症状と診断のあいだ

人間性」とか「心」なんて、結局誰にもその正体は「わからない」のです。ガンダムに出てくるニュータイプにでもならないと、永遠にわからないよ、きっと。だから逆に僕は、そこに書いてあることから、「その人が身にまとっている鎧の一部」を読み取りたい。 たぶん、鎧こそが僕たちの「正体」であって、それを全部はぎとったら、そこにはもう、何もないんだよ。 「中身」なんて、幻想だ。 琥珀色の戯言 - 文章からも人はわからない、だけど…より引用。

ヒヨコをジューサーにかけて失うもの

生きたヒヨコをジューサーにかけて10分もすると、 ジューサーの中からはひよこの実体は失われ、赤茶けたどろどろしたものが残る。

ジューサーの中からは、物質は何一つなくなっていないけれど、 そのドロドロは、すでにヒヨコではない。

人間性とか心とかいったものは、この「ヒヨコ」と「赤いドロドロ」とを分けていた「何か」なんだけれど、 従来の科学の手法では、その「何か」が定義できない。

病名は知らないけれど治療は分かる

症状があって、病名が決まって、治療手段が決まる。 病名というのは非常に役立つものなのだけれど、これが決まるまでは 何の行動もできない、諸刃の剣でもある。

  • いい知恵ないならチエナム。
  • 分からない意識障害は、ゾビとパルスとガンマグロブリン。もっとやるなら血漿交換。
  • やせた女性の不明熱は、たいていステロイドが効く。
  • 造影CTさえとってしまえば、原因不明の胸痛の「死ぬ病気」はほとんど否定できる。正常ならカテ屋を呼べ。

症状がある患者さんがいて、その診断名がつく前に治療の方針だけが決まってしまう場面というのはけっこうあって。

それは単なるカンというものでもなくて、ある一群の病気というのは治療のやりかたがほとんど同じで、 それをわざわざ細かく診断する理由自体が本当はないだけなのだけれど。

問題なのは、医師の思考過程というものが「症状->診断->治療」 という流れで作られてしまっているので、 「分かった」時点で治療をはじめてしまう医者というのは基地外あつかいされてしまうこと。

診断名なんて飾りです。えらい人にはそれが分からんのです。

現場の下っ端がいくら 騒いだところで、西洋医学の伝統が覆るはずもない。

実際問題、診断の工程を省く必要がある場面というのはそんなに多くなくて、 救急外来の現場とか、どこの科にいっても「うちじゃありませんね…」などという返答をされる、 原因不明の慢性症状の患者さんとか。

こういう場面で場当たり的な治療をはじめて、後になってから専門の科に依頼して、 「なんでこんな薬、始めちゃったの?」なんて、かわいそうな人でも見るかのようなものの言いかたを された日には、もうやけ酒でも飲まないとやってられない。

役に立たないガイドライン

いろいろな診療ガイドラインが発表されている昨今。

ところが、ガイドラインが想定しているのはもっと行儀のいい医師のようで、どうにもやりにくい。

「(ガイドラインを読むような)お前らどうせ馬鹿なんだろ?だから俺様が秘伝を教えてやるぜ!

ガイドラインというのは、極端な話こんなノリで作ってくれないと、役には立たない。

世の中のガイドラインというのは、大抵は疾患の定義があって、検査項目のカットオフ値が 列挙されていて、その後に重症度の分類、治療の方針が書いてある。

ところが、現場に来るのは「症状」を持った人で、「病名」を持った人なんかめったに来ない。

本当に現場で知りたいのは、こんなこと。

  • その症状で死ぬ可能性のある病名と、それを除外診断するための検査。
  • 「とりあえずこの検査さえ出しておけば、病名を見逃しても死なないし、訴えられない」という検査項目のリスト。
  • 「とりあえずすぐには死なない」というところで原因が分からないときに、その症状を取るのに使える手段。
  • 「この検査項目さえ抑えれば、後から専門科から怒鳴られない」という、症状をとる薬を始める前に 確保しておく検体や、血清の量。

診断名が決まってからの治療は、専門家の仕事。一般屋は興味がない。

中間言語としての病名

科学とは、自然現象を客観的に記述する行為のように見えて、現実には、人間の知覚系が理解しやすいように、解釈する行為です。そうでないと、人間が科学の知見を自在に使いこなし、応用し、仕事や生活に役立てるのに都合が悪いからです。 科学が、できるだけシンプルな解釈を好むのも、その方が、より少ない脳神経リソースで、自然を解釈し、予測し、操作できるからです。 分裂勘違い君劇場 「科学の正体」より引用

現象と理解との間の中間言語として、科学というのは相当便利だ。

ところが、全体を部分に分けて、部分の理解の集積で全体の理解を行うという 従来の科学手法では、どうしても落ちてしまう要素が出てくる。

従来の科学という道具を見直して、現象を理解する方法論を1からスクラッチしようとする試みが 複雑系だけれど、医学の世界でも何かできそうな気がする。

病名なんて本当はいらないんじゃないのか、 権威が何かまとめるとき、「○○病」っていいたいだけなんじゃないのかと 思うところが少しだけあるのだけれど、ならば「病名」を使わずにおまえ医学をしゃべれるのか? と聞かれると、 やっぱり無理だったりする。

それをやるには理解しなくてはならないことが多すぎる。難しいことを分かりやすくまとめるのは 本当に難しくて、「病名」というのはそれをやるのには最適なツールなわけで。

最初の印象はけっこう頼れる

最近ベストセラーになった「第1感」という本には、ゴールドマンの狭心症診断チャートの話題が出てくる。

狭心症という、診断が比較的難しい病気を外来で見逃さないためには、 心電図以外に以下のことだけを 調べればいいという。

  1. 患者の自覚症状が狭心症に典型的かどうか
  2. 胸水の有無
  3. 血圧が100以下かどうか

心電図が正常でも、この3つが陽性の人は狭心症の可能性が高い(本当はもっと細かい)。

ベテランの直感の数値化。正しい判断というのは、以外に少ない情報からも導ける。

患者の喫煙歴や糖尿病の有無、冷や汗の有無とか不整脈の有無などといった、 「狭心症」という病名を語るのには欠かせない情報というのは、実はどうでもいいらしい。

このチャート自体はけっこう古いもので、自分が5年目ぐらいのときにこの検証論文が 発表されたはずだけれど(感度、特異度とも十分実用レベルだった)、このときには 「ああ、またEBMヲタが何か言ってるな」ぐらいの認識しか持てなかった。

このときはカテ屋だったから、「狭心症は疑ったらカテ」で、何の不自由も感じていなかったので。

一般内科に戻った最近は、むしろこうした診断チャートを探す毎日。 患者さんの情報はいっぱいあっても、その中から何に注目すればいいのか、 そもそも何をオーダーしなくてはならないのか、ガイドラインはあんまり教えてくれない。

分からない患者さんだらけ。大きな施設へ送ればいいのか、それともうちの病院で 様子を見ても大丈夫なのか。

このあたりに役立つチャートがたくさんあるかというと、案外どころか全然みつからない。

日本人の医師で頭のいい人、もっと頑張ってください。。。