体育会という議論手法

空気が読めない人が増えている

正しい論理ばかりまくし立てたってしょうがない。

議論というのは、論理だけでは勝ち負けは決められない。

肺をみる医者。骨をみる医者。外科と内科。先輩と後輩。 集中治療室では、様々な立場の人が、様々な「看板」を背負って毎朝のミーティングに臨む。

誰もが負けることは許されない。医者なんて面子が全てだから、どんな議論でも勝ちにいく。 議論は大いにしてほしい。それはお客さんのためにもなるから。でもチームが瓦解することは なんとしてでも避けなくてはならない。それをやられると、お客が死ぬ。

議論の結果、みんなを勝たせる。空気の流れを操作するのはとても難しい。

win-win の関係なんて嘘だ。 あんなものはゲーム理論屋の詭弁だ。 論理の世界で「勝ち負け」を決めるのは、論理のルールでの議論で勝ったほうだ。 同じルールで議論をする限り、どちらが勝ったのかは当事者同士が一番よく分かる。 勝ったほうに「君も勝ったんだよ」なんて言われたって、 うれしいどころかそいつをブン殴りたくなるだけだ。

空気の読めない奴らが増えている。

昔はよかった。議論に勝ちそうになったほうは、「これ以上やると喧嘩だな…」と、 途中からは追求の手を緩めたもんだ。 論理対論理のぶつかりあいだった会議は、そのうち双方が空気を読むようになり、 「まあ、そんな感じで…」で決着する。結論は出るけれど、敗者はでない。 誰が最強かなんて無粋なものは誰も求めない、プロレス美学の世界。

今は違う。

ゆとり教育の産物。喧嘩をすれば相手を刺し殺すまで手を休めない、キレる中学生。 彼らを誰も笑えない。「エビデンス」なんて言う言葉が跋扈するようになって、事態はもっと悪くなった。

先生、そんなことも知らないんですかぁ?(プゲワラ

上級生の論理の穴を付けたとき、昔はよくこれをやっては先輩医師に喧嘩をうっていたけれど、 今では誰もがこれをやる。自覚的にやっていない分、当時の自分よりもよほどたちが悪い。

論理で勝つのは正しいのか

実世界での議論というのは、論理だけでは勝負がつかない。 論理だけで勝っていても、それは完全な勝利ではない。必ず怨恨が残る。 遺恨を残さず勝たなければ、完全な勝利とは言えない。

議論の遺恨を引きずるのは大人の態度じゃない。それはたしかに正しい。 でも、人間誰もがそんなに大人のわけがない。ましてや医者の「大人度」なんて、 小学生から進歩してないのがほとんどだ。

ディベートというのは、論理力の競争だ。競争というのは「勝ち負け」を作るから、 どうやっても怨恨が残る。ディベートの技術をそのまんま議論に持ち込むと、 必ず喧嘩になる。

議論に勝ったほうは気分がいいかもしれない。 でも負けたほうは非常にくやしい。議論に興味のない他の連中は、カラオケで下手な歌を がなられた時のような、不愉快な気分だけが残る。これでは誰もが不幸になる。 不幸になるのは、できれば避けたい。

権力で勝つのは卑怯だろうか?

議論の席に「権力」というルールを持ち込むと、勝ち負けの流れは不透明になる。

権力が強いとバカでも勝てる。どんなに理不尽な結論になっても、上級生がこう言っているから、 主将がこう言っているからという話になれば、それが結論だ。

議論に権力で勝つのは、論理的には卑怯な方法だ。それでも、議論に負けたほうは、 心の中で勝った相手を見下せる。勝ったほうも、どこか後ろめたさが残る。 お互いに完全な勝利じゃないから、傷つく度合いは少ない。

ディベートは相手を打ちのめす。体育会組織の理不尽な掟は、議論に参加した 人全てを保護する。

議論の層を使い分ける主将会

大会前の主将会は大変だ。

人がたくさん集まる場所では、必ず利害が対立する。学生同士のことだから、本当は そんなに重要なことを議論するわけじゃない。それでもみんなバカだったし、 だからこそ体育会に入ってる。主将が集まるだけに、誰もが譲れない看板を背負ってる。

そんな連中が集まる会議が揉めないわけがない。

ところが、会議が揉めると、主管校にとっては大きな問題がある。大会後のレセプションだ。

大会後は、必ず酒が入る。

体育会の飲み会だ。医学部体育会など「本物」に比べれば可愛いものだが、やっぱり荒れる。

主将のストレスは、部員に伝わる。宿泊先のホテルのロビーを全裸で歩く奴。フロントに絡んだり、 ソファーに吐いたりする奴はまだまだ可愛いほう。ひどいのになるとロビーで打ち上げ花火を 上げてみたり、ホテルの大鏡を割ってみたり。

弁償したり、ホテルに謝ったりするのは 主管校の仕事だ。これも体育会の掟。

誰もがこんなことにはなりたくないから、主将会の会議は絶対に論理だけでは終わらない。 主管校の議長は、いくつもの「議論の層(レイヤ)」を使い分けることで、 会議に敗者を生まないように配慮している。

議論の4つの層

体育会の議論には、大体以下の4つの層が存在する。

  • 論理の層
  • 空気の層
  • 水の層
  • 酒の層

どこかの層ので勝者は、どこかの層では敗者になる。

議事録に残る「会議の結論」は、どこかの層で出された結論に一致するけれど、全ての層で同じ結論に至るとは限らない。

体育会の主将会というのは、こうした多層構造の間を行き来することで、 誰もが敗者にならないようにできている。

論理の層と空気の層

いわゆる「議事録に残る」議論は、全て論理の層で行われる。

体育会でも会議の建前は民主主義だから、学年や大学名など関係なく、 論理を戦わせる議論の場というものも当然存在する。

大会前の主将会の時間など短いものだから、議論の流れとは別に、 主催者側は最初から「想定している結論」を 用意している。電話だろうがメールだろうが何でもありの時代。会議の前には当然根回しが行われ、 出席する主将のうちの何人かは最初から議長に協力する。

みんなできれば揉めたくないから(主将会が揉めると、後の大会の雰囲気が悪くなる)、 「議長はこうしたいんだな」という 空気を勝手に読む。論戦の流れと「空気」の流れが一致すると、会議は大過なく結論に至る。

もめない会議は、論理を尽くして、みんなが空気の流れを察したところで終わる。 議事の結論は、たいていは「空気の層」で決着される。

議論が論理層で動いているとき、こうした大学ごとの立場の差というものは無視される。 新人は論理層で頑張る。会議の場というのは、ある種社交の場だ。ここで各大学に 自分を紹介して、競技が終わったら親しく飲む仲間を作る。

会議の「空気」を作るのは、ベテラン勢の仕事だ。そうした人達はあらかじめ「根回し」を受けているから、 自分の言いたいことはもう会議の前に言い尽くしている。議論が論理層で動いていて、会議の空気が 乱れていないとき、ベテランは黙っている。論理の流れが「空気」の志向する方向と違ってくると、 ベテランがそれを修正する。

問題は、論理層で頑張っている主将が空気を読まなかったときだ。

論理だけが突っ走る会議は、「空気が汚れる」。 そんなとき、議長はトイレ休憩をはさんで議論に「水をさす」。

会議がひっくり返る水の層

「水入り」になったとたん、会議の空気は一変する。

主将会は、様々な立場の人の集まりだ。3年目の若い主将もいれば、 留年した「7年生」が同じ会議の席に座っていることもある。 人数の多い大学、伝統の長い大学もあれば、今年が初参加の大学だってある。

議事が論理層で動いているかぎり、会議ではこうした立場の差というのは関係ない。 論理的に正しい奴は、体育会でも正しい。

一方、議論の層が「水の層」に移ったとき、空気は一変してベテランが動き出す。

議長の本音は何なのか。「落しどころ」をどこに持っていこうとしているのか。 そうした流れを考えるまでに、水面下でどんなやり取りがあったのか。 議事録にはのらない話がどんどん出てくる。

主将会にも派閥がある。いつもまとまっている北海道勢。 東北と上越との確執。会津勢はいつも独立独歩。

トイレ休憩中は、いろいろなところで議論が一気に進む。廊下やトイレ、あるいは議長席を中心に。

それぞれのグループが思惑を一致させたところで、最後はみんなで「空気を作って」多数決で決着する。

敗者復活の酒の層

体育会の面白いところは、「酒」の力で議事がひっくり返るところだ。

論理で勝っても空気や水でひっくり返された主将は、競技後のレセプションではみんなから飲まされる。

主管校やベテラン勢はビールを持って挨拶に出向き、みんなで酒を飲んでその主将を潰す。 潰されたほうは負け…なのだが、そこは体育会の掟で、潰れたほうは「勝っている」。

逆のケースだってある。

あるときの飲み会。ある大学の主将がみんなの前で挨拶をした後、いきなり脱ぎだして全裸で一気飲み。

パンツを下ろせる奴は最強だ。「こいつには誰も勝てない…」心の折れた各大学の主将は発言力を失い、 しばらくの間、議論の流れはその大学のものになった。

体育会というコミュニケーションスキル

体育会の議論というのはとにかく勝者を作らない。理屈で勝っても、 結論が論理どおりになることなど むしろ少ないし、誰かが勝つときはいつも一番理不尽な方法で議論が終わる。

曰く、先輩だからとか。経験が勝るとか。酒で恫喝されたとか。

体育会という言語は、だいたい全国共通だ。

様々な議論の層を移動するタイミング。理屈で正しいこと以外に、 いろいろなものさしで結論が左右されること。こうした価値観は、 たぶん日本中の体育会で共有されている。 体育をやっていなくても、たとえばオーケストラとか、茶道部なども同じような心を持っている。

体育会同士は、共有しているコミュニケーションスキーマが豊富だから、「以心伝心」が効く。 おたがい相手の気持ちがある程度読めるから、「空気が読める」。

病棟で議論の層を移行するとき

たとえば心不全の患者が骨折で入院したとき、内科と整形外科、どちらが入院を取るかでよく揉める。

  • 内科はできれば受けたくないから、その患者の心臓がいかに落ち着いているのか、 管理の方針はどうやればいいのかを理屈でまくし立てる。
  • 整形外科は、問題のメインは「骨」だとは分かっているのだが、心臓なんていう分からないものはできれば内科に任せたい。

両方の科の協議のとき最初はお互い「ですます」調で語り合う。論理の層で話をする。

「どうせ話したって埒があかないな…」という空気になったとき、整形の先生が「俺らバカだからさ、 心臓分かんないんだわ」と語調を変えることがある。

これは、異なる議論レイヤへの移行を促す言葉なのだが、 体育会経験者以外は理解できない。

これを読めない内科は、「分からないならよりていねいに」、と気をきかせようとするのだが、 事態は余計にややこしくなるだけ。議論はいつまでも 平行線をたどってしまう。

体育会の作っていた「察する分化」

かつては、共有しているものの多さが「察する文化」を作った。病院も例外ではなく、以心伝心で 回している部分が結構あった。

体育会出身の奴、とくに主将の経験者は、相手の議論のアーキテクチャを理解しようとする。 たとえ文化を共有していない相手でも、お互いコミュニケーション自体には慣れているし、 何よりもコミュニケーションが大切だとお互い分かっているから、歩み寄るのは速い。

体育会のやりかたとは対照的なのが、「全てをオープンに」という技術系の人のコミュニケーションだ。

オープンの文化の中では、その発言力は発信できる情報の量と質とに比例する。

  • 情報を発信する技術を持っていること。
  • まわりに役立てられるコンテンツを持っていること。
  • 論理に強いこと。

こうしたものを備えていないと、オープンコミュニティーで発言力を持つのは 難しい。自分には無理だ。根回し専門。

体育会は、何も無くても先輩と後輩の繋がりだけはついてくる。長くいれば、長くいるなりに何か 発言できるし、どこかのレイヤでは「勝者」になれる。

極端な話、ベテランが「自分が敗者だ」と認めた ときでさえ、その人はどこかの層では「勝っている」。敗北を自ら認められる人というのは、体育会の 論理では潔い、かっこいい人だから。

体育会は空気で伝える。技術系は、情報の公開と共有が、そのままチームワークを作っている。

体育会と技術者とは意外に噛みあう。 お互いコミュニケーション自体には慣れているし、それが大切だということはお互い分かっているからだ。

問題なのは対立する2つの立場の両方に属せない人で、 この部分に入っている人が最近ますます増えている。

こういう人は、論理で勝つことしか頭にないから、 相手を論破しても、そのことで「自分が負けている」ことに 気が付けない。空気が悪くなっても、空気自体を読まないから暴走する。

このあたり、社会に出てから「世の中には、空気ってものがあるんだよ」なんて いまさら教えるのもどうかと思うし、 せめて学生のうちに、コミュニケーションの大切さぐらいには気がついてほしいのだが。

今結構困ってる。