移動生活を続けるのに必要な技術

移動の時期だ。

今いる職場でも、来年度以降の人事の話題が増えた。

来年は○○病院へ移動になった。また小児科が撤退するらしい。 来年大学に残る2年目は、○名いるらしい。などなど。

医師の未来の不確定性

雇用も流動化した。医局が強かった頃は未来が読めた。自分の10年後。20年後。

10年目に専門医を取って、20年目には市中病院の部長級の椅子に座って、 その後は忙しい職場を離れて悠悠自適。そんな未来が想像できたのは10年前まで。 今では、自分の3年先が読める医師の方が珍しい。

仕事が不安定だ。

病院という場所は、社会の変化をもろに受ける場所だ。 住民層の変化。町の高齢化。市議会で可決された法案。今まで楽しく働けた職場でも、 こうした変化は病院を否応なく変える。

市民派の」市会議員が当選した某市の市立病院では、なぜか市民団体からのクレーム電話が 病院に殺到するようになった。比較的うまくいっていた市中病院は、 今では夕方5時を過ぎると子供連れのお母さんで待合室があふれる。 親の怒声と、子供の泣き声。来年には小児科が撤退を決めた。

名刺代わりの医局

一つの場所でずっと仕事をしていくことなどまずありえない。 社会がそれを許してくれないし、仮にできたとしても、知識や経験はどうしても偏る。

医局が強かった頃、医局というのはそうした医師の移動装置としても機能していた。

市中病院が常勤の医師を迎えるということは、医師「個人」を迎えるというよりも、 「○○大学出身の医師」という肩書きを迎えることだった。

今いる医師の評判が悪くても、数年もすれば医師はまた移動になる。たとえ いい結果が出なくても、病院側も長い目で見ていたし、迎える側と送り出す側、 共に未来を想像する余裕があった。

今は無理だ。病院も医局も、もはや「次」なんて考える余裕などない。 大事なのは「先」でなくて「今」。個人の資質が問われる時代だ。

属性の時代から固有名詞の時代へ

血液型とか出身地、あるいは学歴とか勤め先などの「属性」で、 人を決めつけてしまうような考え方が、私は好きではない。 私は属性を信じない。私が信じるのは固有名詞だ。 その人の作ったもの、その人の書いたもの、その人の仕事を見て、 「これはいい」「これは面白い」と思ったら、私はその人を信用する。 その人の属性は関係ない。 Zopeジャンキー日記 :私は属性を信じない 私が信じるのは固有名詞だ

人の技量を決める上で、どこまでが「属性」で、どこまでが「固有名詞」なのかは議論がある。

大きな医局、強い医局に属するということだって個人の技量を証明しうるし、 だいたい人間の技量、一緒に働いて楽しい奴なのかどうかといった問題を、 初対面の時点で把握することなど無理だ。

個人の「固有名詞」の要素を、初対面の相手に伝えるのは難しい。医者の場合、今まで作ってきたものなど 論文ぐらいしかないから、なおさら難しい。ならばやっぱり「属性」要素がこれからも重要なのか…という 話になってしまうのは、あんまり有名じゃない大学を出た人間としては、ちょっと悲しい。

自分がどんな技量を持った人間なのかを速やかに分かってもらうのは難しい。 でも、難しいのは誰だって同じだ。同じなんだから、そこには競争をするだけの 余地が残ってる。

移動が生活の一部になる時代。自分の技量、自分の長所をよりすばやく職場に理解してもらえる医師は、 そうでない医師に比べると、いろいろ幸せになれる可能性が高い。

可搬性に優れた技術とは

ハリウッドでは映画をつくる際、プロジェクトごとにプロデューサーが立ち、 映画会社の枠を超えてスタッフを集め、映画を作る。制作が終わると解散し、 また別のプロジェクトでは、それに合ったスタッフが集まる。 そうしたやり方は“ハリウッド方式”と呼ばれる。

いい映画に参加するためには、プロデューサーに顔を覚えてもらわなくてはならない。

スタッフは、最初は低予算の映画からキャリアを始めて、いろいろなオーディションを 渡り歩く中で顔を売り、だんだんと大きな映画の製作へと参加していく。

有名になるには移動が必要で、移動する先々で「結果」を出し続けなくてはならない。

ハリウッド方式は人を長期間雇用しなくて住む反面、短期間の人件費にかかるコストは 莫大なものになる。落伍者も多い。熟練するのに長期間かかる職種は、そもそもこの 方式には乗りにくいなどの問題も多い。

それでも、こうした社会で生き延びていくのに必要な技術の習得のしかたというのは、 移動を前提として医者をやっていく上では欠かせないような気がする。

持ち運びを前提とした技術。どこにいっても通用する技術。 初対面の相手を納得させられるような技術。移動生活をしていく中で役立つ知識や技術というものは、 以下のような特性を持つ。

  • 設備投資がいらない
  • 再現性がある
  • 目に見える経済効果がある

設備投資のいらない「安価」な技術

どんなにすばらしい専門技量を持っていても、たとえばそれが重粒子線治療装置 によるガンの治療の技術であったりするならば、日本で役立てられる施設は3箇所ぐらいしかない。

専門分化の進んだ技能、競争相手のいないニッチ市場というのは、 様々な規模の病院を転々としていく上ではその人を助けてくれない。

高価な技術を生かそうと思ったならば、高価な施設をそろえている病院に就職する必要がある。

働いて楽しいのかどうかというのは、つまるとことは「好き、嫌い」の問題だ。 仕事が忙しいとか、給料がどうとかは、2次的な問題。どんな条件でも、そこが 楽しければ仕事は続くし、どんな高給取りであっても、嫌なものはやっぱり嫌だ。

高価な施設をそろえている病院は少ない。選択の幅はどうしても狭くなるから、 専門技能を生かして、なおかつ楽しく働くのはなかなか難しい。

専門性が高くても、どこにでもある機械を使ってできることならば、 その技能は大いに医者を助けてくれる。どんなところでも、専門家は歓迎される。 その技能を生かすのに、お金がかからないならば。

エコーや胃カメラCTスキャンぐらいまでなら、どの病院にも必ずある。 それが楽しいのかどうかはともかく、こうした道具を使った診断や治療というのは、 持ち運びが可能な技術としては他のものよりも優れていると思う。

技術の再現性

今から6年ぐらい前、市中病院から「心カテができます」というふれこみで、 一人大学病院へと飛び込んだ。

針をさして、カテ動かして。たしかに自分では、心カテが「できる」つもりだった。 ところがウソだった。 治療の準備をする。カテ台を動かす。記録を付けて、画像をCD-ROMに落とし込む。 こうしたことは、前の病院では他のスタッフの仕事だったから自分はやりかたを知らない。 大学では「知らない」では済まされなかったし、それを「知らない」と突っぱねることは、 「私は心カテができません」と宣言するのと同じだった。

幸い、周りが教えてくれたから、半年近く経ってからようやく 「心カテがでる」と言えるようになったけれど。

技術というのは新しい職場でそれを再現できないと、「できる」とは言えない。

例えばエコー。技師さんのいる病院ではセッティングと整備はやってくれるから、 医師は診断行為に専念できる。診断に比べれば、機械の調整とか整備とかは本質でない、 低級な仕事に見えてくる。そんなことを覚える時間があるならば、一人でも多くの症例に あたりたいと思ってしまう。

ずっとそこでやっていけるならともかく、移動を前提として技術の習得をするならば、 再現性があること、助けがなくても、スタンドアロンで仕事ができるように技術を 学ぶことというのはとても大事だ。

一時期、日本の半導体メーカーの技術者が韓国企業に引き抜かれて技術指導を していたのが問題になった。

テレビで放映されていた日本の技術者は、何もない体育館みたいな建物に 機械を搬入することから始めて、工場の人を教育して、韓国に一大半導体工場を 作り終えるまでを請け負っていた。

そこまでできる人はさすがに少数なのだろうけれど、 何も知らない人達を前にしても、一人で自分のチームを立ち上げられるような 技術者というのは、たぶんどこに行っても役に立つ。

やはり欠かせない経済のこと

ちなみに自分は金勘定は全然知らない。全くこれから。

昔は「正しい」ことだけやっていれば、自分がやっていて楽しいことだけやっていれば それでよかった。若かったから。

30も半ばを過ぎるとそれだけでは駄目だ。

何か新しいことをやりたい。この病院で、こんな外来を開きたい。そうした希望を 通すとき、「企画書」からは逃げられない。

病院での企画書というのには、なぜか「どうやってその資金を回収するのか」という 項目が存在しない。

そんなもんだと思っていたし、他の業界のことなど全く興味もなかったけれど、 世間で言う企画書というのには経済的な要綱は欠かせないらしい。

自分の専門技能には、どういう経済的なインパクトがあるのか。 赤字部門ならば、せめてハッタリでも、どの程度の広告効果が見込めるものなのか。 新しい機材を購入するならば、それがどう役立ち、また何年ぐらいで資金を回収でき、 何年ぐらいで黒字を生むようになるのか。

正しい予測なんか立てようもないけれど、プレゼンテーション能力の一環として、こうした 経済的な知識というのは強みになるのかもしれない。

マイスター級の医師の凄さ

いい医者になるのは難しい。

医者の「よさ」なんて、一つのものさしだけで評価するなんて不可能だし、持ち運びの しやすい技術というものだって、しょせんはたんなる名刺代わりだ。

結局大切なものは、正しい知識に基づいた正しい判断であったり、急変のときの 冷静な判断力であったり、問診の技量や下級生の教育といった、その人の人間的なものであったり。

「よさ」というのはつまるところはそういうもんだと昔は習ったし、信じてくれないだろうけれど 今でもそう思ってる。興味のない技術なんて学んだってしょうがないし、 そんな功利的な理由でつまらない技術なんて身に付ける暇があったら、もっと大切なもの、 「いい医者」になるための修練をしたほうが、絶対に将来役に立つ。

マイスターの本質というのは、その技術などではなくて、指導力とか判断力とか経験とか、 そういうもっと分かりにくいものだ。

凄いマイスターが本当に「凄い」のは、その技術が凄いからだけではなくて、 その「腕」すらも名刺代わりの単なる通過点にしかすぎないからだ。

たぶんいろいろな病院を回るだろうし、いろいろと凄い医師に会って、 そうした医師から技術を教えてもらう機会というのもこれから増える。

技術は大事。技術を学んで、可般性を高めておくことはもっと大事。 それでも、もっともっと大切なことは、やはり最後は「いい医者である」。この部分。

説教臭いけど、ここだけは外せない。