真名と忌み名と

白衣の裏には名前を隠す

人に頼られるというのは、基本的にはとても怖いことだと思う。

内科の外来。毎日初対面も同然の人たちがやって来ては、自分達の問題を赤の他人に語る。 もちろんこちらを信用してくれてのことなのだけれど、その話を受ける自分が十分な対価を 支払っているのかどうか、全く自信が無い。

「患者」と「医師」との対峙なら、やりかたは習っている。ところが、目の前にいるのは 「患者」なんかで無く、「○○さん」という人間だ。一般化なんかしたら怒られる。

かといって、 自分が「○○さん」レベルに個人化したら、対峙するのは単なる個人と個人。 自分の「個人」によっぽど自信が無いと、これは恐ろしい。

医師は白衣を着ることで身を守る。個人から医師になり、 さらに何人かで群れることで、「○○科」という影に身を隠す。

白衣。医師。専門分野。出身大学。医局。通り名にはいくつもの階層がある。 医師免許を持った個人は、何枚ものレイヤをまとうことで個人を隠し、「医者」として人と対峙する。 だからこんな仕事もやってられる。

仮名と真名

本当の名前を知られると、その相手と同じ地面に立たなくてはならなくなる。 ダメージも受けるし、最悪乗っ取られる。

イティハーサとかゲド戦記といったファンタジーの中では、魔法を使う人達はしばしば仮名を使う。 誰かに自分の本当の名、真名を知られてしまうと、その人物にいいように操られてしまう。 だから本当の名は親しい人にしか教えず、普段は隠す。

白衣を着て仕事をすること、名前を名乗るとき、「○○大学の○○です」といってみたり、 「内科の○○です」といったりするのも考えかたは同じだ。普段と違う格好をしたり、 自分の名前に肩書きを乗せることで、本当の自分、本当の名前が一人歩きするのを防いでいる。

休日に私服で歩いていて、患者さんとすれ違うと、とてもうろたえる。あるいは相手も うろたえているのかもしれない。病院という場所は仮名と仮名とが対峙する場所だから、 実世界での出会いは想定範囲外だ。

日本人の2つの名前

昔の日本人は、「通り名(仮名)」と「忌み名(真名)」の2つの名前を持っていた。通常は通り名を使用し、 忌み名は公には明かされず、信頼できる近しい人たちにのみ知らされていた。 忌み名が知れ渡ると、その忌み名を使って呪術にかけられると信じられていたらしい。

現在でさえ、多くの人は通り名と忌み名とを使い分ける。Web上で本名を出している人は 増えたけれど、まだまだハンドルネームを使っている人は多い。本名が知られると、やっぱり怖い。

仮名世界の弊害

仮名は本当の自分を守ってくれる。とても頼りになるし、役に立つ。

ところが、仮名での生活に慣れてしまうと、個人でいたときの気遣い、 素手で人と対峙する緊張感が消えていってしまう。

○○先生と△△先生は、普段話すととてもいい人。それなのに、 2人が集まって「○○科」の医者として意見をいうと、とたんに「いやな奴等」になってしまう。

病院では実際よくある。個人で親しいはずの医師が、患者の転科やコンサルテーションの話になると、 とたんに身もフタも無い正論で診察を断ったりする。同じ人間とは思えないほど変わる。

相手に同じ土俵に立ってもらうには

ICUにはいろんな科の先生方が集まってくる。

みんな個人ではいい人なのに、 「科」というものを背負うと、とたんによそよそしくなる。 口調は他人行儀になり、判断も官僚的になる。

チームというのは、本来はすばらしいものだ。

チームとなった人は、単なる個人の集合以上の力を発揮する。 分業ができるようになるし、相談ができるようになる。 何といっても、チーム内の個人個人の、ストレスに対する耐性が まったく違ってくる。

よくできたチームというのは居心地のいい家のようなものだ。あまりにも居心地がいいから、 なかなか外に出てこなくなる。

科を背負ったもの同士の会話というのは、お互いが家の中に こもりながら、窓から怒鳴って会話をしているようなものだ。これでは話がすすまない。

外がどんなに寒くても、実のある相談をしようと思ったら外に出なくてはならない。 自分が家を出るとき、同時に考えなくてはならないのは、どうやったら相手にも外に出てきてもらうかだ。

チームを解体して会話を深める

いじめの基本は対象の孤立化だ。対象が何らかのチームを作ってしまった場合、 まずやるべきことはチームの解体であり、 十分な準備無しに対象への圧力を強めるべきではない。

チームを作ることを覚えた対象は、圧力が強まったときにもっと多くの人を集めようとする。 抵抗チームが大きくなってしまうと、熟達した上級生であってもその扱いは困難を極める。

チームの解体にはいくつかの方法がある。

  • チームワークの成果であっても、功労者を一人に定める
  • 常に序列を作り、競争を奨励する
  • チームが何か失敗をした時には、必ず犯人役を名指しする

…昔書いた某文書より抜粋。

議論で話を盛り上げようと思ったら、集団をなにかの対立軸で切ってみることだ。

最初は各々がチームとチーム。会話はなかなかすすまない。 この2つのチームを、何かの対立軸、たとえば年齢や性別、出身大学、検査データに対する意見や、 過去の経験といったもので分けてしまう。

うまく行くと、2つのチームからなる集団は、「我々」と「あなた」とに分けられる。

「あなた」に仕分けされた人は、もはや個人だ。分けられた人は「我々」に戻ろうとして 必死にしゃべる。会話は弾み、次の対立軸ではまた別の人が「あなた」になる。 こうして何度も切っていくうちに、 2つのチームは1つの個人の集団へと変化する。

議論の対立軸と落しどころと

議論を深めていくという作業は、みんなが背負っている仮名を捨て、 真名での話し合いができるようにしていく過程だ。

もともと何かの問題があって、利害が対立していたからこそ議論が生じるわけなのだけれど、 それでも集まった人達みんなの力を借りないと、自分のお客さんに不利益が生じる。 議論に遺恨は残せない。議論というのは、終了させるときが一番難しい。

議論というのは決闘や殺しあいなどではなく、落しどころの探りあいだ。

相手を打ち負かす必要などない。議論には必ず「次回」がある。 相手を打ち負かす努力は、しばしば有害ですらある。 議論の勝負は51対49でつけるのがもっともよく、 それも本来の議事に対する意見とはべつの次元で解決するのが「正しい」。

結論には妥協は許されない。 妥協して、悪い結果への道程をお互いの善意で舗装するような真似は許されないけれど、 「正しい」結論に至った理由については、いくらでも妥協はできる。

  • 相手が優れていたからではなくて、相手に先輩がたくさんいたから。
  • 転科を受けたのは、相手の科が筋肉系の大男ばっかりだったから。
  • 福島県人の多い科に逆らうと、忘年会で飲まされるから…

議論とディベートとは全く違う。議論というのは、一種の地勢学だ。どういう軸で攻めれば、 うまく落しどころに持っていけるのか。たいていは、相手陣営を笑わすことができれば、こちらの「勝ち」だ。

自分自身が勝ち組に入ることすらも必ずしも正解とは限らない。51対49で議論に負けるというのは、 同時に49人の仲間ができるということだ。議論の流れが見えてきて、 負け側に親しい人がいたならば、敢えて負け側につく「勝ち」だってあるかもしれない。

結局最後は個人と個人

「誠実な外交」などという言葉は、「木製の鉄」や「冷たい火」と同じだ。言葉自体が矛盾している。

それでも現場では、お互いのグループの対立を超えた、個人の協調の可能性というものを信じたい。

背負っている物はとりあえず置いておいて、その人個人の持っている 力や経験をお互いに提供しあえるならば、まだまだいろいろなことがやれる。 自分にまだ提供しうるに足る「それ」があるということも含めて、 個人の持つ力というのはもっと大きいと信じたい。

現場から体が遠のくと、楽観主義が現実にとってかわる。 頑張らなくても、何とかなるだろと思ってしまう。

集中治療室というところは主治医にはならないから、 患者さんの「現場」からは少しだけ遠い立場に 身を置ける。

これはとても楽なのだけれど、やはり自分の中から何かが抜ける。このままではいけないと思う。

来年からは、また現場に出る。たぶん。