地域で気分よく働くのに必要なもの(後半)

世界は変わる。社会も変わる。

小さな世界は大きくなった。かつては世界の主役であった「近所同士の強い絆」は、 「遠くの人との弱い絆」にその座を奪われ、舞台の片隅に追いやられた。

過去は内包される

進化の過程においては、過去は捨て去られるものではなく、内包されるものだ。

無脊椎動物から脊椎動物へ。

生物の進化の過程というのも、ただ生きているだけの細胞のネットワークに 効率のいい神経系が実装され、現在の脊椎動物全盛の世界を作った。

社会の進歩。小さなクラスターから「スモールワールドネットワーク」への進歩というのは、 ちょうど無脊椎動物から脊椎動物への進歩のようなものだ。

無脊椎動物には、脊髄がない。神経系が十分に発達していない分、たしかに脊椎動物よりは劣る。

それでも、両者とも現役の地球上の生き物だ。無脊椎動物のニッチというものはまだまだたくさん 存在するし、何万年もの未来では、再び無脊椎動物全盛の時代が戻ってくるという予想だってある。

イカやタコといった無脊椎動物は、脊髄が無いだけ脊椎動物よりは劣った存在だけれど、 現在の海の中でも十分に生物として通用するだけの強さを維持している。

「村社会」を構成していた近所同士の強い絆というのは、生物においては心臓のようなものだ。

進化の過程においては、臓器の運命は2種類に分かれる。盲腸のように退化していってしまうものと、 心臓のように必須でありつづけるものと。

小さな社会の強い絆というものは、 臓器に例えれば心臓だ。これは神経系の発達如何にかかわらず必須のものであるし、 心臓が活動を止めると生物は死んでしまう。

それでも今の社会は、心臓など最初から無かった生物であるかのように振舞おうとしている。

地蔵も祟る

村のはずれに母と幼い子供が2人で暮らしていた。 母子は貧しく、村人に米を無心することがしばしばであったという。 ある日、いつもどおりに子を背負い、米を借りに来た母親を村人がからかい、 「村のはずれの地蔵様の頭を持ってこれたら、いつもの倍の米を貸そう」>と申し出た。 「お地蔵様、許してください」。母は地蔵の首を取り、村人の元へと戻っていった。 首を抱えて村に戻って見ると、背負っていた子供の首は無くなっていたという。

お地蔵さんは地味な神様だけれど、人に祟った話は結構多い。

仏教の教義の上では、地蔵菩薩というのは相当に優しい神様で、首を外した程度のことでは 復讐などするとは思えないのだけれど、昔話の中では、やられたことはやりかえす。

祟りというものには、忘れられていた物に対する尊敬とか、恐れといったものを復活させる 効果がある。

地蔵やお稲荷さんといった地域の神様が敬われなくなるということは、 地域社会というものが崩壊して、社会のスケールが大きくなり始める前兆だ。

変化というものは、ある種の人にはチャンスであっても、別の人にとっては 災厄以外の何者でもない。

小さな社会の中にニッチを築いてきた 「ずっとそこでやってきた人」は、社会のスケールが大きく変われば、 今までと同様の暮らしはできなくなる。過去と同じことをするだけでは 足りなくなるし、新しい環境に適応できなければ滅ぶリスクだってある。

昔話の世界では、祟りを受けるのは利にさとい者であったり、よりよい方法を探したり する者、変化を望む勢力だ。一方、神様の祝福を受ける者というのは、 ただ正直なだけではまだ足りなくて、「バカ正直」であることが求められる。

何も考えずに」「先祖を大切に」というのが、昔話の共通のメッセージだ。

進化を志向する者は祟られる

考える人、最適な解答を捜し求める人は祟られる。ギリシャ神話のプロメテウス然り、イカロス然り。 洋の東西を問わず、よりよいものを探す輩というのは、現状に満足している者から見れば 十分に祟られるに値する犯罪者だ。

医者だって、一応は聖職者の末裔だ。その気になれば「祟る」ことだってできるし、 不敬な輩に対して「思い知らせてやる」ことだってできる。

それでも、そうした方法論はやはりなにか間違っている。

神様は教義を考える。祟りは人間が考える。

神様は、それぞれの立場で「正しい」と思うことを人間に教えることはあっても、 飲み込みの悪い信者をいちいちブン殴るような真似はしない。 気まぐれに町一つ、国一つを灰にしたりすることはあるけれど。

祟り話の影には利権が隠れている。 変化を望まない人、あるいは変化が生じないことで 何らかの利益がある人。利益の誘導を目的とした風説の流布というのは、 残念ながら現在社会では犯罪だ。

進化を志向すること、何かを最適化することは、技術者として正しい行為だ。 医者も技術屋の端くれだ。できることなら「祟り」に逃げるような真似はしたくない。

焼き畑経営は効率がいい

医者というしごとは、社会の変化から利益を得る必要が無いから、 必然的に変化しない社会を志向することになる。

居心地のいいのは変化しない社会、小さな社会だし、どうやったらそれが 維持できるのかに心を砕く。流行のWeb2.0の流れとは、真っ向から衝突するかもしれない。

技術的には、変化していく社会、地域の構造が刻一刻と変化していく社会の中でも、 医師が最大の利益をあげることは十分に可能だ。

産業としての医療いうのは、「住民」という土地から「病気」という作物を刈り取る、一種の農業の ようなものだ。

同じ病気であっても、利益率の高い病気と、そうでないものとが存在する。

「そこでずっとやっていく」という前提を捨てさえすれば、もっとも効率のいい農業というのは 焼畑農業だ。元手ゼロ。肥料も要らない。自然が荒れれば、放置して移動。極めて効率がいい。

医療も同じだ。時代と共に、町の年齢構造は変化する。町も病院も年をとる。 青年期、壮年期の病院というのは勢いがあるけれど、人の住む町を相手にする仕事は やはり寿命がある。 町が年をとれば病院も年をとり、以前の勢いは衰え、病院は老健化する。

病院が変化を味方につけようと思ったら、最初から期間限定で医療法人を立ちあげることだ。

例えば10年限定。安普請の建物で、機械も全てレンタル。急性期医療や白内障の治療に 全力を挙げる。町が高齢化して、住民の視力も安定化してしまったら新しい町へ。

もちろん設備投資の問題もあるけれど、町の年齢相変化への対策、新人スタッフの育成などにかかる 予算を「ゼロ」に計上できれば、たぶん経営は相当有利になる。 残された町は、まあ荒廃するだろうけれど。

実際のところは、まずスタッフは集まらないだろうし、「病院がいらない町を捨てる」際にはいろいろな 問題が出てくるだろう。

なによりも、「焼畑」というのは、自分のやりたいこととは違う。

「強い絆」の再生は可能か

病院や救急車。「小さな社会」の時代の末期、ようやくまともに整備された システムは、かつてはみんなが大事に使った。

運営しているのは同じ人間。誰かが使いまくれば病院は疲弊し、結局誰もが 使えなくなる。救急医療というのは地域の共有地みたいなものだから、 救急隊は生かさず殺さず。一時はけっこう上手くいっていた。

社会のスケールは大きくなった。 小さな社会での強い絆の価値はますます小さくなり、 個人一人一人の「共有地」に対する意識もますます希薄になった。

「開いてて良かった」はずの救急病院は、今では深夜はコンビニ、早朝からは 地元老人の朝の散歩の集合場所だ。

救急車。命を乗せて走る車だったのは過去の話。今はタクシーよりも安価で 気軽な乗り物になった。飲み屋に呼びつける酔っ払い。 「近所のいい病院を知らないから」救急車を呼ぶ風邪の人。 もはや救急車は車ですらなく、エンジンつきのタウンページか。

医者。救急隊。「思い知らせ」たり、「祟った」りするのはいつでもできる。

地域からの撤退。救急外来の閉鎖。救急車搬送拒否。救急車の有料化。救急体制の「自然」崩壊。 祟りは技術的に可能だし、一部はすでに始まっている。

こうなってしまったのは、一方的に社会が悪いのか。

「地蔵」階級が飽きられるのが早くなったからか。 発信の努力が足らなかったのか。本当のところ、何が悪かったのかは分からない。

あったものがなくなる不便を思い知らせるような真似はしたくない。

「よろしくお願いします」 「こちらこそどうも」

こういった、医療者-患者間がお互いちょっとだけへりくだった関係を続けることができるなら、 今のマンパワーでも十分に救急を維持できるはずなのだが。

世界を小さくするルール

規模が大きくなった社会では、お互いの協調という行為は生まれにくくなる。

相手と協調するか、裏切るか。

お互い協調すれば、仲は良くなるけれど利得は少ない。 相手を裏切れば、相手は不快だろうけれど、こちらの取り分は多い。 逆に自分が協調したとき、相手に裏切られれば、自分は大損だ。

こんな「囚人のジレンマ」の状態では、勝負が1回だけならば「常に相手を裏切る」のが最適解になる。

相手の顔がはっきり見えない、「1回きり」の関係が多い大規模な社会。 周囲との協調が必要な「共有地」の維持という行為は、そもそもが成立しにくい。

警察的な権力無しで「共有地」を維持していこうと思ったら、 その共有地を「共有」している地域の仲間の顔を見る機会を増やすルールを作ることだ。

たとえば救急車。

有料化という道をとらずに搬送件数を減らす手段として、互助会的なルールは役に立つかも しれない。

  1. 地元の家族7~10組ぐらいを一つの単位にして、持ち回りで救急コールを受けてもらうようにする。
  2. 救急コールを取る家には、その日の救急輪番病院を知らせておく。
  3. 救急車を呼ぶには、その日の救急コールを持っている家に連絡をとって、その人に一緒に来てもらわなくてはならない。
  4. 救急車の搬送先は、その日の輪番病院に限られる。
  5. 他の病院も、入院設備があるならば、「歩いて」くる人については、24時間無条件で患者さんを受ける。大変でも、そこは気合で何とかする。
  6. 救急コールを受ける家の人には3つの選択肢がある。 a). 近くの病院まで自分で行く。b). 救急コールの人に近くの病院に連れて行ってもらう。 c). 救急コールの人に救急車を呼んでもらう。
  7. もちろん、家の外での救急依頼については、救急車は従来どおりに対応する。

穴だらけのルールだ。抜け道はいくらでもある。自宅から直接救急車を呼ぼうと思ったら、一歩家の外に出て、 携帯電話で救急隊をコールすれば、それだけで無条件で救急車がやってくる。

できる地域とできない地域もある。共同体がすでに壊れている土地ではそもそもこんなことできないし、 やったらやったで村社会の悪い面もまた見えてきてしまうだろう。

それでも、こんなルールが可能であれば、「まじめな」2割ぐらいの家族は、きっとルールどおりに動いてくれる。

顔の見える人を夜に起こすという行為が抑止力になって、2割のうちの半分ぐらいの救急がキャンセルになるかもしれない。

今のところ、救急体制は崩壊の半歩手前といったところだから、全救急コールの1割が減少するだけで、 当面は何とかなるだけの効果が期待できる。

社会の規模が大きくなって、地域の住民のお互いの顔が見えなくなっている昨今、 こうした「切れていた絆を強制的につなげる」ルールというものには、少しだけ期待している。

ホスピスと併設した幼稚園。高校生の病院ボランティア。 救急の互助会。花見。夏祭り。盆踊り。お葬式。

こうした試みというのは、「1回だけの囚人のジレンマゲーム」を地域社会から無くし、 ゲームの試行回数を複数回に増やす働きがある。

囚人のジレンマゲームを繰り返す必要がある場合、裏切りはもはや最適解にならない。

最強の戦略は相手との協調だ。 地域社会が復活して、お互いが顔を合わせる機会が増えれば増えるほど、 強い絆が出現して社会に協調が生まれる。

同じ地域でずっと医者をやるというのは、けっこう怖い。

そこで必要とされるならば、それは職業人として幸せなことだけれど、 単に利用されるだけなのはちょっと困る、 というよりも相当いやだ。

できれば気分良く働きつづけたい。

まずやれることは、病院ですれ違う人に挨拶をするところからだろうか…。