言葉と対話に関する3題

新しい職場に来てから考えたことなど。

深夜のコンビニで

20代やせ型男性。髪金髪。前歯溶けてて、両耳にはピアス5個づつ。

こんな兄ちゃんがレジ打ちをしていた深夜のコンビニ。何故かやたらと混んでいた。

「ぉにぎぃ~ぁためますくゎ~?」

前歯が無いからなのか、前頭葉もろとも持ってかれてるのか、呂律の回らない声で レジの兄ちゃんが何か言う。マニュアルの言葉を思考しないで繰り返しているんだろう。 自分のおにぎりのことだと理解するのに数秒かかった。

電子レンジが回る間も、人が列を作る。兄ちゃんイライラ。みんなもイライラ。 言葉なんて無くても分かる。空気テンパりまくり。

自分の次にならんでいたのは、小汚い爺さんだった。喧嘩弱そう。 多分自分でも凹にできる。しないけど。

係わり合いになるのはまっぴら。おにぎり受け取って、さっさと出ようとしていた時、 会計を済ませた爺さんが兄ちゃんに一言。

「忙しいのに一人で、大変だね。」

イラついてレジをさばいていた兄ちゃんは、急にうろたえたような態度になった。

「たっ…大変…です…。」

一瞬黙って考えた後、兄ちゃんはどもりながらこう返事した。

何年かぶりに「言葉」を思い出したみたいだった。

アフガニスタンの携帯電話

砂以外に何もないようなアフガニスタンにも、 携帯電話のネットワークを作る会社があるらしい。

アフガニスタンの携帯電話会社、RoshanのCEO、Karim Khoja氏の話。 彼は荒廃した祖国に、携帯電話ネットワークを建設した。

携帯電話のネットワークや、その販売/運営のためのインフラ作りを通じて、 彼の会社は現在、アフガニスタンに本当の中流階級を作りつつあるという。

彼の言葉。

If people can speak, they don't fight.Tech Mom from Silicon Valley - 感動のアフガン物語 より引用

なんか、気合が違うな、と思った。

「大聖堂」を読んだ

Ken Follett の「大聖堂」という小説を読んだ。

12世紀のイングランド。いつか大聖堂を建てることを夢見る建築職人トム・ビルダーは、 職を求めて放浪の日々を送っている。 そのころ、かつての大修道院キングズブリッジは衰退し、 その大聖堂も大掛かりな修復を必要としていた。 折しも教会を軽視してきた国王が逝去し、イングランドに内乱の危機が迫る。 ―壮麗なる大聖堂の建立をめぐり、数多の人びとが織りなす波瀾万丈の物語。

イギリスの時代小説。

大聖堂という、時間もお金も名誉も絡む一大建築物をめぐって、地元の貴族や王族、 教会の修道士や司教といった権力者たちが、30年にわたってドロドロの闘争を 続ける話。

巨大な建造物を作り上げるには民衆の助力が不可欠。ところが、それを手に入れるやりかたは、 同じ権力者でも全く逆。

  • 貴族や王族は、武力を使って民衆を従えようとする
  • 教会側は、神の言葉を借りて民衆を従えようとする

物語(実話らしい)は終盤、ヘンリー国王が教会に譲歩する形で終了するけれど、 もちろん歴史はその後もずっと続く。

武力と言葉。「大聖堂」のテーマのひとつが、この2つの方法論の争いだ。

舞台となった12世紀。世の中には「集団の叡智」なんていう概念はなかった。

民衆の支持を集めるための争いというのは、すなわち「集団」を「衆愚」と化すには どちらの方法が効率がいいのかという競争だった。

中世世界で民衆に許される選択肢は、2つだけ。

  • 王の力に屈して衆愚となる
  • 教会の言葉に屈して衆愚となる

個人として生きていく選択肢などこの時代にはありえず、 選択を受け入れられない者は集団を離れ、森で孤独に暮らすしかなかった。

集団を衆愚へと変換するシステム

集団というのは叡智を持った存在なのか、それとも衆愚なのか。

「大聖堂」の時代から800年が過ぎた現在、世界で対立しているのは武力と言葉ではなく、 「民衆」という存在の考えかたそれ自体だ。

集団というのは、もちろん愚かなほうが支配が楽だ。個人の思考なんて邪魔。 上のいうことを聞いてくれたほうが楽。

伝統的な権力システムを作れる側に回った人は、「民衆」を「衆愚」に変えるべく、 様々に知恵を絞ってきた。

12世紀は武力や言葉。

20世紀は様々な政治のシステム。

そして現在は広告とマスコミ。

小説「大聖堂」の権力者は相変わらず栄えているけれど、現在は12世紀とは違う。

小説中ではごく少数しかいなかった「森の中で暮らす人々」は、現在はどんどん増えている。

伝統的な権力と、独立した個人の集団。両者の対立は、最近始まったばかりだ。

対話への夢

昔から言葉に興味があった。

相手を打ち負かして、反撃の意欲を奪い、 こちらの思うままにコントロールする。おもしろかった。

年次が上がった。

レジデント同士馬鹿をやっていれば良かった時は過ぎ、 いろいろな人の知恵を借りて、協力しないとやっていけなくなった。

喧嘩をするなら弱い相手の方が楽だけれど、協力するなら逆。 自分よりも力の強い人と組んで、その人の力を最大に分けてもらったほうが、 結果として楽。

この何年間か、自分の言葉の方法論は、だんだんと変化した。 一方的な攻撃から協力へ。

それでも、もしかしたら根本は変わっていなかったのかもしれない。

現場の医師が逮捕される自体が続いた。

適当なレッテル貼りをするマスコミを呪い、いいかげんな対応の司法に怒り、 結果責任で現場の医者を非難する市民に怒った。

医者に神になれなんて無茶だ。地域の宗教家がもっと力を持っていた頃ならば、 今のような泥仕合になる前に、きっと丸くおさめてくれたのに。そんなことを考えていた。

「大聖堂」の時代から現在への流れの中では、 宗教的な世界観とマスコミの作り出す世界観というものは、あんまり対立していなかった。

宗教が強かった時代に懐かしさを覚える一方で、マスコミの人を敵視する自分というのは、 本当に対話がしたかったのだろうか?

それとも、単に自分以外の全ての人に、もっと愚かになってほしかったのだろうか?

  • コンビニの兄ちゃんと爺さん。住んでる世界が全く違う人同士でも、対話をすれば 言葉はよみがえる。
  • アフガンの携帯電話会社の社長さん。対話の生み出す世界に対して、けっこう本気で夢を持ってる。

「賢く相手を利用する」便利な方法としての言葉と、「対話」との違いというのは、 対話の相手をどこまで信頼しているのかという部分だ。相手に対する信頼がなければ、 そもそも「対」が作れるわけがない。

大学から「ストリート」へと戻って10日。

病院にも慣れ、昔なじんでいた言葉も戻ってきた。

強弁や恫喝。患者さんやその家族と話をするのに頼ってきた、言葉や会話の方法論。

なれている言葉というのは大きな武器になるのだけれど、対話の可能性を 潰してしまう。

いまはそれを少し引っ込めて、 もう一度「対話」というものに夢を持ってみようかなと思ってる今日この頃。

問題になるのは、なんといっても決定が下されるまでの時間が延びてしまうこと。

かけ出しの頃は無理だったけれど、今は、昔よりは時間を腕で補える。

今度は何とかなるだろうか?