「とりあえずこうやっとけ」はけっこう頼れる

続き。ここで使っている「エビデンス」という言葉は、あくまでも誤解されているほう、 「エビデンスに基づいた診療ガイドライン」とか、「ランダマイズドトライアル以外は 信じるに値しない」などと教える過激なEBM 信者の人達が使うほうをさしています。

レンガはなくても家は建つ

堅いレンガがひとつもない地域であっても、塔や家を立てることはできる。

古い日本の家屋がそうだ。木を切ってきて、何本もの柱を立てて、間に梁を渡せば家になる。

どの柱も、けっこう適当に立てている。

垂直は完全に出ていない。個々の柱の「正しさ」は、それぞれの大工のセンスに任される。

それでも家は垂直に建つ。大体の感覚でまっすぐに立てた柱の間に梁を渡して床を張ると、 柱は相互に連結される。お互いのわずかな狂いは微妙な修正を受け、家が建ってみると どの柱もほぼ垂直になっている。

厳密な意味では、古い日本家屋に完全に垂直な柱は無いのかもしれない。それでも、数百年の 単位で家を持たせられる程度には実用的だ。

「絶対に正しい証拠」を積み重ねて病気を治療するのは、 柱を立てずにレンガで家を建てるようなものだ。

3匹の子ブタの民話では、長男の藁の家、次男の木の家は、狼の鼻息ひとつで吹き飛ばされる。

最後まで残ったのは、3男の作ったレンガの家。レンガは作るのが大変だけれど、 丈夫で確かなものとして描かれる。

木や藁は軽いから、たしかに鼻息ひとつで吹っ飛ぶ。でも、地震が来たとき人を殺すのは、 なんといっても重たいレンガだ。

医学のある分野。

ずいぶん前に登場した「画期的なスタディ」というのが、どうも「作り」が入っているらしい。

もう教科書にも載ってしまっているし、その人の論文を引用して何人もの研究者が論文を 書いているから、いまさら「嘘でした」は言えない状況。

レンガは堅い。エビデンスも堅い。ところがエビデンスは時々いきなり変形する。

レンガの家を作るように、一つ一つの論文が「正しい」ことを前提に議論を積み重ねていくのは危険だ。 「裏切られる」リスクは、積んだ論文の数が増えるほど増していく。星の数ほどいる論文製作者 の誰かが「やった」ら、論理は根本からひっくり返る。

「みんなの話」はあてになる

病棟で問題にぶち当たったときに、もっとも手っ取り早い解決方法は、「これどうやるんだっけ?」と 周囲に聞くことだ。

どの人に話を聞いても、しょせんは個人の経験。教科書に書いてあることとは微妙にずれているし、 その記憶が本当に正しいのかも分からない。

幸い、病棟には大勢の人がいる。先輩医師。同級生。病棟ナース。何人もの人に聞いて回ると、 最後には大体正しい答えが分かる。

いわゆる「エビデンス」は無い。

  • 昔こうやったらたまたま上手くいったという経験
  • うちの科ではいつもこうやっているという伝統
  • 有名な○○先生はいつもこうやっているそうだ、という伝聞
  • 中には一人ぐらい、論文を引っ張った奴もいるかもしれない

立場の違う人達の様々な意見。どれも大体正しいことを言っているようで、 どれも微妙に間違いを含んでいる。

大体、何が本当に「正しい」のかなんて 神様でもなきゃ分からない。論文もそうだ。「○○に効果があった」という結論が 導き出されたところで、本当にその方法がベストなのか、その疾患の全重症度の 人にそれをやっていいものなのかといった疑問には、論文は答えてくれない。

病気は時間と共に悪くなっていく。

検索システムがこれだけ進歩した現在でも、 状況に応じた論文を引っ張ってくるのはあまりにも時間がかかりすぎ、また 一本で状況にぴたりと一致した論文が出てくるのはまれだ。

「僕はこう治したよ」という意見の集積は、レンガを積んでいくやりかたとはわけが違う。

病棟業務というのは、

「問題点の発見->その評価->薬や点滴の選択->効果の確認->ドツボった場合の対処」

といった一連の流れの繰り返しだ。

個人の経験というものは、これらの業務のコンポーネントを全て含んでいる。 間違いも含んでいるかもしれないけれど、それは「みんなに聞く」ことで正解に近づけることができる。

技術競争の現場のやりかた

BARホンダがF1に久しぶりに参戦したとき、セナやプロストを擁していた世代の技術者は、 最初は参加しなかったのだそうだ。現場に飛ばされたのは、あくまでも若手の技術者。 専門家のプライドを持って、現地の鉄火場に乗り込んだらしい。

会議の席。エンジニアが「今のエンジンには、こういう問題がある」という指摘をしたとき、 みんなから返ってきたのは「じゃあ君ならどういう解決策があるの?」という一言。

返答できなかったそうだ。

レースの会議は、即断即決の場。

新人だろうがベテランだろうが、新しいアイデアを持ち込んだり、 問題を解決する答えを持つものは即戦力として貴重だが、 そうでない人には居場所はない。

意見はぶつかる。ここで対立する意見というのは、問題の解決方法までを含んだプランだ。 様々な立場のエンジニアのプランを集約することで、自然に「正解」に近い解決プランが作られる。

あんまり正しい方法論では無いかもしれないし、問題の解決プロセスの断片断片ならば、 もっといい意見を持っている人がいるのかもしれない。

それでも問題は解決する。正しくは無いけれど、「正しく」やって次のレースに間に合わないよりは よっぽどいい。

水先案内としての「伝統」や「直観」

水準器も無しに家をまっすぐ建てようと思ったら、 他の家とかそのへんの木とか、すでに「立っている」ものを参考にすることだ。

エビデンスを詰めば、行先が分から無くても真理に辿りつくことができる」というのはナイーブにすぎる。

どんなに厳密な論文も、ゆがみや誤差からは逃れられない。「積んでいく」方法論では誤差は蓄積し、 正しいものの積み重ねで得られた結論というのは、臨床の感覚とは著しく乖離したものになる。

ゴールがなんなのか、たどり着く先はどこなのかが分かっていないと、 正しいものを積む戦略というのは、しばしば行き場を見失う。

演繹的な思考から新大陸の存在を確信していたコロンブスだって、 航海には昔の人の海図をもっていった。目標を持つのは大事だ。

今の「エビデンスに基づいた」ガイドライン。正しいのかもしれないけれど、あまりにも 煩雑すぎたり、現場の感覚と乖離しているものが多くて、使い物にならないものも多い。

有名な心肺蘇生のガイドライン「ACLS」も、2005年版になって大いに内容を変えてきた。

1995年版の心肺蘇生ガイドラインの基本コンセプトは、「俺達が正しいといったんだから正しい」。

エビデンスなんてまだまだそんなに無かった頃。救急の現場は滅茶苦茶。 正しくやっているヒマなんかなかった。 とりあえずの叩き台としての側面もあったのだろうけど、 このガイドラインはシンプルで、十分に役立つものだった。

エビデンス全盛の2000年。ガイドラインは大きく変貌し、「正しく」なった。

内容はもう教科書。製作者は国際的な委員会を作った。 表書きにはガイドライン作成にかかわった人たちが何人も名を連ね、 山のような参考文献だけでちょっとした本1冊分。正しいかもしれないけれど、ガイドラインは 大きく重くなり、「正しいけれど人は死ぬ」、使う気にならないものになってしまった。

そして2005年。大きく複雑なガイドラインは教育が難しく、結果として心肺蘇生ができる人の 数を減らしてしまった…という反省文から始まったシンプルなガイドラインは、 大いに内容を変えた。

今度のガイドラインは、「作者の顔が見える」。

何を一番優先したいのか、結局のところ 我々は何をしたいのか。2000年版のガイドラインが、迷走したのに比べると、 今度のガイドラインは「何がなんでも心臓動かせやゴルァ」という 作者の気合が伝わってくるようだ。

伝統とか、昔の人達の直感とかいったものはかなり当てになる。

私を導くのはまだみぬ未来でなく、歩んできた道だ。だから確信できる。

伝説のモーフィアスだってそう言ってる。

集団の作り出す知恵

今まではこうやってうまくいっていたとか、自分の直感ではこうなるはずだといった感覚は、 いいかげんなものだ。

いいかげんなものだけれど、適切な状況下では、それを集積すると、かなり正確な予想が立てられる。

衆愚政治といわれるように、人々は集団になると愚かだと考えられてきたが、 適切な条件の下では、集団は個人より正しい判断を下すことができる。 たとえば、牛の体重を当てるコンテストでは、 投票された平均値が誰よりも正解に近かった。 たとえば、スペースシャトルの事故が起こったとき、 エンジンを担当した会社の株価が急落し、まさにそのエンジンが事故原因だった。 Invisible Circus: 『みんなの意見は案外正しい』

James Suroweickiの『The Wisdom of Crowds』によれば、「Wisdom of Crowds」 (群集の英知、集団の知恵)が成立するための条件は、以下の4つであるという。

  1. diversity of opinion (意見が多様なこと)
  2. independence of members from one another (メンバーが互いに独立していること)
  3. decentralization (中心を持たないこと)
  4. a good method for aggregating opinions (正しい方法で意見を集約すること) Zopeジャンキー日記 :群集がいつも賢いとは限らない

昔も今も実社会では空気を読まない発言をよくするけれど、昔と今とでは一応 考えかたが変わってる。

昔は単に騒動が好きだったり、話題の中心に自分がいないと我慢できなかったり。

今は、自分の役割として、カヌーの上の犬を想定している。

ハワイ(だと思った。とにかく南のどこか)では、カヌーに乗って外洋に出ていくとき、 犬を一頭連れて行く。

犬は水に落ちたくないから、カヌーの上でバランスを取る。

カヌーの上では、人と犬とは独立して動く。航海者がバランスを多少崩したり、 判断を誤ったりしたとしても、 舟全体のバランスは犬のおかげで保たれる。

病気の人が来て、スタッフの空気が「やっちまおう」だったらあえて保存的な治療を提案したり。 最小の賭けで最小の利得を狙う空気なら、あえてギャンブルの提案をしたり。

現場では、常に「空気を読まない」発言をすることで、そこに集まった人たちが集団思考の罠に陥らないよう、 一応自覚的に振舞ってみてはいる。それが役に立っているのか、あるいは単に空気を乱しているのかは 分からないけれど、それなりに気を使って空気を読んでいる。

研修医の人達へ

ローテーション研修2年目。

上級生と話をする機会はますます減り、それを補うかのようにインターネットの進歩や論文検索の 技術が進んでいるけれど、やはり「飲み屋での馬鹿話」の大切さを見限らないでほしいと思います。

論文を漁って、「正しいレンガ」を作るのも大切です。けれど、 歴史を学んで、問題点の見つけかた、解答への「あたり」のつけかたを学んだり、 限られた情報からプランを作って示す練習を積んだりするのもまた大切なことです。

「正しさ」は、最後は適切に条件づけられた集団が保証してくれます。なんといっても、 病院のほとんどのスタッフは、研修医よりも年次が上なんですから。

その集団を動かすのは研修医です。

抱えている問題点を可視化して、 「みんなの意見」を出してもらえるような空気を作り出すことは、 患者さんに直に接する主治医の力量です。

そろそろ研修終了。

みんないろんな場所に散ってしまうし、自分もまた大学から 離れてしまうけれど、「みんなで何かやる」ことの大切さ、楽しさというのは やはり大きな病院ならではです。

大学という場所のすばらしさは、まさに「みんな」、 研修医の同級生やいろいろな先輩、自分のようなヤクザから、多くの専門医 に至るまでの多様な人たちがいたことなんじゃないかと思います。

皆さん頑張って、それぞれの場所でまた「みんな」を増やしてください。

特に2年目の人。今度は、あなたがたが「みんなの意見」を言う側に回り、 研修医を助ける番です。

潰さないようにね…。