雑な世界

同業者以外からは同意が得られないだろうけれど、医者というのは立場が弱い。

強さとは、「攻撃力」×「打たれ強さ」。

病院と言う限られた空間の中では、医師の攻撃力は非常に強い。 職業倫理さえ捨てる気になれば、もうどんな暴言だって吐ける。

ところがそれをやった瞬間、医師の立場もまた地に落ちる。

攻撃力は強くても、打たれ強さはほとんどない。だから「弱い」。

弱い立場の人は、暴力に弱い。法律にも弱い。いいところが無い。

暴力と秩序。この両極端の世界で弱い立場なら、 もう世の中には「強く」ふるまえる場所は残っていないようにも思える。

びくびくと何かにおびえながら仕事をするのは嫌だ。 暴力的でも秩序だってもいない世界、「複雑な世界」には、 まだ希望がありそうな気がする。

複雑さとは何か

世界の状態を、暴力と秩序の割合だけで表現することは可能だろうか?

全くの無法地帯から、先進国の法治国家まで。秩序という点では、 北○鮮みたいな国は相当秩序だっている。 南アフリカヨハネスブルグみたいな暴力都市は、法律なんか存在しない。

アメリカや欧州はどうか?

独裁国家ほどには秩序だってはいないけれど、無法というにはしっかりした政府を持つこうした国は、 北○鮮とヨハネスブルグの混合比だけで表現するにはあまりにも豊かだ。

世界を表現するには、暴力と秩序の割合だけでは足りない。 その「足りなさ」を補ってくれるのが、 複雑さというパラメーターだ。

あまりにも暴力的過ぎたり、逆にあまりにも秩序だった国からは「複雑さ」が失われ、 結果として豊かにならない。

「複雑さ」とは、安定した状態からの隔たりだ。 法律を守った平和な世界も、暴力が支配する無法地帯も、 「毎日その状態で安定している」という点では、どちらも同じ。

程々に政府が機能していて、一方でそこそこに「ズル」が許されると、 社会には多様性が生まれ、複雑さが増す。

複雑な世界は複雑だから、逃げ場も多い。「暴力」からも「秩序」からも見捨てられた 奴が逃げ込むには、こうした世界が望ましい。

世界に複雑さを付加する「祟り」

複雑な世界では、立場の弱い者のほうが、強い者より「強くなる」。

こんな立場の逆転を可能にしてくれるのが、祟りというルール、 明文化されてはいないけれどたしかに「ある」、そんなルールの存在。

「いい法律」と「いい祟り」、その基準はずいぶんと異なる。

  • 法律は、どうなったら法律違反になるかの基準が明確で、 それが発動すると何をされるのかがはっきりしている。 その法律を破らない範囲なら、そんなものは最初から無かったかのように行動できる。
  • 祟りは、どうなったら発動するかの基準があいまいで、 また祟られたら何をされるのかがはっきりしない。 原則が無いから、その存在を常に意識しないと行動できない。

法律は、強者に優しい。ルールの限界に挑むためには、それなりの勇気と打たれ強さは 欠かせない。強いものは、常に法律ぎりぎりまで行動できる。弱いものは、 その法律の境界のはるか手前であきらめるしかない。

祟りは常に、弱者に味方する。

祟りは「みんな」に信じられることで、その効果を出す。どんな世界でも強者は常に弱者に 数で劣る。「みんな」の信じる祟りの原則は、多数決と公平だ。 弱い人には、祟りは弱い。強い人には、些細なことで強力な祟りがおきる。 強い人は、祟りのそばには近づけない。

祟りを実体化するものは何か

祟りは目に見えない。

その存在はあいまいで、「祟られる」ことで受ける罰の内容も、 その人が想像するしかない。

目に見えないものなのに、祟りは誰の目にも明らかに見える

あいまいである一方で、誰もがその存在を信じられないと、そもそも「祟りルール」は成立しない。

たとえば、「ここでの会話は、24時間録音を続けています」という張り紙は、立派な祟りとして 機能する。

録音するだけ。マイクもレコーダーも見せない。 警察に通報するとか、暴言が出たら弁護士を呼ぶとか、祟りに触れたら何がおきるのかは 一切言わない。 こんな通達を、病院側が一方的に行ったら、これは単なる恐喝。 そんな施設は地域から見捨てられるだろう。

ところが、これを「市民のための医療オンブズマン」みたいな団体との取り決めで、 「言った、言わないを避けるためにこうしましょう」とみんなの合意で行うと、 単なるテープレコーダーが、地域に君臨する祟り神として実体化する。

「いい祟り」の成立条件は、以下のようなものだ。

  • 祟りの根拠となるものが具体的であること。オカルトは厳しい。 たとえば「会話は全てテープレコーダーに録音します」というの具体性がある「祟りルール」だ。 具体的な存在に乗っかった祟りは、いやでも目に見えるようになる。
  • 祟りの効果のおよぶ範囲が見えにくいこと。「警察官が巡回しています」「ビデオカメラを回しています」 といった祟りは、警察のいないとき、ビデオの視野から外れた場所では祟りが成立しなくなる。 「境界」を考察させるルールは、祟りとしては弱い
  • 祟りの罰則は予測可能であるが、その予測には相当な困難が伴うこと。 警察が来るなら、罰則が簡単に読めるから、強い人はその範囲で好きにやれる。「テープレコーダーで録音しています」 だけなら、それを警察に提出されるのか、マスコミに持っていかれるのか、想像するしかない。 想像を刺激する「祟り」は、怖い

祟りの価値というのは、祟りのルールそれ自体にあるのではなく、 それから想起される「もの」の大きさにある。 強い人、背負っているものが大きな人ほど、同じ文章から想起するものの大きさは大きくなる。

いい祟りはその人の強さを移す鏡となる。弱い人は、祟りが「弱い」と予測する。強い人は、実際以上に 祟りの罰則を恐れてしまう。

複雑さのもたらす平等なコミュニケーション

見えない「祟りルール」に支配された会話というのは、複雑性が非常に高い。

会話はもはや、単純な情報交換ではなくなる。言外の会話、非言語コミュニケーション、 無言の持つ意味など、様々な要素が同時進行的にやりとりされる。

お互いに気を使って、「祟り」というものを意識しながらコミュニケーションを行ったとき、 もともと持っている「弱さ」「強さ」は意味を失い、全ての人は「祟り」の下に平等になる

もともと、人は誰でも平等だ。

私が思っているのは、実は人間そのものに強弱はないのではないか、といこと。 違うのは、「力」の有無と強弱。 「なんだ、力があるのが強者で、力がないものが弱者じゃん」というなかれ。「強者」「弱者」という場合、 それは「埋め込まれた」属性だけど、「力があるない」というのは、「後づけされた」属性。 そう。力はすべからく後付けなのだ。 「金持ち」「貧乏」というのもそうだし、「知者」「愚者」というのもそう。それはあなたそのものではなく、 あなたの持ち物にすぎない。また、持ち物にすぎない以上、失うこともあるけど手に入れることもできる。 私が「弱者」という言葉を思考停止だと思う理由がそれ。 404 Blog Not Found:弱いんじゃない、力がないだけだ

祟りというルールは、もともと平等だった人同士が共有していた「平等な世界」のありようを、 もう一度見せてくれるものだ。

神話の時代、誰もが「祟り」という共通の「なにか」を見ていた。 共有するものがあったから、何もいわなくても相手を気遣い、法律が無くても社会はできた。

ザシキワラシの伝説は、祟りルールの大切さを伝承している。

誰にも見えない、いないはずのものを「いるもの」として扱っている家は栄える。 誰もがサシキワラシを大切に扱う。 それが出ていった家、祟りに「見捨てられた」家は複雑さを失い、没落する。

科学が進んで、祟りが世の中から無くなったときに失われたものというのは、 たぶんこうした「誰もがほんとは平等だった」という社会の記憶みたいな ものだったんじゃないかと思う。

平和な救急外来がしたい…。

もとネタにさせてもらったサイトはこちら。 3ToheiLog: いつ撃たれるか不明という圧力のゲーム