初心者の手技はなぜ怖いのか

エルステ寿司

昔の外科では、どこの病院でも「エルステ(初めての)寿司」という 習慣があった。

初めての虫垂炎。初めての胆摘。若手の外科医がなにか新しい手術の執刀医となったとき、 あるいは新任の外科の先生が新しい病院での第一例の執刀医となったときに、 周囲のスタッフに寿司をご馳走する。

おごる範囲は広範。前立ちをしてくれた先生や、手術室のスタッフ。病棟ナースなど総勢十数名。 新人の頃、新しい手技を覚えるたびにこれが何度かあり、けっこう痛い出費になった。

1年目、2年目はどちらかというとお礼をする側。 そのうちなんだかんだと年をとって、おごる側からおごられる側に回ると、 今度は新人の夕飯代を持つ義務が出てくる。結局同じ病院で働くかぎり、結局損得は生じない。

このお寿司の意味というのは、見守ってくれた人への御礼というよりは、 初心者の手術を見守ってくれた恐怖に対する報酬のようなものだ。

初心者の手技はなぜ怖いのか

初心者は危なっかしい。自分が手を出せば簡単に終わるような手技も、 教育上はそう簡単には手を出せない。

手技というのは、自分で最初から最後までやらないと絶対に身につかない。 人を育てようと思ったら、とにかく見守るしかない。

初心者の手術を見守るのは怖い。何年たっても怖い。慣れるどころか、 年をとってますます怖い。

初心者の手技の恐怖はなぜ慣れないのか。たぶん、それが予測に対する恐怖だからだ。

他人の運転する車は怖い

  • ブラインドコーナーでスピードを落とさない奴。
  • 自分なら当然ブレーキを残して進入するカーブを、ノーブレーキで突っ込む奴。

本人達は平気で走る。自分もかなり乱暴な運転をしてきたから、「怖い運転」をする人たちよりも よっぽどラフな運転をする。それでも怖い。

助手席に乗るのがぜんぜん怖くないという人もいる。たいていは普段運転しないドライバーだったり、 事故を体験したことがない人たちだ。

他人から見て怖い運転をする人、あるいは他人の運転が怖く思えない人というのは、 言い換えれば「安全かどうか」の判断がにぶいか、あるいは出来ない人たちだ。

大学時代。四方を山に囲まれた環境で免許を取ると、当然夜中は峠で練習だ。 考えることは誰もが同じ。地元警察とはみんな顔なじみ。 みんなバカで無茶だったし、事故も多かった。

それでも車は正直だ。走れば走るだけ上手くなる。 おっかなびっくり走ってた頃から、アクセルで曲がることを覚え、スピンターンを覚え、 ドリフトを…なんて考える頃には国試目前。でも走ってた。

ベテランは予測する

峠は全部ブラインドコーナーだから、次におこることを予想しながらでないと 怖くてアクセルを踏めない。予想しないでカーブに進入すると、対向車と接触しそうになったり、 思いのほかカーブがきつくて曲がり切れなかったり。

怖い思いを何度もしながら、だんだんと「予測すること」を覚え、アクセルやブレーキのタイミングは だんだんと速くなる。

慣れたドライバーと、初心者との運転の差がつくのはここだ。

  • ベテランは何をするにもタイミングが速い。次のイベントを「読んで」動いているからタイミングがずれない。
  • 初心者は、次のイベントを「見て」から動くから、どうしても正しい動作のタイミングが遅れる。

横に乗っていると、この「タイミングのずれ」が非常に怖い。自分のほうがよっぽど危ない運転をしていたはずなのに。

丘のむこうには何がある?

人工衛星やレーダーなど無かった時代。平面世界で戦争をしていた頃は、 目の前に丘があれば、その先は全く見えなかった。

ナポレオンをワーテルローの戦いで破ったウェリントン公爵は、「軍人として過ごした歳月の 半分は、あの丘のむこうに何があるのだろうと悩む繰り返しであった」と回顧している。

騎馬戦の時代。もちろんレーダーや人工衛星などはない。 敵の位置や部隊の大きさはもとより、見方の部隊の位置すらも把握するのは難しかった。

戦いは「読み」と「予測」の勝負になった。不完全な情報から、いかにして正しい結果を導くのか。 戦いの雌雄を決するのは、過去の経験と運が全てだ。

大昔の戦いでは、老獪な将軍は、しばしば若手に打ち破られる。

そういう話で無いとドラマにならないという側面はもちろんあるのだろうけれど、 ベテランの経験の蓄積というものは、もしかしたら大胆な戦略をとることに躊躇させるのかもしれない。

ベテランをベテランにしている経験というものの多くは、失敗経験だ。

成功した事例をいくら積んでも、そこから外れたときの対応策を学ぶことは出来ない。 多く失敗した人、そこから何とかして生還した経験を多く持っている人が真のベテランだ。

失敗経験というものは積み重なる。軽い失敗の経験は、もっと「ヤバい」失敗経験で上書きされる。 長くやっている人ほど悲観的になり、初心者の手技は見ていてますます怖くなる。

経験は使いまわせる

手技の上手下手は、手の動きと経験との両方で決まる。

器用な人でも「危ない」人はいる。合併症の事例をデータとしては 理解していても、感覚として危ないという意識が薄い。

「感覚」とか、「経験」というものは使いまわしがきく。内科から外科。外科から内科。 専攻を変えればまた初心者からやり直しだ。それでも、そうした人たちがまた「ベテラン」になるのは 速い。

経験というのは絶対量がものをいう。その内容は、実はけっこうどうでもいい。 何かの手技をやってもらうとき、 オペレーターと監督者とで、共有する経験の絶対量が同じだと、お互いに安心感がある。 初心者なりにも安心して見ていられるからまかせられるし、手技も速く上達する。

どこか特定の科を何年もやって、その分野でベテランになってからの転職は、結構うまくいくらしい。 ベテランは、異分野にいってもすぐベテランになるそうだ。きっとそうだ。そうでないと自分、とても困る。

一方、短い期間で転職を繰り返しても、いつまでたっても初心者のままだ。 経験を使いまわそうにも蓄積が無いから、 なかなか「安心感」を持ってもらえない。

たとえば同じ5年という時間があって、5つの科を回るとする。1年ずつ5科を回るより、最初の3年は一つの科、残りは半年づつ4つの科を回ったほうが、トータルで得られる経験値はきっと多い。

経験は伝えられるか?

乱暴な手技が多かった10年前と違い、今は道具が本当に良くなった。

カテはどんどん簡単になり、開腹手術は腹腔鏡にとって代わり、 内視鏡は診断の道具ではなく、もはや治療の道具になりつつある。

道具が進歩して安全になる一方で、1回の手技から得られる経験はますます減っている。

新しい道具を使った手技は、上手くいって当たり前。合併症はあらかた潰し尽くされ、 その対処や予防も確立してきたから、もはやめったに目にすることも無い。

今の道具は危機感を伝えてくれない。腹腔鏡やカテの透視、開腹手術や使いにくいカテーテルの 時代を知っている人達は、「体の中でおきていること」を想像しながら道具を操作する。

自分達の研修維持代。カテを学ぶときは、 「教育用」と称して、あえて扱いにくいカテーテルを使って研修を受けた。 今は道具が改良されすぎて、そうしたこともなくなってしまったけれど。

道具がバーチャルになるほど、そこから得られる経験は少ない。

もしかしたら出来のいいシミュレーターが今後問題を解決してくれるかもしれないけれど、 それまでの間はベテランの昔話だけが頼りだ。人の話を聞きだすのが上手な研修医、 飲み会のヨタ話をしっかり覚えている能力といったものは、今後しばらくの間は その研修医を助けてくれると思う。

  • なにか不安に思ったら、そこで立ち止まって確認する勇気を持つこと
  • 上手くいっているときでも、手元に情報が伝わらないことを怖いと感じられるセンス

そんなあたりが、初心者がベテランに化けていくかどうかを分ける気がする。