論文を書くということ

昨日のおしゃべりのまとめ。

アカデミズムに背を向け、ただひたすらに患者様中心の医療に邁進すのは、 全然かっこいいことじゃないです。

臨床のことだけ、治療のことだけ考えて医者をやっていくという選択肢は、 何の覚悟もいらない、楽な道を選択するということです。

研究と臨床を両方やってる連中のほうが、よっぽど大変な思いをしていますし、 人生に対して真摯です。 研究メインで臨床片手間の奴等なんて、投げてるんだか賭けてるんだか分からないぐらいの 万馬券に、人生の全財産賭けちゃってます。

「あえてリスクを取る生きかた」が人としてかっこいいことならば、ベタベタの 臨床屋なんて、単なるチキン野郎です。

私は論文を書くことに興味がありません。ひたすら臨床。

何かポリシーがあってアカデミックなことをしないとか、臨床研究をやっている連中になにか 反感があるとか。そうした理由は一切ありません。

今のやりかたが楽で楽しいからです 。それだけ。

今よりもっとうまいやりかた

「うまいやりかた」は、常に探しています。

  • 今の診断プロトコールにどんな検査を加えれば、重要な病気の見落としが少なくできるのか。
  • 同じリスクと効果を維持しつつ、どこまで治療を合理化できるのか

今よりもうまいやりかた。無駄のない方法論。そうしたものは、 日本中の臨床家が常に求めつづけています。「カイゼン」への欲求というのは、 なにもトヨタ自動車の社員の特権ではなく、たぶん日本中の技術者の本能みたいなものです。

発見できた「うまいやりかた」を発表するのもまた面白い。

表ページ。いろいろ書いてあるけれど、要は個人の自慢話の集積です。 これをやったらうまくいった。うちの病院には、こんなすごい方法が伝わっている。etc。

枯れた技術と個人の経験

古いやりかたを踏襲するのが好きです。

確実なのが証明された方法。先人の知恵の集積。 新しい治療手技を試す時、真っ先に調べることは、周囲にそれをやったことのある人がいないかどうか。

一人の人間の持っている情報量というのは、NEJMの巻頭論文をも凌駕します。 個人の経験。なによりも、その治療が「あり」なのかどうか。経験者の漠然とした感覚という奴は、 どんなランダマイズトトライアルよりも説得力があると信じています。

新しい「うまいやりかた」というのは、古くからの方法論の組み合わせです。個々のパーツには何の 新奇性もありません。だから日常の仕事の中でも試せるし、また安心して発信できます。

新しくないと論文にならない

論文は違います。

残念なことに、美しいものは論文になりやすいとは限らない。 第一に、研究は独創的でなければならない--- そして、博士論文を書いた経験のある人なら誰もが知っているように、あなたが処女地を開拓していることを保証する一番良い方法は、誰もやりたがらないような場所へ向かうことだ。 第二に、研究にはたっぷりとした量がなければならない--- そして、妙ちきりんなシステムであるほど、たくさんの論文が書ける。そいつを動かすために乗り越えなければならなかったいろんな障害について書けるからね。 論文の数を増やす最良の方法は、間違った仮定から出発することだ。 AI研究の多くはこの規則の良い例だ。知識が、抽象概念を引数に取る述語論理式のリストで表現できる、と仮定して始めれば、それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。リッキー・リカルドが言ったように、「ルーシー、君はたくさん説明することがあるね」ってなわけだ。

何か美しいものを創るということは、しばしば既にあるものに微妙な改良を加えたり、既にある考えを少しだけ新しい方法で組み合わせたりすることによってなされる。この種の仕事を研究論文にするのはとても難しい。

Hackers and Paintersより引用。

誰もがやっていること、あるいは誰かがやったことがあることだけでは、論文にはなりません。

Neuesは勇気ある者に降りてくる

人体というやつは、このところ何万年もまえから変わっていません。

医学というものは、極めて安定したシステムである人体という系が、何らかの「想定外」の出来事に 遭遇したとき、大いに発展します。病気やけが。貧困や差別。戦争。こうしたイベントは、 人体というシステムを大いに揺さぶります。システムを理解するには、それが揺れたときに じっくりと観察するのが一番です。

医学の方法論というのは、人体システムが揺れたときにどう対応したらうまくいったのか、 そうした経験の集積です。古い方法を踏襲すれば、大体予想どおりの展開が待っています。 予想できることは、確実だけれど発見はありません。

リスクをとる勇気のない奴には、 発見の機会など巡って来ないのです。

問題なのは、他の科学の場合、リスクをとる人間は研究者自身なのですが、 医学の場合はそれに患者も加わるって ことです。患者さんのとるリスクは、採血量が2ml程度増えるとか、 CTをもう1回だけ余計に撮るとかいった ものから始まって、ちょっと言えないすごいことまで、様々です。

ただでさえ医者の肩身が狭くなった昨今、保身のためには余計なことはしたくない、というのは 臨床オンリーで生きてきた奴の本音です。

論文を書くということ

論文執筆をはじめとした研究活動に興味を持てるかどうかは、多分に後天的なものです。

論文を書くためには、データを集めなくてはなりません。

研修医時代。その生活サイクルの中に、「論文のためにデータを集める」というモジュールが 組み込まれていないと、多分その研修医は論文執筆に興味を持ちません。

民間大手の忙しい病院には、「論文を書く」という文化が欠落していることがよくあります(たぶん)。

お前の性格を人のせいにするな、という叱責が聞こえてきそうですが…。

忙しい病院では、みんな「うまいやりかた」を日々探しています。 どうやったら死ぬ病気を見逃さずに済むのか。全員入院、病歴聴取だけで1時間かけていいなら 誰だって何とかなります。同じことを外来で3分でやろうと思ったら、頭を使う必要があります。

臨床をやりながらデータを取る先生、論文を書く先生に対するやっかみや反感といった感情は、 持っていません。一応。私達だって論文がないと勉強できませんし、論文を書く人たちが いるからこそ医学というのは前に進みます。

それでも、もう少しうまいやりかたはないのかな、とは思ってしまいます。論文を書くのに要する エネルギーはあまりにも多く、その論文が何かの役に立つ可能性はあまりにも少ない。

論文は小数の専門家にしか読まれない。ごく一部の論文は世の中に大きな影響を与えるが、 残りの大半はほとんど影響を与えない。正確に言えば、博士号の取得であるとか、 大学内の昇進・雇用の維持であるとか、学会の存続であるとか、そういうことには役立つ。 一例として、情報処理学会の論文誌に論文を掲載するには別刷料という名目で掲載料を 支払わなければならないが、これは読者よりも載せる人の利益の方が大きいからだろう。 いやなブログ: ポール・グラハム論法より引用

頭のいい医師はたくさんいます。 アカデミックな某科の医師など、私の実力などはるかに上回っています。 一般内科は、しょせん専門医の敵ではありません。専門があって、マンパワーがある 連中は無敵です。

それでも、彼らはしばしば、その力を貸してくれません。

  • そんなの診ても業績にならない。
  • 厳密にいって当科的な適応はありません。

返答はいろいろですが、要は「忙しいんだからそんな患者は紹介するな」。 実力あるんだから力貸してくれよ…。けっこう悲しくなります。

「論文を書くこと」の価値

臨床研修というのは、要は医者として活動するための洗脳教育です。

どんなに個性の強い奴でも、研修した病院の文化というものに必ず影響をうけます。

  • 論文執筆という行為が、医師としてのライフサイクルに組み込まれている人。
  • 日常業務からいかに無駄を省くかという一点に血道を上げてきた人。

両者には接点がありません。例えば、生きた魚を捌いたことのある人と、 魚といったら魚屋の切り身しか見たことのない子供みたいな関係です。喧嘩にすらなりません。

「魚は本当は生きている」という知識は、知らなければ知らないで、何とかなります。 日本に住んでいて、お金があれば、たぶん困りません。実物を見たら驚くでしょうが。

同じ知識でも、例えば「車輪」という概念を知らない人は、人生大いに損をしています。

車輪があるから車は走るし、重いものも運べます。これを知らなかったら、コロしかなかった ピラミッド文明時代に逆戻りです。

では、「論文を書く」という概念は、医者にとってはどんな価値を持つものなのか。

「魚は生きている」という程度の価値なのでしょうか?それとも「車輪」の概念ぐらい、 知らないと致命的なものなのでしょうか?

医者10年やっていて、今のところそんなに困っていません。論文を書いている人も、 10年目までは同意見です。そんなに困らない。

問題なのは、そこから先の話。

20年目。30年目。臨床だけやってきた人は、いざ振り向いたとき、自分が後に残したものが 何も形になっていないことに愕然とするといいます。論文を書いてきた人は、 「論文」という形が残る。

「今から習慣にしておかないと、後になってから悲惨だよ。」

アカデミックな病院が研修医をリクルートするときの殺し文句です。

このあたりがどこまで正しいのか。私には全く評価できません。困ってないし、今はとりあえず 結構楽しいし、20年目になっているわけでもないし。

自分が将来どうなっているのか。何のビジョンもなければ、展望もありません。 なるようにしかならないでしょうし、何よりも「決まっている未来」ぐらい、つまらないものは ないと思っていますし。

先の見えないことの楽しさ

アカデミズムを放っぽって来た人を知っています。

某関東のやんごとなき大学の出身の方で、業績を上げて某国立大学の教授に内定していたそうです。

あるときの座長講演。専門的な内容なので、聴衆はみんな、理学部出身の人ばかり。学生の頃から 試験管を振ってきている連中。

立場が上なのは自分。でも、その分野での頭のよさは、彼らの方が上。

そんなことを考えているうちにアカデミズムが空しくなり、私が飛ばされていた僻地の病院に 就職してこられました。

一緒に飲みながらそんな話を聞き、笑いながら「今すごく後悔している」と言っておられたのを覚えています。今ではそこも辞め、南の島の診療所で内科医をしておられるはず。 とっても投げやりな選択をする、とてもかっこいい方です。

自分が研修を受けた病院の先生方も、みんなめちゃくちゃです。

  • 10年目ぐらいで急にボスニアに旅立ち、「手術室の壁は、銃痕でめちゃくちゃです」という手紙を最後に 失踪された外科の先生。2年ぐらい経って、ひょっこり戻ってこられました。
  • 某南の島の地域医療体制を立ち上げて「神様」扱いされていた先生は、今ニカラグアで大腸カメラを しています。
  • アメリカに渡って大学教授をしている先生。タイや北欧に渡った人もいます。他にもいろいろ。

医者という仕事を続けていく中で、臨床をやりつつ論文執筆に時間を割くのは大変です。 その行為の意味は、現在の自分の時間を、自分の未来に投資するということです。

臨床をやりつつ論文を書くという文化を知らない医者は、 そのあたりがかなりいいかげんです。先を読んで行動することをしません。

未来なんてどうなるか分かりません。先輩方は行き当たりばったりで、でもみんな楽しそうです。

臨床医という仕事は、結構不安定なものです。職場は一定しないし、住所もコロコロ変わります。

論文を書いて発表するという生活モジュールを自分に導入するという選択は、確実な未来を志向する 道を選ぶってことです。

研究活動というのは、過去の蓄積を踏襲して、さらに先に進む行為です。 どこかの研究室に所属して、そこの伝統に乗っからなければ、やはりうまくは行きません。 医局に入って論文を書く。書きつづければ、流れに乗れます。未来も見えてくるかもしれません。

目の前の現在だけを見る生きかたというのは、自分の目の前の仕事で、確実に結果を残さないと いけません。先が見えないから、結果を出すこと、その場の仕事で役に立つ知識を集める のは大事です。

結果が出れば、また「次」の道が見えてきます。医学はそんなに独創的な発想が 求められるわけではないので、 勉強だけしていれば、結構何とかなります。でも、「次」は見えても、最終的に「どこ」に行くのか。 それは全く分かりません。

先の見えない現状を楽しいと感じるかどうか。

アカデミズムを志向するかどうかの選択というのは、 案外そのあたりにかかっているような気がします。