前エントリーへの返信

分かりにくい文章を書いてすいません…。

このエントリーもたとえ話ばっかりです。勿体つけてるわけじゃなくて、 もともとアナロジーを考えるのが好きなだけなんですが。

シマウマのたとえ話で意図していたことというのは、大体以下のとおりです。

サバンナの登場人物(?)は3種類。

  • シマウマは医者
  • ライオンは刑事罰とか、警察官や弁護士とか、あるいは「ルール」の概念そのもの
  • サバンナの観察者としての神様は別にいて、これは「民医」とか、「みんなの意見」とか、そんなものの総意

結論としては以下のとおり。

  • 医者がかつてイメージしていた「自分の全力で医療にあたる良医」というものは、 いつのまにか国の考える「安価で素直に死ぬまで働く医者」という似たイメージに すりかえられてしまっている。
  • 医者が考える「良医」と、国民、あるいは国家の考える「良医」というものは似て非なるもの。
  • 医師がその良心の表現として「良医でありつづけよう」と思ったところで、 国民、あるいは国家との「良医」のイメージの共有ができていない以上、何の意味もない。
  • 相手に変化してもらうためには、まず自分たちが変化するしかない。
  • このとき、「良医」に 代わる別の理念にとらわれて、皆が一方向性に変化するのは駄目で、 個々に多様性を志向する必要がある。

こんなところでしょうか…。

以下延々とたとえ話。文中、「理念」という言葉と「イメージ」という言葉はほとんど 同じ意味で使っています。

モラルとは個体の持つ理念

ライオン登場前のサバンナ、シマウマの楽園状態だった世界というのは、 白い巨塔の原作が登場する、さらに前の話。カンフル剤などが普通に使われ、抗生物質が やっと登場した頃。

医者の治療はみんな俺様節全開。エビデンスなど言葉すらない世界。 みんな「かくあるべし」という良医の理念を信じて頑張り、一方で疲れて開業すれば 左うちわでウハウハ。

そんな時代が本当にあったのかすら知りませんが、分からない世界を懐かしんで表現したのが 「シマウマしかいない最初のサバンナ」です。この世界でのシマウマは天敵がいないので、 「シマウマたるもの、かくあるべし」という理念を自分達で作って、 のんびり草など食べています。

管理者の持つ理念は個体にルールを強要する

サバンナがシマウマだらけになってしまうと草は枯れるし、何よりも景色が単調です。

「サバンナは、こうあってほしい」という理念を神様が持ちはじめたとき、 その理念の具現者としてライオンがサバンナに現れます。

ライオンはシマウマを追いかけ、その群れの一部の個体を殺します。

観察者としては、そうした事件が時々あったほうが見ごたえがあります。 これが、神様が考えた「こうあるべき」サバンナの姿でもありますし。

いきなり天敵が現れたシマウマは、たまったもんじゃありません。

  • このままでは医療が崩壊する
  • 医者と患者の信頼が…

シマウマは神様に向かって吼えますが、神様サイドはそんなこと知ったこっちゃありません。

  • ライオンが登場したことで、シマウマは、「かくあるべし」と決めた自分達のシマウマのイメージが保てないと文句をいう
  • 神様としては、ライオンを導入することで「かくあるべし」と決めたサバンナのイメージが出来上がり、満足

シマウマが自己規定したシマウマの姿と、 神様がイメージした「サバンナの中のシマウマ」の姿とは、ほとんど同じですが違いが一つだけ。

神様にとっての「あるべき」シマウマの姿というのは、毎日ライオンに食われなくては いけないという部分です。

ルールというものの不確定性

シマウマと神様。お互いの理念の対立が生じたときに「ルール=ライオン」が生まれ、 シマウマにとっての「モラル=個体の理念」は崩壊します。

ルールというのは、誰にとっても確定不可能なものです。

神様は創造主です。サバンナを造り変えようと考え、自分のルールブックに「ライオン」と書くだけで、 サバンナにはライオンが現れます。

ところが、神様がライオンを創造した瞬間、創造という行為そのものが 創造物たるシマウマ、ライオン、それぞれに影響を与えてしまいます。

ルールは世界に現れますが、それをどう解釈し、どう運用するのかを決めるのはサバンナに生きる 被創造物(ライオンとシマウマ)の権利です。

最初の頃こそ、シマウマは神様の想定どおりの頻度でライオンに食われます。

ところが、ライオンの振る舞いが学習されると、シマウマもまた変化します。

政治力に長けた奴。走るのが速い奴。ときに、ライオンをも倒す牙を持つ奴。 新しい個体が生まれ、世界はまた別のバランスへと移行します。

ライオンはシマウマを捕まえられなくなると、サバンナの中で呆然と立ち尽くすしかありません。

神様はライオンを造り変え、その変化に応じてシマウマもまた自分の振る舞いを変化させます。

お互いの変化は多様化を生み、 多様化は神様の制御を外れてどこまでも続き、確定的なものが何もない世界。 これがルールの支配する世界だと思います。

自己イメージに縛られた個体は淘汰される

一方で、変化を拒む個体もいます。「シマウマとはかくあるべき」。

太古の昔、自分達の種族だけで決めた誇り高いシマウマの自己イメージは強力で、 それを捨て去るのは邪道だと考えるシマウマ達。

神様にとっては、これほど 可愛い創造物はいません。毎日サバンナに血しぶきを飛ばして、 労せずして神様にいい見世物を提供してくれるのですから…。

たしかに、神様が行った行為、ライオンをサバンナに放つという行為は不当で、理不尽です。

この世界でのシマウマの振舞いかたには2種類の選択肢があります。

  • 新しくなったサバンナのルールに合わせ、自らを最適化させる道を選ぶか。
  • 神様の不当性を神様に訴え、誇り高い死を選ぶか。

雪山遭難などの想定外の事故の際、子供のような素人がけっこう生き延びる一方で、 ガイド経験者のような専門家はあっけなく亡くなってしまうケースがあるのだそうです。

これは、想定外の事態がおきた時、なまじ専門知識がある分だけ「登山家はかくあるべし」という 自己イメージにとらわれてしまい、生き残るために本当に必要な行動を起こすのに 貴重な時間を浪費してしまうためだとか。

世界の一部にしかすぎない医者からみたモラルだけでやっていけた世界、 あるいはその世界の崩壊というのは、「かくあるべし」という理念の主体が 医者個人から国民全体へと移動しただけなのかもしれません。

医者を規定する理念の主体が、医者が単なる個体にしかすぎない「国民全体」へと移ったとき、 医者からみた「世界」にはライオンの出現のように理不尽な現象がおこります。

それが、最近医療者界隈を騒がせている刑事訴訟だと思います。

「医師とはかくあるべし」という理念の主体が医師の手から奪われた現在、 その管理者の理念、かつて自分たちが持っていた 「良医」という自己イメージにしがみつく医師は、運が悪ければ淘汰されます。

解決は変化と多様化

理念の主体の移動に対抗する手段というのは、変化と多様化です。

理念に縛られている限り、医師は画一化し、世界の観察者から見た 医師のイメージはシンプルなものになり、ルールの変更は容易になります。

一方、医師の行動が多様化し、その生存戦略が一人一人ばらばらになれば、 観察者は何をすればいいのか方針が立てられなくなり、 集団としての医師が相手の理念に縛られる可能性は低くなるかもしれません。

  • 医師とはかくあるべし。
  • あの病院に入れば勝ち組み。
  • 今後は皮膚科最強。
  • 心外に入った奴らは負け確定。

しょせんは全部理念です。従った時点で、いままでの歴史の繰り返し。

個人的には、どんな選択をするにしても、自分の属する局所の世界はどんなところなのかを 感じ取って、自分なりの生存プランを作り上げて、世界の変化に自覚的に 世の中渡っていくのがいいんじゃないかな、などと考えます。

お国の提示する「いいお医者さん」イメージなど蹴飛ばして、みんなが 好き勝手なことをはじめると、世の中がぜん面白くなります。

ベンチャーを立ち上げる奴。金もうけに汲々とする奴。意表をついて、僻地医療にまい進する奴 がいたってかまわないわけです。何が勝ちとか、何が負けとかじゃなくて、 みんなが好きなことをやる。

医療サービスの受け手も、総体としての医者のメタイメージが作りにくくなれば、 医者の批判どころじゃありません。目の前の医者の話を聞いて、 自分の価値観で納得できるかどうかが全て。

医者が変化すれば、 その変化に合わせて「神様」側だって勉強しなくてはいけません。

お互い変化と多様化を繰り返してぐちゃぐちゃになった世界。

自分の志向する理想の社会像というのは、こんなものです。