「何をしたのか」「どう見られたか」

国家試験受験資格、1年前倒しを=医師不足解消で特例申請へ-NPO法人

全国の医学部生や医師ら400人余でつくる特定非営利活動法人「医学教育振興センター」は12日、 在学中の5年生でも医師免許を取得できるよう医師法で卒業後に限定している国家試験の受験資格を 前倒しする特例措置を、6月中に内閣府に申請する方針を明らかにした。 合格した学生医師に、構造改革特区に認定された県内だけで卒業まで通用する 地域限定の医師免許を交付する。 医学教育振興センター: 当面の医師確保対策(案)について より引用

よくやっているな、と思う。

学生が作ったNPOの提言を、マスコミが注目して報道するなんていうことは、 一昔前からは考えられないことだった。

技術の進歩と手段の変遷

学生運動全盛の時代。「ガリ版印刷」が、学生の活動を大きく変えた。

鉄ペンでガリガリやるからガリ版。自分達が小学生の頃まではまだまだ現役で、 当時は「原稿を書く」という言葉以外に「原稿を切る」「ガリを切る」という言葉が 当たり前のように使われていた。

これができたから、誰でも「表現」ができるようになった。街頭に貼られたポスター。 ビラまきの学生。学生運動時代のステレオタイプ的な風景というのは、 ガリ版という道具が作った。

道具はだんだん進歩する。

  • 小学生の新聞委員会ではガリ切りと青焼きコピー
  • 中学生の頃には、学内の印刷物は和文タイプに電子印刷機
  • 高校生になる頃には、生徒会室には職員室払い下げのワープロ
  • 大学になると、自治会室にはリコーのリソグラフ。何故か業務用のコピー機が自宅にあった

表現のための道具は劇的に進歩した。 けれど、基本的な戦略は、ガリ版時代と一緒。

「発信」の手段が以前から変わらなかったからだ。

文章を作っても、それを発信する手段は、郵便と手渡し。

大学の卒業寸前。表現の技術の進歩がプラトーに達した頃、 「発信の技術のイノベーション」が始まった。

WEB 1.0のはじまり

パソコン通信からインターネットへ。

情報は電子化されて、誰でも自由に発信できるようになった。 いい情報を発信した人のサイトには、多くの人が集まる。コミュニティは賑わい、 ときに炎上したり、バトルになったり。

作者のサイトには、様々な意見が集まった。議論はときに数ヶ月に及んだ。 反対意見や、それに対する反論。過去ログについていけずに挫折する奴。 そんなもの読まずに参戦して、古参から「半年ROMれ」と一蹴される奴。

信者だろうがアンチだろうが、にぎわっているサイトには、多くの人が集まり、 いい情報が集まった。

情報は、そこに集ったみんなの意見でだんだんと形を変え、 確実に「いいもの」へと変貌していった。

そしてWEB 2.0

blog 全盛時代のイノベーションというのは、発信された情報が一人歩きする手段を得たことだ。

情報を評価する人達の横のつながりは強化された。blog に発信された情報は、 すぐにいろいろなサイトで言及され、元の作者の知らない場所で議論が始まる。

従来ならば、情報の発信者は自分のサイトの周辺だけ追っかけていれば良かった。 誤解があれば訂正できたし、議論のフィードバックは全て作者の糧になった。

今は違う。発信された情報というものは、基本的にはWEB全体で消費されるものだ。

情報は一人歩きする。それを書いたのが誰なのかは、もはや関係ない。 議論の期間も短くなった。少し前なら数ヶ月。今は、長くもって5日。

議論は一瞬でいろいろなところで始まり、すぐに結論が出て、終わってしまう。

作者がようやく全貌を把握できた頃には、 もう誰もそんな話題があったことなんか忘れている。改善の機会は与えられない。

  • パソコン通信時代。ネットにつながれた人が、 みんなで延々と議論を楽しむ時代が来るというのが、当時の共通の未来イメージだった
  • Web2.0が言われるようになった昨今。登場した様々なコミュニケーション装置は、 活発な議論を生み出すどころか、レッテル張りと極論とが支配する極端な社会を作り出した

評価は現実を決定する

一昔前。ネットに発信した文章に対する評価は、ある程度予想できた。

作者の意思というのは、書いた文章全体ひとかたまりで理解されたし、 流れを知っている評価者は、製作の過程を含めて評価してくれたから。

発信の技術」が進歩した現在。ネットにアップされた文章はばらばらにされ、 作者の手を離れて引用され、評価される。

元の作者の意図は、評価を受けることで変質する。情報は一人歩きし、 落としどころを失い、極端な評価へと走り出す。

少し前に有罪判決の出た、奈良の騒音訴訟の被告のおばさんの報道に関する話。

  • 被告は、もともと難病を抱えた家族を一人で看護しているさなかに相手が引っ越してきた
  • そもそもは、被害者家族に家の会話を盗み聞きされ、 それを言いふらされたことでトラブルが始まった
  • 被害者家族自身も、周囲とのトラブルがある人だった。それを被告が皆になり代わって、 一人で戦っているような状況だった
  • 被告がしたとされる塀のいたずら書き。あれは、被害者家族の自演だという人もいる
  • 被告のおばさんは、は記者の質問には礼儀正しく応えていたらしい。でも普通に喋ってるところは滅多に放送されない。

某巨大掲示板からのコピペ。当事者ならば何が正しいのかは知っていることなのだろうけれど、 伝えられている情報の評価のしかたひとつで、現実なんて簡単に揺らぐ。

観測者が善悪を決定し、その意志に従って過去の事実が再編集され、「真実」として新たに流通する。

大事なのは真実それ自体ではなく、 「どちらを悪にしたら面白いのか」という評価者の意向のほうだ。

発信の技術の次にあるもの

表現技術の進歩と、発信技術の進歩。 その結果として生じた、情報の評価の一人歩き。

ネットでの評判をそのまま受け取っていては身が持たないし、 もはや「いい」「悪い」は評価者の意向いかんでいくらでも逆転しうる。

WEB 2.0 時代に発信された情報は、発信された段階では「いい評価」と「悪い評価」との 重ね合わせの状態にあり、最終的な評価は確率論的に変化する。

予測可能な決定経路はもはや存在しない。 総論賛成だけど各論反対といったような、中間の状態に落ち着くことはほとんどない。

発信された情報の価値というのは、「大きさ」と「方向」との2つの側面を持つ。

ビラまきの時代。ビラに印刷された文章は、大きさと方向の2つから評価された。 どんなに議論を呼ぶ意見であっても、賛成の人が多くなければ、価値は無いも同然。

評価者の評判の総和は、そのまま作者への評価になった。

発信の技術が進歩した現在。情報の価値というベクトル量のうち、「方向」を決定しているのは ほとんどの場合評価者であって、そこに発信者は介入できない。

「善」か「悪」か、「正しい」か「間違ってる」かという方向の問題は、 もはや発信された「情報の価値それ自体」を評価する尺度にはならない。

「〝よくやった事の報酬は、それをやったって事だけ〟さ…」

報酬は、結果に対して払われるものではない。やったことそれ自体に対して払われるべきだ。

ベクトル量からスカラー量へ

Google AdSense とか、はてなブックマークといった新しいネットツールは、 流通している情報の「大きさ」のみを取り出して評価するシステムだ。

いい評判だろうが悪い評判だろうが、大事なのは議論を引き起こしたことそれ自体で、 評判の向き自体はたいした問題じゃない。

1年早く免許を取得して働く医師を増やすことで、医師不足解消を目指す。

その発想の是非については、正直異論をはさみたい部分も少しはあるけれど、 「どう見られたか」ではなくて、「どれだけ大きな反響を作ったか」のかのほうが重要だ。

反対されること、叩かれることというのは、肯定的な評価をもらうのと同じこと。 少なくとも、その行為には、何らかの議論を巻き起こすだけの力があったということだ。

冷や水ぶっかけるのは年寄りの仕事。火をおこすのが若者の仕事。

自分はこうした活動に挫折してしまったクチだけれど、 否定的な声に負けずに、自分達の作った炎の大きさを糧にして、ぜひとも先に進んでほしい。

一番厳しい評価というのは、叩かれることではなくて、無視されることだ。

愛の反対は憎しみではなく、無関心である

マザーテレサだってそう言ってる。

叩きなんて、反響無いのに比べれば……(泣)。。