状況の変化と生存の知恵

大学の救急外来はヒマだった

久しぶりの正月救急当直。今年は忙しかった。

忙しかったことが、逆に意外だった。

大学病院で、救急外来を熱心にやっているところは少ない。

大きすぎる組織。専門分化した医局。莫大な予算規模や、「大学」という看板。こうしたものは、 救急外来という隙間産業の正立を難しくしている。

大学が救急に熱心で無い一方で、大きな市中病院では、今はどこでも救急をやっている。 自分達が研修医の頃、救急を24時間やっているのは一部の民間病院のみ。 救急隊の無線を聞いていて(合法)、「○○市民病院、搬送拒否」の司令の声が聞こえると、 必ず自分達の病院へと搬送依頼がくる。よくみんなで怒ってた。

いつのまにか情勢は変わった。議会に文句が来たからなのか、いまは公立病院が救急をとる。 関東や東北、上越地方、いろいろな場所に飛ばされたけれど、今は民間病院以上に公立病院は 救急を受ける。

民間病院と、公立の市中病院。最後に残ったのは大学で、ここが救急をやらなくても 今までは間に合っていた。

大学の前を救急車が素通りするのは当たり前の風景。もちろんかかりつけの人は受けるけれど、 もともとのかかりつけの人自体がそんなに多くないから、救急当直は一人で十分だった。 正月も同様。のはずだった。

今年は忙しかった。もちろん、自分の星回りの悪さもあったのだろうけど、重症の人がけっこう入る。 日勤帯で救急車6台というのは、民間病院の救急からみると笑っちゃうような低レベルの数字だけれど、 大学としては例年以上の多さだ。

何故いまさら大学?

疑問に思って、救急車の隊長さんにお話を聞いてみると、答えは簡単だった。 救急を担っていたはずのシステムが、もはや以前ほどには機能しなくなってきたからだ。

家族制度の崩壊と大病院の目詰まり

日赤などのいわゆる救急病院。当県でも救急医療の主役の一つだ。立派なセンターを持っていて、 患者を断ることもめったに無かった。

すごいな、いつまで続くかな、と思っていたら、やはりここに来て息切れが始まったらしい。

救急病院を疲れさせるのは、何といっても行き場の無い高齢の患者さんだ。

朝の4時に「風邪薬をくれ」といって歩いてくる人の相手は、もちろん疲れる。

でもこれは何とかなる。こうした人の相手のしかたというのも救急の仕事で 覚えなくてはならないことの一つだし、沸いてくる 「怒り」の感情のセーブのしかた、自分との折り合いのつけかたを学べる人が、 この業界で生き残っていける。

問題なのは、行き場の無い高齢者の救急搬送依頼だ。

「87才男性。身より無し。2週間前から食事がとれないとの通報です。」

こういう人、依頼をするほうも受けるほうも、本当に疲れる。 受けないと多分死ぬ。受けても駄目なケースも多いけど。 ところが、受けてしまうとベッドがなくなる。

こういう人が1回入院すると、 入院期間は1ヶ月ではきかない。高齢の人は、1回入院してしまうとまず自活は不可能だ。 遠縁の人を見つけて、何とか自宅に引き取ってくれるようにお願いしたところで、 いい返事など返ってくるわけが無い。

「家族」のあるべき姿なんて、とっくに壊れて久しい。その人に患者さんを受けてもらった ところで、もはや何の見返りも期待できないことは、自分達だって分かってる。

急性期病院での1ヶ月の入院期間。やることは、食事の世話と下の世話だけ。 リハビリができる人はまだよくて、たいていは無理。リハビリテーションの専門病院と いうところはあるのだけれど、そういう施設は若者の社会復帰の方が専門だ。高齢者の リハビリも可能だけれど、リハの需要に対して供給はあまりにも少ない。

救急外来という場所は、一種の濾過装置として機能する場所だ。

軽症の人は、その場で返す。重症の人だけを濾過して、各々の専門科に渡す。 少しだけ経過観察が必要な人のために、最小限のベッドを持つ。

専門家的にはそんなに「重症」ではないのに、総合的にはとても家には返せない人など、 最初から想定外だ。

病院が救急外来を本格的に始めると、この「フィルター」が大体2年で目詰まりする。

こんな話を隊長さんとしていたら、「うちの県、もろにそういう状態です…」 という返事が返ってきた。

過疎地域で無く、むしろ大きな市の中心部、県の一番古い地域では、住民の3割近くが 独居老人という地区があるらしい。民生委員とか、救急隊とか、地域にかかわる人達は 本当にヤバいと思っているのだが、なんの対処の方法も思いつかないとか。

雇用の流動化と中規模病院の崩壊

北の半分では、また違った状況が進行している。

うちの県の南の半分には、大きな救急病院がいくつかある。 産科と小児科は減っているけれど、他の科の救急については、まだまだ持ちこたえている。

一方、県の北半分は、従来は200床規模の病院が5つぐらいあって、各々が得意分野の救急を 分担して、急患に対応していた。

いずれにしても急患に対する「守り」というのはあるていどできていて、本丸たる大学病院に 患者さんが搬送されてくる機会というのは決して多くなることは無かった。

最近は、「北」にすんでいる患者さんがいきなり大学にくることが増えた。

今回の当直もしかり。救急車で片道50分なんてザラ。大学にくるまでに、今までなら入院を 受けてた病院は4つぐらいあったのに。

県内の北側の病院は、いつのまにか救急を受けなくなった。人が足らず、病院を回せないからだ。

人が1人抜けるダメージは、規模の小さな病院ほど大きい。

「北の守り」をやっていたような中小規模の公立病院に人を出していたのは、大学病院だった。 将来的に大学で働いたり、あるいは大きな病院で働く前には、こうした中小規模の病院での 「方向」というのは避けて通れなかった。それが原則だったし、みんなそんなもんだと思ってた。

この2年間のローテーション研修と、それに伴う医師の流動化というのは、 こうした原則を根本から崩してしまった。

大体大学に入局する医師の数自体が圧倒的に減った。下級生の動きというのは、 上級生の動きにも少なからぬ影響を与える。

「俺ら、もっと自由でいいんだ」

こんな意識を持った上級医はけっこう多いんじゃないかと思う。実際に多くの医師が、 忙しい現場からいなくなった。今バイトに行かせてもらっている中規模病院には、 そうした人たちが何人かいる。まだまだ現役、どう考えたって今までならもっと大きな 病院の第一線で働いているような人が、常勤で働いている。

しわ寄せがいったのは、中規模の公立病院だ。

給料は安い。仕事はやりにくい。 現場の声で無く、役所の方針で、仕事の内容や評価は、コロコロ変わる。 それでもみんな頑張ってた。「県立」「国立」の病院で働くのは、 優秀な医者の原則だったから。

原則が崩れ、現場から一人の医師がいなくなると、小さな職場ではもう回らなくなる。

内科4人で当直を回して、当直が月に7回前後。バイトに来てもらって月5回。 現場の医師の数が3人になると、この回数が一気に10回近くになる。 今はどこの病院も人が足りないから、バイトなんか募集したって、誰も行きたがらない。

現場で4人が3人になるというのは、大学を含めた全ての病院で一人づつ医師が減るということだ。 当直の回数は一気に増え、とても救急どころじゃなくなる。

北で救急を受けていた病院は、どこも救急外来を閉めてしまった。患者さんは大学に来たり、 大学をこえてさらに南の「目詰まりした」救急病院へ搬送されたり。たぶん、うちの県だけではないはずだ。

大学病院が、行き場の無い老人であふれる日。

1年ぐらいまえに、半ば冗談でそんなことを書いたけれど、最近は冗談でなくなりつつある。

いろいろな原則が壊れた昨年

患者のありかた。家族のありかた。医者のありかた。病院のありかた。

前2者は、以前からゆっくりと壊れて来てはいたけれど、 昨年あたりから後ろ2つ、医者や病院のありかたの原則までが 壊れてきているのを実感している。

自分が研修医の頃から最近までの10年前、 個人や家族の原則というものはすでにだいぶ崩れてきていたけれど、 それでも医者側のいろいろな原理、原則というものは不変だった。

「優秀な」医師は大病院で忙しく働くのがかっこいい。給料なんか関係ない。

ありかたが不変であったからこそ、 崇高な理念の元でかっこよく働く大病院と、 経済活動に走る小規模病院との両立が可能であったのだが、 もはや「医者側のありかたが不変」という部分が崩れてきている。

医者を取り巻く世界というのは、だんだんと流動化しているように見える。

組織における戒律系と理念系

人は集まって集団を作り、集団の中に規律が生まれると、集団はチームになる。

規律というものには、戒律理念との2種類(仏教ではたぶん、律と法)がある。

  • 戒律は、「○○をしてはいけない」という罰則事項を、リーダーがそのつど具体的に決めたもの。 状況が変わるたびに新しい戒律は増え、そぐわなくなった戒律は消える。
  • 理念は、「○○たるべきである」というリーダーの考えを示したもの。 各人はその理念を状況に応じて解釈するので、変更されることは少ない。

戒律系のチームは、罰則を守る見返りが必要なので、 人を集めるのにコストがかかる。罰則を施行するのはリーダーなので、 リーダーと部下との通信のコストがチームの大きさの上限を作る。理念を持たない組織にとって、 状況の変化というのは「乗りきるもの」ではなく、「乗っかるもの」になる。かくあるべきという信念が無いから、 変化に強い。

理念系のチームの強みは、リーダーとの通信コストが無いことだ。各人が理念を解釈して現場でつじつまを合わせるから、 組織の大きさには上限が無い。組織を取り巻く世界が安定した状況では、大きいことは非常な強みだ。 理念は現場からは変更できず、何をするのにも理念との整合性が問われるから、新しいことはやりにくい。 大きくなった理念系の組織にとって、変化というものは乗り切るもので、変化の先にはまた元の世界が再現されることを 信じざるをえない。

医療の現場にも、この2種類の組織は混在する。 理念が先行して、それに従う人達が働く大病院と、その場その場の最適解を探して、 そのつどルールを変更する小規模病院と。

理念は時に致命的になる

雪山にいきなり放り出されたような状況で、真っ先に遭難するのは経験豊かな人なのだそうだ。

遭難者がどんどん危機の深みにはまるのは、道を見失って迷ったときに、 こんなはずではなかったと、 「予定されていたあるべき自分の姿」と「現実の自分の姿」のギャップに混乱してしまい、 むやみに動き回って「予定されていた自分の姿」に戻ろうとするかららしい。

迷い始めた遭難者は、現状認識ができなくなっても、「実際の環境」に基づいた 「予定されていた自分の姿」を再構築するのではなく、 逆になんとかして「実際の環境」を「予定されていた姿」に近づけようとする。 結果、自分がいる場所がどこかもわからないのに、さらに新たな道に分け入り、どんどん深みにはまる。 On Off and Beyond: 新年:人生の遭難とサバイバル

実際の状況をあるがままに受け入れることができず、経験豊かな人が生存のための 貴重な時間を失ってしまう一方、6歳の子供のような、まだこうした「あるべき自分」が できていない人達は、さっさと寒さや風邪をしのげる場所を探すので、 助かる確率が意外に高いらしい。

歴史の中でも、こうした逸話的なエピソードがある。

グリーンランドは、古くからイヌイットの人たちが何百年にもわたって住んでいた。 ところが、同じ土地にノルウェーからのバイキングの末裔が暮らし始めたものの、400年ほどで滅んでしまったそうだ。

彼らはグリーンランドという土地に、より豊かだったヨーロッパの生活習慣を持ち込んで、 古くから生活していたイヌイットの生活に学ぶことをしなかったので、 無理な牧畜の結果としてグリーンランドの 土壌資源を使い尽くしてしまい、飢えてしまったのだという。

日本の大戦末期。

戦艦大和は勝ち目の無い戦いへ向けて特攻したけれど、あれもまた 「こうなったら、もう特攻しかないでしょう」と言う軍部の「理念」が作った作戦だったらしい。 戦略的に何かの利点があったわけではなく、むしろ男らしさとか、帝国軍人の責任とか、そんなもの。

今の大学病院の立場も、こうした理念に縛られているような気がする。 大学病院というところの「浮沈艦」ぶりは、戦艦大和の比では無いけれど。

欲しいのは生存の知恵

自分の行きたい分野、田舎の地域医療の世界というのは、もうボロボロといっていい程崩れてきている。

どんな仕事であっても、短期間なら頑張れる。ところが、同じことを10年やろうと思ったら、 10年やった先の何らかの成功の物語というものは欠かせない。 それは地位であったり、賞賛であったり、 おカネであったり、いろいろ。

ちょっと前までは、「地域医療にまい進する医者はかっこいい」という大前提があって、 それが不変だったからこそ理念に賛同する医者は僻地に入った。

今の時代。こんなものに一生懸命になったところで、もはやそれがかっこいいと言う前提自体が崩れて しまっている。成功物語の「オチ」は自分で見つけないといけない。

欲しいもの、見つけたいものというのは、崇高な理念なんかではなく、 その地域の医療に特化した、具体的な生存の知恵だ。

どうやれば老人医療をペイできて。どうやれば病院というものを潰さず回せて。 どうやったらその場で何年もの間、消耗せずに医者を続けられるのか。

答えは地域ごと、医師の専門や経験年次ごとに全く異なり、共通項など無いのかもしれない。

それでも現場にはきっと知恵がある。その地域ごと、 その医師ごとの自分を取り巻く世界との折り合いのつけかたというのは、 やはりそこで何年も生き延びてきた人にしか語れない。

書生じみた理念なんかではなく、もっと具体的な何か。

今年は、そんなものを探してみたいと思い、外に出ます。今年もよろしくお願い致します。