情報の発信と自我の拡散

自分探しとしての蔵書の探索

本だけは、けっこういっぱい持っている。

ガキの頃から壁という壁が本棚だったのは当たり前の風景だったし、 今でも結局そうなっている。1冊1冊の本は、そんなには大事に読まない。 ドキュメントだろうが小説だろうが、なにか「来た」部分に線を引きながら、1回読んだら 2度と読まない。あとは本棚に積みっぱなし。整理もしない。売り物にはならないから、そのまま。

考え事をするとき、昔読んだ本の文章が頭の中に復活する。それは立花隆のドキュメントの一節だったり、 ヘルシングの少佐の台詞だったり様々だけれど、気になったら蔵書を漁る。

昔はよく、1日かけて本棚を探した。蔵書は自我の象徴だ。本を探す作業というのは、 そのまま自分の記憶を検索する作業になる。たとえ本がみつからなくても、プロセスが重要だった。

ネットに移行した自我の主体

いつの頃からか、本棚漁りをしなくなった。

今は、自分の本棚から本を探すときには、インターネットで探す。

頭に浮かんだ文章や台詞、表現がどの本に書いてあったの分からないとき、 大体の文面や言葉を思い出して、その言葉でネットを検索する。

よっぽどマイナーな本でない限り、本というのは誰かが読んで、その表現や感想をネットに発信している。

たいていの場合、引用もとの本の題名や、作者の名前ぐらいはそこに書いてあるから、それさえ分かれば 自分の本棚を探せる。

ネットに文章があっても、やはり現物を読むと、また違う。 その本を読んだときの記憶とか、いろいろ線を引いたページに書いてあるメモなどを 見ていくと、その時の思考や状況がよみがえる。思考の時間/空間的な記憶装置としては、 本というメディアの記憶能力は相当に高い。

本棚というのは自我の象徴。線を引いた蔵書というのは、その時の自分の思考の記憶そのものだ。 自我としての蔵書は、相変わらず手元にある。ところが、その自我の中に埋没した言葉を検索する作業は、 もはやネット上に拡散した他人の記憶を検索することに依存してしまっている。

いつのまにか、自我というものはネット上に拡散していた。 思考はもはやスタンドアロンのものではなくなり、ネットという道具がないと、 自分の記憶を検索することすらできなくなっていた。

ネット上に拡散する自我。個人の崩壊。集団知の出現。

こういったテーマは、サイバーパンク系のSF小説の定番だけれど、 脳を直接ネットにつながなくても、自我は勝手に拡散をはじめている。非常に面白い。

ネット世界への入場券としての「発信」という行為

変化の原因はいくつか考えつく。

  • 蔵書の増加
  • ネットの進化、とくにgoogle出現以後
  • blogブームになって、ネットの文章量が飛躍的に増えた

たぶんどれもが原因になっているのだろう。それでも、「これ」という決定的な原因は、 やはりネットで何かを発信するようになったからだと思う。

情報の受け手でしかなかった頃は、ネットを見ても「自分」は常に手元にあった。

何を読んでも、自我というものはある程度の影響を受ける。 それでも、「どの程度」の影響を受け取るべきなのかという判断は、こちらから何かを 発信しない限りは100%自分で決定できた。

ネット上に何かを発信する側に回ると、そのあたりがかなり変わってくる。

何かの情報を読んで、それを自分なりの解釈スキームでもって処理して、 「自分の意見」として発信する。

HTMLを自分で書くようになって、Weblogを定期的に発信するようになって、こうした サイクルが日常生活に組み込まれるようになると、ネット内の他人の思考が、 自分の中に入り込んでくる。

ニュースにしても、事件にしても、日常生活を営んでいる限り、普通の人が「1次情報」 を発信できる機会は少ない。情報を仕入れるという行為は、たいていの場合は 「1次情報」に誰かの思考スキームが加わったものを頭の中に入れることになる。

実世界でもネット内でも、ある種の「誠意」を見せない者には、だれも近寄ってこない。

ネット内での「誠意」というものは、他人の思考に一定の敬意を払うということだ。

情報だけもらって、相手の意見など全く無視して、俺様節全開の長文を書き殴ったところで、 2chのネットウォッチ版で「痛い奴」扱いされるのが関の山。

何か分かってもらいたいことを発信して、一定数の読者に共感をしてもらおうと思ったら、 必然的に他人の思考ルーチンを自我の中に組み込まざるを得ない。

程度の差こそあれ、こうした現象はどの発信者にもおこりうる事で、自分の思考が 他人の自我に入り込み、また他人の思考が自分の自我に組み込まれる。

情報を受け、発信する者の自我というのは一種の反応拡散系となる。 自我はネット内に拡散し、思考は自己組織化をはじめ、大きく成長する可能性を得る。

ワールドワイドウェブを図解するときに用いられるのは、たいていの場合は無数の点と、 その点と点とを結ぶ無数の線だが、ただ単にパソコンをネットにつないだだけでは、 まだその「点」にすらなれていない。

情報を受けるだけの人というのは、ウェブの観察者にしかすぎない。

ウェブの中に入ったり、あるいはウェブそのものの一部になろうと思ったら、どんな形であれ、 何かを発信する必要がある。それは自分のホームページを持つことであったり、 サイトの作者にメールをすることであったり、2ちゃんねるで「名無しさん」として 何かを書き込むことであったり。形はいろいろ。

赤の女王の支配の果てのポジティブフィードバック

「いいかい。ここでは力の限り走らなきゃいかんのだよ、同じ場所に留まるためにはね。 もし他のところへ行きたいのなら、その2倍の速さで走らなくてはならなんのだ。」 鏡の国のアリス 赤の女王

ネットという場所で要求される「走り」のスピードは、ますます速くなっている。

発信できない人は、すぐに置いていかれる。おいていかれたところで死ぬわけでもなんでもないけれど、 一回はなれてしまうと、せっかく拡散させた自我がまた収縮してしまう。けっこう寂しい。

1人の人間が持っている情報など、たかが知れている。

blogを書いて大体1年ちょっと。本からの引用をしない、事件の感想は極力書かない、 医療系以外の話題は書かないというルールを科すと、書ける話題は本当に少ない。

1年やって、大体ネタ切れ。自分の中からは、もうあんまり発想が出ない。

それでも何か書くと、またどこからか新しい発想が出てくる。 誰かが新しいことを書くからだ。

分野が別でも、新しい思考ルーチンというものは、自分の属する実世界にも影響を与える。

情報を発信する順番というのは、最初は「情報の入手->情報の考察と加工->発信」という 過程を経るのだけれど1年も経つとこの「情報の入手」が尽きてくる。ところが、 ネットにつながっていることで、自分の頭の中には「他人の思考」が勝手に入り込んでいる。

発信という作業を繰り返して、自我を拡散させることで、 「他人の思考回路で自分を取り巻く実世界を再考察する」 という作業ができるようになる。

今までは面白くもなかった過去の作業記憶は、新しい思考回路でもう一度見直して見ると、 また新しい切り口が見えてくる。

過去の記憶の検索はどこから行うのか?

冒頭にも書いたとおり、「過去の自分探し」と言う行為自体もまた、 ネットを検索することで行うことができる。

思考にはポジティブフィードバックがかかり、発信する材料はまたいつのまにか頭の中に誕生している。

自我は個人に帰属するものなのか?

よいプログラマはよいコードを書く。偉大なプログラマはよいコードを借りてくる。

ネットへの接続と情報の発信、それに伴う自我の拡散と、情報発信のポジティブフィードバック という現象は、もはや「発想」というものの帰属が誰に属するのか、 そもそも「オリジナル」とはどこまでのことを指すのかすらあいまいにしてしまう。

ネットワークに長くつながって発信していると、 自我はますます拡散/変容していき、どこまでが自分で、どこから先が 誰かの思考の引用なのかの境界がどうでもよくなる。狂ってるけど、その狂いっぷりがまた、 妙に気分がいい。

情報は、常に誰かの思考過程を内包している。

自我がネットワークに拡散していくと、自分と他人、情報と思考の区別すらあいまいになってくる。

頭に入力された情報は、そのうち勝手に組織化を始める。 文章を生成するとき、それが果して自分の思考の産物なのか、 「思考プロセスの断片を内包した情報の集積」が生み出す必然であったのか、 そのうちどうでもよくなってくる。

もっと多くの人が発信して、もっと多くの人の自我がネットに流れると、 意識の拡散の範囲は今よりももっと大きくなって、自分というものがもっとどうでもいいものになり、 「つながりっぱなし」になる人の割合は増えてくる気がする。

自分の場合、病院で白衣を着るという行為が、物理現実へと立ち返る鍵になっている。 直前まで何を考えていようと、給料をもらっている以上、患者さんの前では「普通の医者」の 振りをしないとプロじゃないから。

そうした鍵のない人、ネットにつながるという行為自体が日常と化している人の自我というのは、 ほっておくとどこまでいってしまうのだろう。

もう数年たって、外来などをしていると、「均一なるマトリクスの裂け目の向こう、 広大なネットの何処か、あるいはその全ての領域」に行ってしまった人などが、 運ばれてくる時代がくるのだろうか…。