真空の生む大きな力
平等で無気力な集団
「市民」とか「みんな」とか、大人数の集団に何かを訴えて、力をかしてもらうのは難しい。
大人数の集団に何かを訴えるなんて、空気に突っ込んでいくみたいなものだ。 何かをやろうとして助けを求めたところで、みんなよけるだけで何も変わらない。
体育会とか企業とか、統率のとれている集団ならば、「頭」にあたる人がいる。 何かを訴えたければ、その人に訴えると効率がいい。
人が持っている力や人望、機会や運命といったものは、本来が不平等に分配されているものだ。
人は集まって組織を作る。その中には頭になる人もいれば、筋肉や皮膚になる人もいる。 生物が物を食べるとき、「今食べたものは皮膚にしよう」「これは血管に」などといったことは考えない。 組織の中での人の役割分担というものも、誰かが考えたり選挙で決めたりするものではなくて、 本来は自然発生的に勝手に決まる。
人の自然な役割分担を否定した組織というのは、組織が生み出す力そのものを否定してしまう。
学校組織。大学。公務員。市民団体。「平等」という、 組織にとっては極めて病的な考えかたが支配する 集団にとりこまれた人というのは、これが同じヒトかと思うぐらいに効率が悪くなる。
チームというのは本来、単なる個人の集団以上に強い力と可能性を持っているのだけれど、 「平等」という腐った概念に毒されたチームなら、個人の集団のほうがよっぽどましだ。
公務員の人に働いてもらおうと思ったら、言葉を使ってその人を組織から 切り離すことだ。
- 「あなたの名前を聞かせてください」
- 「名札を写真に撮らせてもらってかまわないですね?」
- 「あなたの車は湘南ナンバーのシビックでよすね。フフ。」
何かのお願いをするとき、こんな言葉を最後に付け加えると、公務員の人達は喜んで動いてくれる。
風は吹くのではなく吸引される
風というのは、「吹く」ものではなく「吸引される」ものだ。
空気のような物質をいくら押しても、力を加えたほんの一部をのぞいては、空気は動かない。 もっと強い風を起こそうとして、いくら強い力を加えても、その分逃げる空気の量が増えるだけだ。
自然界の風というのは、気圧の高い部分が空気を押すのではなく、 気圧の低い部分が空気を「吸引する」ことで大量の気体が動く。
押す力が効果を及ぼす範囲は狭い。 広い範囲に効果を及ぼすのは吸引力だ(B.フラーの受け売り。元本忘れた)。
空気のようにつかみ所のない、平等な社会や組織を本気で動かそうと思ったら、 その人達を「押す」ことを考えずに、「吸引する」ことを考えなくてはならない。
空気と同じ挙動をする大きな集団
(計算偽造マンションをつかまされてしまったときのローン対策として) 結論から言えば、ローン引き落とし通帳の残高を「0」にします。 (中略)銀行は「払ってくれ」と督促してくるでしょうが、無視します。 (中略)自治体が家賃を補助あるいは免除してくれるなら、それはそれとして受けて、 ローンの支払いは「凍結」します。 (中略)当然に銀行は抵当権を設定しているハズですから、ローンの支払いを止めて、 銀行に「約束どおり抵当物件を差し出せばよい」のです。 悪徳不動産屋の独り言: 構造計算偽造問題、私が被害者ならこうするより引用
実現可能性は分からないけれど、非常に理にかなったやりかただと思う。
銀行組織、あるいは国家という組織は極めて統率のとれている大集団だけれど、 個人が相手にするには大きすぎて、 まったくつかみ所のない相手だ。
偽造マンション騒動。国に陳情をしたり、業者を訴えたりしたところでマンションを 買ってしまった人の「負け」は見えている。払ったお金も返ってこないだろうし、 銀行はきっちりローンを持っていく。国は国で、形ばかりの同情の念は示しても、 選挙前でもなければ十分な補償はないだろう。
引用先の文章では、読む限りでは極めて実践的な解決方法を示してくれている。
銀行相手にローンを組むという行為は単なる借金などではなく、 不本意な取引をしてしまったときのリスクの一端を銀行が担ってくれるという点で、 (ちゃんと利用すれば)極めて有効な消費者保護の手段なのだということがよく分かる。
リスク回避装置としての銀行組織を「正しく」利用できないとき、 例えばローンの免除をマスコミや国に訴えてみたり、 業者の非道さを声高にアピールしたりしても、多分銀行は全く動じない。
消費者が引用先の文章のような行動をとり始めると、話は違ってくる。
今回のマンション騒動では、「国-業者-消費者-銀行」というシステムの中から、 消費者は合法的に抜け出すことができる。
生態系というものは空白を嫌う。
あったものがなくなってしまうと、残されたものはその空白を埋めようとする。 業者の資産を身ぐるみ剥いでみたり、国とやりあって保証を分捕ったりといった 力業を必要とする作業は、消費者の空白に「吸引された」銀行が、肩がわりしてくれる。
個人はそうは行かない。消費者が銀行に「力をかしてください」といくら強く訴えたところで、 それが実現することはないだろう。銀行という巨大な組織は、個人がいくら「押した」ところで、 組織を動かさない理由などいくらでも考えつける。
大きな集団を交渉の席に引っ張り出すには、その人達を「押す」手段を考えるのではなくて、 「吸引する」方法を考える必要がある。
真空の生む力を利用するには
生態系というものは安定していて、外乱に強い。
森林を伐採しようが、乱獲を行おうが、よほど無茶をしないかぎりは生物は絶滅しないし、 また何かの生物が抜けたニッチはすぐ埋まる。外からどんなに力を加えようと、生態系は 変形することはあっても、変化をすることはない。
生態系に根本的な変化をおこそうと思ったら、その系の中の「キーストーン(要石)」 にあたる種を探すことだ。
その生態系を維持している中枢、キーストーンとなっている種は、場所ごとに違う。 それは食物連鎖の頂点に立つ肉食獣であるときもあるし、 多くの動物が餌として依存している植物であることもある。
キーストーン以外の種が減少したり、あるいは何種類かが絶滅したりしても、生態系は維持される。 その種が占めていた空白は他の種がすぐに埋めるし、そのニッチがそのまま空白になってしまっても、 その場所の生物の総量は、そう大きくは変わらない。
ところが、キーストーンとなっている種が絶滅すると、話は大きく変わる。
天敵となっていた肉食獣がいなくなった牧草地では草が食い尽くされ、砂漠化する。 逆に、広大な牧草地のただ1種類の草が外来種に侵略されてしまうと、 その草に依存していた草食動物が激減して、やはり 生態系は大きな変化を余儀なくされる。
真空の力を利用して、社会に大きな変化を起こそうと思ったら、以下の2つの条件を満たす必要がある。
- その社会システムの「キーストーン」となる人や職業が何なのか分かっている
- 誰かが、そのキーストーンを取り除く手段を行使できる
誰もが現状に満足していて、変化の必要を感じていない社会には真空地帯は生じようがない。 遠い国で戦争がおきようが、イルカやシャチが絶滅しようが、地域の社会システム自体は 何の影響も受けない。
問題を感じている人がいて、その人がシステムから抜ける手段を持っていても、その人の作る真空地帯がキーストーンを外れているならば、やはり社会は変化しない。
町に手作りのおいしいパン屋さんがあったとして、その人が疲れてパン屋を止めてしまっても、住民はちょっと離れたスーパーに食パンを買いに行けばいいだけだ。食卓は寂しくなるかもしれないけれど、社会は変わらない。
一方、その社会システムが、キーストーンである人の頑張りに依存していて、 その人が「もうやってられない」 と感じているならば、社会に大きな変化がおきる可能性がある。
前の偽造マンション騒動のシステムというのは、マンション購入者、あるいは国民という「餌」を、 業者と銀行、国家がおいしくいただいているという構図で安定していた。
餌は食われる。路頭に迷う人もいるだろうし、一家心中などもあるかもしれない。 でも、何人死のうがカモはいくらでもいる。カモがいくら死体になろうが、 みのもんたの視聴率稼ぎの燃料になるぐらいで、 このシステムは変わらなかった。
「国-業者-購入者-銀行」というシステムのキーストーンになっていたのは、何といっても購入者本人だ。 現在、このシステムを維持していたキーストーンは「やってられない」と感じていて、さらに システムから合法的に「降りる」手段はどうもありそうだ。
「餌」たる購入者の人たちがみんなこれをやりだしたら、結構すごいことになるかもしれない。
医療の現場でおきつつある真空
医者の仕事はキツい。楽している連中も大勢いるけれど、産科と小児科、外科といった連中が 毎日地獄を見てるのは、もう誰も否定しないだろう。 「好きでやってるんだろ?」という意見も相変わらずあるけれど。
みんな何とかしないといけないとは分かってる。一部の医者の努力だけでは、もうとっくに 限界を超えている。
それでも、医療というのはこうあるべきという「べき論」だけで何とか やってきた。現場の医者はみんな窮状を訴えた。それでも、社会の「みんな」は動かなかった。
訴えたって無駄だ。市民の「みんな」なんて、空気の分子と同じなんだから。
多分この10年ぐらい。訴えつづけて、社会を「押そう」としてきた人達が、ついに引き始めている。
「病院」と「社会」、利害の対立する2つの生態系では、キーストーンとなっている種は異なっている。 産科や小児科という職業は、病院組織のキーストーンではなくて、社会を維持していくための キーストーンだ。
産科がいなくたって、病院は困らない。他の科が頑張れば収益は維持できる。むしろ、眼科医や 麻酔科医がいなくなるほうが、もっと困る。内科や外科は、もともといっぱいいるから、 一人や二人辞めたぐらいではあんまり困らない。
病院ではなく、「社会」というもっと大きな生態系の中では、「総合病院の産科と小児科」というのは まさにキーストーンだ。
人口10万人規模の町で、こうした人達はせいぜい8人。たぶん10人はいない。非常に少ない。 この人たちが撤退してしまうと、町は滅ぶ。結構あっけなく滅ぶ。
- 大きな病院で新生児を診られなくなると、 その町全体の産科医療はストップする。
- 開業の産科の先生方は、事故に対応できる大病院がなくなってしまうと、もはやお産をとることができない。
- 分秒を争う産科救急では、隣の町まで救急車を飛ばすことも難しい。
- 結局その町は「子供の生めない町」になる。
- 人口構造が変わり、税金を払う若い人たちがいなくなった町は、いつかは滅ぶ。
もちろん途中で何らかの介入は入るだろうけれど、 10万人程度の中規模都市から8人の医者がいなくなるだけで、 こんなことがおこりうる。というか、もうどんどんおきている。
対策はどうするのか?
産科や小児科の地位の向上や、産科や小児科のセンター化といった方法では、 多分流れを止められない。
産科や小児科は、社会というシステムのキーストーンではあっても、 病院という別のシステムの中では 必ずしもキーストーンになってはいないから、いなくなっても医者自体は困らない。 お産の技術を知らなくても、とりあえずは食べていけるし。
最小限の予算で「子供の生めない町」を無くすには、 産科の技術というものを、病院という生態系のキーストーンにすることだ。
産科と小児科の救急は、地域の基幹病院では断ることを禁じる。 さらに、一度救急を受けた医師には、たとえ専門外 であったとしても、その患者に対して無限責任が生じるようにする。
問題は山積みだろうけれど、こんなルールが施行されると、 全国の救急医や麻酔科医、救急当直が回ってくる 医師には産科の知識が必須となる。 特に、大きな基幹病院にローテーションするような「優秀な」医師には。
本物の産科や小児科の地位というのは、たぶん確実に向上する。 この人達がいなければ、大きな病院という システムは機能しなくなってしまうだろうから。
今はまだ、産科や小児科の減少という真空が作り出す風は、 病院というシステムに変化を与える方向には 吹いていない。真空をふさぐ手段をあれこれ考えるのも政治なのだけれど、せっかく吹いた「風」の力を システムを変化させる力として有効利用する手段も、また考えなくてはならないと思う。
もっとも、上記のようなルールを本当に適用したら、それはそれで問題山積み。 制度の犠牲者(医師も患者も)は絶対でるだろうし、子供の生めない町どころか、病院のない町が 続出するかもしれないけれど…。