大学生活の終わりに

大学を辞し、今後は地域医療に従事する一般内科医として生活することになりました。

研修医からシニアレジデントの頃までは、自分はこのまま循環器内科医としての キャリアを積んでいくものとばかり思っていました。

内視鏡は正直下手でしたし、医療の業界の中でもっともかっこいい仕事というのは、 今も昔も循環器内科医であると信じていましたから。

ジュニアレジデントを終えて、幸いに循環器内科に誘っていただき、 そのままカテ屋としての生活をはじめました。後から聞けば、ローテートした他の 内科は私の身柄の引取りを拒否し、スタッフ同士「どうするよ、こいつ…」という 話し合いの結果、循環器チームが私を身請けすることになったのだそうですが。

過程はともかく、結果はカテ屋。経験を積み、外を見たくなり、 大学医局の門を叩きました。

今でこそ、いろいろとえらそうにキャリアの積みかたなど書いたりしていますが、 当時やっていたのは今と全く逆。

何のバックグラウンドもなく、友達もいない、先輩や親戚がいるわけでもない土地へ、 ただひとり。当時は今以上に馬鹿だったし、実力(あると思ってました…)さえあれば、 何とかなる。浅はかにもそう考えていました。

病棟の回しかた、カテの流儀などの分化が全く違う土地での仕事。 一人で天狗になってたクソバカが受け入れてもらえるわけもなく、 この転職は不幸な転帰を辿るのが確定だったのですが、 自分が考えていた以上に実力がなかったのが幸いでした。

ヘビににらまれたカエルが動けなくなるように、絶対に勝てない相手に出会うと、 人間謙虚さが戻ります。

新しい病院での生活も、1年を終える頃にはなんとか軌道に乗り、 自分もまた病棟の風景の一部として順調に仕事をこなすことができるようになりました。

その後いろいろあって一時実家の方の病院へ->再び大学へという流れになります。

この頃には少しだけ余裕ができ、何よりも「自分が帰っていける家」としての 大学医局という精神的なよりどころがありました。

おかげで、 変化する環境を楽しみ、また新しい環境で影響を受ける自分というものを観察する 余裕も生まれ、肝心の循環器の仕事は出来なかったものの、 それはそれで有意義な時間を過ごすことができるようになりました。

その後大学に戻らせていただき、再びカテ屋としての生活。

大学というところには、けっこう特別な思い入れがあります。

自分の父親は研究者でしたから、「○○大学」という場所には小学生の頃から出入りしていました。

世の中は、誰もが「サヨク」という時代。子供が生まれたら、父親の仕事をしている姿を見せるのが 当時のトレンド。同級生が大きな会社に連れて行ってもらったり、同級生の父親の勤めている工場に、 みんなで見学に行ったりが当たり前だった頃。

世の中の例に漏れず、自分が父親に連れて行ってもらったのは、大学の研究室。

クレイのスーパーコンピュータとか、日本に入ったばかりのアップルⅡとか、 当時としてはかなり画期的なものを見せられた記憶もあるのですが、 さんざんゲームをやらせてもらった以外、たいした記憶もないのが残念です。

主に解析系の仕事をしていた親父の研究室よりも、 その隣でやってたロボット工学研究室の方が、子供にはよっぽど 面白そうに見えたりしましたし。

それでも大学というところは、子供をして「何かとてつもなく面白そうなところ」と 思うには、十分なところでした。

いつかは大学というところで働きたい。そんなことを考えながら母校を卒業。 そのまま医局へ…行きたかったのですがなかなか上手くいかず、 結局民間病院へ。

その後いろいろあって、幸い大学組織の中でも自分の居場所を何とか 見つけることができました。

そのまま行く」ことにためらいを覚えはじめたのは、1年ぐらい前のことです。

いろいろな病院を回ってきて、自分の身の回りに変化がおきるのがほとんど 日常のようになっていたからなのか、また腰のあたりがそわそわしてきました。

大学医局という場所には、いろいろな可能性があります。その場所に居残って、 研究者としてのキャリアを積むこと、医局のローテーション病院を回って、 臨床科としてのキャリアを積むこと。なんでもありです。

人を育てるシステムとしての大学医局は、相当完成しています。

どんな無茶をしようが、いいかげんな選択をしようが、 医局に籍を置いて何年かすれば、だれもがそこそこの医師になれますし、 もともとが優秀な医師であれば、その可能性を損なうことなく 優秀な医師になれます。

すばらしいシステムだと思いますし、なによりもそうした安定感こそが さまよっていたときの自分の心のよりどころになっていたりもしたのですが、 将来を考えたとき、不安になりました。

自分が何をしようが、どうあがこうが、多分後何年かすれば、「そこそこ」という場所に たどり着いてしまう。

予定調和というのは、少々無茶をしたぐらいでは崩せません。

キャリアを積んで、将来の予想や状況の判断が上手になればなるほど、 自分の身の回りにおきる変化を楽しむことができるようになります。

ところがその一方で、キャリアを積めば積むほど、自分の将来の予定調和性が見えてしまい、 努力をするほど将来が「堅く」なってしまう矛盾。

  • 慣れてきて楽しくなってきたのは「変化」
  • 慣れてきて得られたものは「安定」

けっこう焦りました。

失業の心配が事実上皆無な医者という仕事の贅沢なのかもしれません。

それでも、変化を続け、不確定な状態の面白さというものを楽しむためには、 積み上げてきたものを壊すしかないのです。

自分の目標でもあり、また循環器医であったときもそうでなかったときも自分を 支えてくれたものでもあった心臓カテーテルの技術というものは、 変化すること、先が読めないことが楽しくなってしまった昨今、 今度はだんだんと重荷になってくるようになりました。

技術は進化し、一般化します。

第一世代の先生がたは開拓者です。不完全な道具をだんだんと進化させ、 道具の不完全さを使いこなしでカバーして様々な技術を生み出し、 心カテという手技を一般化させてきました。

後に続く弟子というのは、師匠を越えなければ意味がありません。 その世代の先生方が作ってきた道はあまりにも舗装されてしまい、 後に続く者はその人の劣化コピーにしかなれません。

道具は進歩し、成績は上がりましたが、もはや進化の主体は医師個人ではなく、メーカーの技術者です。

メーカーの人は大人だから、華はこちらに持たせてくれますが、 もはや道を拓く者としての医師の姿はそこにはありません。

成熟段階に入った技術を習得するのに忙しかった頃、逆に自分を面白がらせたのが、 「自分の技術の無さ」です。同級生に比べると圧倒的に手技は下手でしたから、 技術の無さをなんとか「運用」でカバーすることはできないか、あれこれ工夫しました。

調べても教えてくれる本は少なく、参考になったのはIT関係の本であったり、経営学の本であったり。

いろいろ読んで行く中で、自分が過去に犯した失敗、意図せず「正しい」ことをやって上手くいっていた 経験、そんな昔の話を改めて面白がって文章にしていたのが、このWeblog です。

何も無いところからはじめて、運用を工夫して、得た物を一般化するという工程は、まさに 自分たちが範としてきた第一世代の先生方が辿ってきた道です。 形こそ違え、追いかけてきたのはいつも、道を拓いてきた先生方の姿でした。

弓道の無影心月流の開祖、梅路見鸞はこんなことを言っています。

「およそ師に似たる弟子を持つ師匠というのは本当に人を指導できない、 指導者の資格のない者だ」

学ばせていただいたことはたくさんあります。

針を刺す方法。造影のしかた。危機の乗り切りかた。

歴代の築いてきた様々なノウハウ。その技術を開発してきた先達の話。

本当にためになりました。

自分が結局どんな医者になりたいのか、正直今でも全く分かりません。

唯一分かっていること、あるいは「こうしたい」というのは、動くことです。

レジデントの人生は、帆船に乗るようなものです。

帆船にとっては、鏡のように穏やかな水面というのは、非常に危険なものです。

風が無ければ、帆船はどの方向にも進めません。どんな方向に吹こうが、 たとえそれが逆風であったり、爆風のようなむちゃくちゃなものであったとしても、 それが風でさえありさえすれば、舟は「どこか別の場所」に進めます。

自分が歩んできた道の見通しがだいぶ良くなって、自分の行き先がなんとなく 見えてきたような気がしたので、その先にちょっと爆薬を仕掛けて、 自分もろとも吹き飛ばしてみました。

そんなあたりが、いまの心境です。いいかげんな自覚で飛び出してしまい、 申し訳ありません。

今まで本当にありがとうございました。

また落ち着いたら、新しい病院での経過など、いろいろ報告させていただきます。