みんなと同じことをするという戦略

「みんなと同じことをする」しかいない国は、危ない。 中心が腐った場合、その腐敗を食い止める力がなく、腐敗がひろがる一方だからだ。 バブルも、欠陥マンションも、そしてファシズムも、そのようにしてひろがる。 腐敗した権威や確信犯はもちろん悪いが、それをひろげていくのは 「みんなと同じことをする」人だ。 「みんなと同じことをする」人しかいない国より引用

停滞と維持との違い

止まれば腐る。腐れば滅びる。

実世界では赤の女王仮説というのはどうしようもなく真実だ。同じ場所に居つづけようと思ったら、 どんな方向であれ、走りつづけなくてはならない。

同じ場所に止まっているように見えても、その場所を自覚的に維持しているのと、単にそこで 停止しているのとは違う。維持している人は生きている。必要があれば、すぐ動く。 止まっている人は、死体と同じ。

みんなと同じことをするという生存戦略

高校生までと、大学以後とでは、試験の通過戦略は大きく変わった。

受験勉強というのは競争試験。大事なのは上位に入って誰かを打ち負かすことであって、 たとえ点数が優れていても、一定数の「上位」に食い込めなければ意味がない。

「勝つ」ための戦略、「負けない」ための戦略。みんなと同じことをやっていても合格できる可能性は 100%ではなく、努力というのは必ずしも報われない。

集団の中に入るのは最悪だ。「足切り」がどのあたりで入るのかは分からないから、もしかしたら 1点の差に泣くかもしれない。例えば面接試験。「隣の人と同じ考えです」なんていう答えを返したら、 落とされるのは目に見えている。生存の戦略としては、他の人と自分との違いを前面に出す。 個性をPRできない奴は、競争では弱い。

大学以後は、試験の評価の基準は大きく変わる。

競争試験から資格試験へ。集団の中で最下位であっても、 問題製作者の作った基準を満たしてさえいれば、 全員合格する。

全員の成績が悪い場合はどうか。もちろん全員不合格になる可能性もある。ところが全員の成績が 「全く同じ」ならば、今度は問題製作者側の評価基準のつけかた、教育のやりかたにも批判の目が向く。

資格試験というルール、「通りさえすばいい」というルールならば、最強の戦略はみんなが同じ答えを書くことだ。

試験前には学生サイドとしての「模範解答」を作っておく。答えは全て、一語一句に至るまで同じ。

こうしてしまえば、教授サイドも容易には落とせない。

医学部は所帯が小さいから、どこの大学にも試験対策委員会というのがある。

試験直前。みんなで分担してノートを取って、コピーをして全員で共有する。 自分達の頃はインターネットなんて 無かったから、近所のコンビニにかけあって、プリントの束を置かせてもらった。 連絡網で、「○○町のセブンイレブンに プリントがあるからコピーするように」と回して、各自がコピーする。

授業をサボった奴も、全ての講義に皆勤した奴も、条件は同じ。そのコピーの束を信じるかどうかも、 自己責任。

たとえ間違った解答であっても、それを学年全員が書けば「正解」になる。

試験対策委員会のポリシーというのはこうだった。 もちろん、講義をサボるための格好の口実ではあったけれど。

委員会は上手く機能した。さすがに臨床講義に入ってからは無理だったけれど、 教養課程の先生方の学生評価などはいいかげんなものだ。 試験対策プリントを信じなかった「まじめな学生」は落第。 講義に1回も出席しなかった連中は、試験対策プリントを丸写しして全員合格。 「みんな同じ」戦略の勝利だった。

「みんなと同じ」が求められる医療現場

病院という現場は、「みんな同じ」やりかたが求められるところだ。

患者さんについて問題を抱えた場合、まず試みるのは以前と同じやりかただったり、 あるいは以前にその問題を解決した上司にやりかたを教えてもらったり。

「画期的な治療方針を考えついたら、まずそれを考えた自分の頭を疑え」というのは真実だ。

病院という業界は、「自己責任で何かやる」ということが不可能だ。 間違った治療をやってしまった場合、責任を取らされるのは常に患者さんで、 医師はせいぜい首になるだけ。どんなに手酷い医療ミスでも、医師が死んで詫びた例など 過去に無いし、それを始めたら医者なんか10年で日本からいなくなる。

自己責任が絶対発生しない業界だからこそ、保守的な立場は結構大事だと思う。

うまくいっていることから学ぶのは難しい

たしかに、誰もが「正しい」ことをして病人を量産していた時代はあった。

例えば心不全の治療。自分が1年目の頃は、強心薬と利尿薬での治療がまだまだ主流だった。 話が変わったのは3年目の頃。ACE阻害薬という薬が画期的に効果があることが分かり、 心不全の人は本当に長生きするようになった。その後、5年目の頃にはβ遮断薬、6年目の頃には アルドステロン拮抗薬。その頃には大体、現在の心不全治療ができるようになった。

肝心なのは、今の最新の心不全治療に用いる薬のほとんどは、自分が1年目の頃にはすでに 市販されていたということだ。

  • ACE阻害薬。効きの悪い高血圧治療薬として、珍しくも何とも無い薬としてすでに売られていた。
  • β遮断薬。1年目の頃には「心不全には禁忌」と教科書にも書いてあった。今では心不全治療には「必須」の薬だ。
  • アルドステロン拮抗薬。肝硬変の人などに使う、ものすごく古い利尿薬。これも10年以上前からすでにあった。
  • 10年前に主流だった強心薬と利尿薬。今では「できれば用いないほうがよい」薬になってしまった。

最近の治療はどれも効く。心不全の人にこうした薬を使うと本当に元気になるし、 10年前に比べると、心不全の急性増悪で 夜中に入院する人は本当に少なくなった。それなのに、10年前までは誰も気が付けなかった。

実際のところ、10年前の時点でも、偶然に「正しい」治療を受けている人は多かった。 高血圧に心不全を合併している人は 珍しくなかったし、ACE阻害薬などは効果のわりに薬価が高いから、 開業医で処方されている人は多かった。

そんな人が心不全が悪くなって大きな病院に入院すると、開業の先生の処方は中断。 入院後は当時の「正しい」心不全処方を施され、退院したらもっと具合が悪くなる。

上手くいっているものから、「なぜそれが上手くいっているのか」を学ぶのは難しい。

失敗から何かを学ぶのが流行っているけれど、失敗から学ぶのは簡単だ。話題が派手だし、 原因を突き止めなければ前に進めない。

成功しているケースからその原因を探すのは、そう簡単には行かない。原因を探すには、 原因と思われるところを変えてみて、物事が上手く行かなくなることを確認しなくてはならない。 上手くいっているものは、変えないのが原則だ。成功しているケースでは、 何が原因で成功しているのかは 推測するしかないから、本当の原因が分からない。

観察という難しい技能

心不全治療の場合、北欧のグループが論文を書いてから情勢が変わった。

いつも処方している薬が、実は心不全に画期的に効く薬だった。

そういわれてそういう目で見て見ると、確かにその薬は効いている。今までも同じことをやっていたのに、 いわれて見るまで「効いている」ようには見えなかった。「効くよ」といわれて、初めて世界の見えかたが変わった。

偏見の無い目で世界を見るというのは、本当に難しい。

10年前の当時、教科書や論文で推薦されていた治療は、 10年後の現在では「間違った」治療だ。今も昔も、出回っている薬はほとんど同じ。10年前の時点で、多少の 問題はあるものの、現在のもっとも標準的な心不全治療と同じことはすでにできた。

当時の医師が惰性に流れてサボっていたとは到底思えない。インターネットこそなかったものの、 内科系の論文雑誌はもう100年以上前から定期的に刊行されている。NEJMとかLancetとか、メジャーどころの 論文雑誌はどんな僻地の病院に行っても必ず置いてあったし、みんな読んでいた。

努力は一応してはいる。それでも、指摘をされないと気が付けないことというのは本当に多い。 上手くいっている現状に対して自覚的でありつづけるには、なおいっそうの努力が要るのかも しれない。

お金の取れる医者

研修維持代。当時の病院長から言われたことは、「お金の取れる医者になりなさい」ということだった。

民間の病院だったし、言われたときには意味も分からず反発したけれど、今は自分も下級生にこういっている。

お金の取れる医者になるということは、べつに検査を乱発したり、患者さんにこびへつらって 滅茶苦茶な治療をしなさいということではなくて、要は医師-患者間のコミュニケーションを しっかりできる医者になるということだ。

  • 自分が今何を考えていて、お客さんをどうしようとしているのかを分かりやすく正確に伝えられること
  • 物事が上手く行かなかったり、あるいは上手く行かない場合はどうするのか、回避手段や、自分以外の医師への紹介まで含めて、先のプランを遅滞無く示せること
  • 物事がスムーズに進行しているならば、何が良くてこの状態を維持できているのか、分からないけど偶然上手くいっているのでこのままにしているのか、自分の描いたプランどおりに進行しているのか、 そういうことを自覚的に認識できて、説明できること
  • 辛い治療をするなら、どうしてそれが必要で、それが終わると患者さんが何を得られるのか。ただ「体にいい」じゃなくて、「良くなった体を持つ」ことがその人になにをもたらしてくれるのかを説明できること

要は口が上手い、プレゼンテーション能力が高いという言葉につきるのだけれど、 たとえ医学に画期的な進歩をもたらせなくても、いい医師になることはきっとできるし、 「医学的に正しい」治療をやることと、 「お金儲けの上手い医者」になることとは、きっと矛盾無く両立できると信じてる。

「みんなと同じ」はいけないことか

スイスには博愛があった。500年もの民主主義と平和。 だが、それがなにを生んだ? 鳩時計だけだ。

スイスは別にサボってたわけじゃなくて、現状を維持することにに最善をつくしたから、 500年もの間人が生きのこり、国が残った。

神様は最初、毛むくじゃらのアダムとイブを創造したかもしれない。 それを人間に変えたのは、淘汰と生存競争だ。

競争と進歩というのは絶対に避けて通れないもので、それは医学の世界も全く同様。

それでも進歩の影には絶対に失敗はつきもので、その失敗のツケは必ず誰かのところに行く。

ブラジルとか南アフリカとか、もともと植民地だった国からは、しばしば 画期的な論文が出たりする。日本のそばの某国もそうだ。 こんなところにも、前の戦争の影響というのは残っていたりする。

人の命のコストが極端に高いこの国で医者をやっていくには、 進歩を志向する戦略はあまりにもギャンブル的な要素が高くて、難しい。

何とか、アクティブな現状維持で勘弁してもらえないかな…、と考える10年目。 結婚だってしてるし生活だってあるし、なんとなく最近、気分が守りに入ってる。