ネットワーク化した病院の未来

救急外来のつらさの変化

救急外来の当直空け、朝の5時ごろに煮詰まったコーヒーを飲む頃には 白衣が血まみれだったのは今は昔。

地域の大病院に勤めるということは、その地域に住んでいる人たちの生き死にに対して、 無限責任を負うというのに等しいことだった。仕事はきついし、重症疾患を 見逃せば一人死ぬ。医者も死ぬ。結構つらい。

それでも昔は、気合で何とかなった。今は無理だ。

町の平均年齢というものはどんどん上がる。以前は60台、70台で元気に していた人たちも、10年もすればそろそろ寝たきりになる人が出てくる。

寝たきり老人は、寝てはいるけれど医学的には健康だ。 それでも、医療は不要でも介護は必須。ねたきりになった人が一人出れば、 それから数年間は地域のベッドが一つは埋まる。

介護施設のベッドは高い。数も少ない。行き場のない患者は、救急車で押し寄せる。

人口10万人程度の地域で、急性期病院のベッド数はせいぜい1500床(下手するともっと少ない)。 全員受けていたら、地域の医療が止まる。

大学だけは何とか難を逃れているけれど、今の救急医に求められる資質の多くは、 交渉能力だ。入院を希望している老人を、いかに言いくるめて家に戻すか。 叩けばいくらでもほこりが出る高齢者。言いくるめるこっちだって不安だ。

気合と体力で何とかなったのは昔の救急。入院を希望する家族からは叩かれ、 入院を受けるはめになった病棟医からは罵られ。今の救急外来は、自分のプライドとの戦いだ。

転院先はどこだ?

病院という場所は、入院から退院まで、患者さんが同じペースで動いてくれないと渋滞する。

急性期の患者の流れは活発だ。良くなる人は良くなるし、悪くなる人は悪くなる。 入院期間は医学的に決まる。ベッド数は少ないし、患者はどんどん入ってくる。 良くなった人は一般病棟へ転出する。この過程は比較的スムーズだ。

病気が慢性期に入ると、流れはだんだんと遅くなる。流れが澱んでみたり、渦をまいて逆行 してみたり。素直に流れて、リハビリ施設や慢性期病院に入れる人は少数だ。

"慢性期"と呼ばれる患者の幅は広い。病期的には、入院してから数週間もすれば、 その患者は慢性期に入る。転院先を探しはじめないと、次の人が入って来れない。 病気の進行なんて 人それぞれだ。「慢性期に入った患者」というのは、単に筋トレ待ちの人から、 気管切開されて呼吸器のついている人まで、すごい幅がある。

慢性期の病院の適応というのは機械的に決められる。 急性期病院では、入院期間が延びれば どんどん儲けが少なくなる。どこかで患者に出てもらわないと、病院が潰れる。

慢性期の病院のベッドは、いつも奪い合いだ。入院期間が長いから、ベッドはなかなか空かない。 希少価値のある病院だから、慢性期病院には患者を選択する余地がある。

誰だって良くなる人を診たいし、汚い仕事は避けたい。元気な人は、経営的にも効率がいい。

慢性期の病院は、入院患者を選ぶ。歩ける患者、食事や排泄の世話のいらない人はすぐに入院できる。 一方、動けない人、意識の悪い人、急変の可能性のある人というのは、いつまで経っても取ってもらえない。

「美味しくない」患者の転院が成功するのかどうかは、病院のソーシャルワーカーの腕が全てだ。

優秀なソーシャルワーカーの人は、取引がうまい。「美味しい」患者さんを複数紹介した施設には、 代わりに重症な人も引き取ってもらう。どこにもいく当てがない患者さんには、県外の 聞いたこともないような病院にまで連絡して、なんとか話をまとめる。

あまり重症な患者さんばかり紹介すれば、その施設は2度と患者を引き取らない。 かといって、「本当のこと」ばかり言っていては、やはり交渉は成立しない。 ソーシャルワーカーはばたばた辞める。非常にきつい仕事だ。優秀な人には 仕事が殺到して、その人もまた潰れる。

リアルタイムのベッド情報は渋滞を解消するか?

  1. その地域全域の医師にタグを付け、専門分野、入院患者を診るキャパシティーといった情報を検索可能にする。
  2. 同じく、その地域の入院可能なベッドの数、医師の受け持ち患者数をやはりリスト化して、検索可能にする。
  3. 転院先に困ったソーシャルワーカー、あるいは救急が依頼の医師は、その情報を利用して患者の流れを決める。

病院間のネットワーク化をある程度進めれば、こうした情報を共有するのは比較的簡単に出来ると思う。

それでもこれだけでは問題は解決しない。こうしたシステムが実用化したとしても、 たぶんほとんど機能しない。病院ごと、あるいは医師ごとの文化の壁というものが存在するからだ。

出身医局、研修病院、勤務先の病院。医師の、あるいは医局の文化というものは、 施設が変わればぜんぜん違う。 医局の関連病院ならば、まだこうした文化の違いは少ないかもしれない。それでも、 今度は病院内の他科との文化の差が壁になる。

ガイドラインエビデンスに基づいた診療。そんなものは、友達の少ない、 いじめられっ子だった医者が 一発逆転をかけて叫んでいるたわごとにすぎない。

あんなものを心から信じている医師などいやしない。ガイドラインは参考程度、あるいは それをせせら笑えるぐらいに勉強して、自分の文化に基づいた診療をするのが日本の医師だ。

科が同じでも文化の違う相手からどう思われるか。医者という人種は基本的にプライドが高いから、 「相手からどう見られるか」というのは人生の最重要課題だ。

完璧な治療というものは存在しない。価値観は常に変化する。自分のやった治療が本当に正しいのか。 医師は、他の医師との距離の中にしか、その正しさを確認できない。

病院同士、医師同士のネットワーク化を本当に押し進めるならば、治療のマニュアル化、 コンポーネント化の問題は避けて通ることが出来ない。

治療のコンポーネント化のもたらす将来

治療ガイドラインなどクソ喰らえだ。治療は日々進化する。 どんなにお偉い先生方が「正しい」ガイドラインを発表しようと、ツッコミどころは満載だ。 本当に正しい治療などほとんど分かっていない現在、反論材料などは 論文からいくらでも引っ張れる。

治療のコンポーネント化を進めるためには、治療の中身をいじくる方法ではうまくいかない。 ガイドラインで決定すべきなのは2つ。

  • どこまで検査をしたら、その患者を受けるのか。
  • どこまでやったら、「ゴール」とするのか。

大事なのは、それぞれの専門科ごとの、入り口と出口の部分の 共通化だ。

各診療コンポーネントの内容については、それぞれの専門家に任せる。どんな方法であっても、 要はその人の守備範囲の病気が治れば、それでその人の役割はおしまいだ。診療コンポーネントの 入り口部分は、出来れば「症状名」で分類する。特定の症状が出た場合、この検査をして、 結果がこうであったらこの家の守備範囲とする、というように。

専門各科の「縄張り」を明文化してしまうと、どんな疾患で入院した人でも、必然的に複数の医師が かかわりを持つようになる。コストは増大するし、処方も増える。責任もあいまいになる。

それでも、日本は専門医の国だ。

一般内科医、一般外科医といった少ない種類の一般医があいまいな医療を やっていた時代から、専門家集団のネットワークが患者を診察する時代へ。複数の医師が 同じ人を診察するコストは、コミュニケーションの効率化でなんとか相殺する。

主治医などというものは過去の遺物、あるいはぜいたく品になる。 相談役がほしい人は、別料金でどうぞ

治療の知識の再利用性

医師が患者を治すためには、どの科であっても何らかの知識が必要だ。

20年目のベテランと同じ立場に立つにはやはり20年近い知識の積み重ねが 欠かせないし、体で覚えた知識にも毎日のアップデートは欠かせない。

治療のための知識というものは、講義型式では伝えられない。凄腕の医師というものは 量産できないし、同じ道を歩んでも、同じ高みまで登れる人は少数だ。

これではいかにも非効率だ。例えば心臓外科医になりたければ、1年目から麻酔のかかった患者の 手術だけをすればいい。患者さんとの会話など必要ない。 理学所見や聴診のテクニック、心電図の解釈すらも 必要ない。それは内科の専門家がやってくれる。 本当に心臓の手術だけのプロになるなら、メスだけ握れれば それで十分。

外来のプロ。手術のプロ。術後管理のプロ。それぞれ専門家が独立すれば、成長の効率はいい。

医者としてやっていくのに必要な知識というのは、いわゆる「腕」に相当する知識と、治療につながる 知識との2つに分類される。

  • 「腕」に相当する知識というのは、例えば手術や内視鏡の腕、専門的な技能や治療のための最新知識。こうした物を持っている医師は「ベテラン」とか、「ゴッドハンド」などと表現される。
  • 治療につながる知識というのは、例えば呼吸器内科に紹介するときは胸部CTとLDHの採血が必須とか、○○先生にコンサルトするなら月曜の午後が最高とか、この症状が出たら、こういう採血を取って この科に相談すると解決するとか、医師同士のコミュニケーションを円滑に行うための 知識。これをたくさん知っている医師は、「ソツがない」とか、「使える」医師などと表現される。

前者の知識は、体験を通じてしか身につかない。こういう知識は共有できず、知識を得るには自分も その道の専門家になるしかない。

後者の知識は、共有が可能だ。病院内で誰かが「うまいやり方」を発見したら、他の医師はそれと同じことを すればいい。ノウハウは学習可能で、専門家の性格が変わらなければ、保存も可能だ。 手技は出来なくても、手技の出来る奴が友達なら、 治療は出来る。現在こうした知識を駆使しているのは一般医だが、将来的には機械化も可能だろう。

本質は腕か考えか

治療のコンポーネント化、専門家のネットワーク化というものが本当に進むことがあれば、 救急外来医の仕事は簡単になる。

病気の「あたり」を大体付けたら、とりあえず一通りの検査を出して、患者さんに「タグ」を付ける。

どの科に振ればいいのか、主治医は誰なのかは考えなくても大丈夫。タグ付けされた患者は 専門家のネットワークの海に放り込まれ、タグに応じた専門家は勝手に集まってくる。

象に蟻の群れがたかるように、病気に対して専門家が押し寄せ、各々の領域に最適な治療を 行っているうちに、患者のタグは変化していく。 それとともによってくる専門家の顔ぶれも 変わり、病気の軽快とともに慢性期病院の専門家がベッドを手配する…。

人がネットワークを操作するなら、ネットもまた人の思考を操作する。

変化する患者の「タグ」に操作される専門家集団というイメージでは、主治医の思考というものが 専門家のネットワークの中から自然に発生していくように見える。

時代は循環する。腕を追求する専門家に対する反省から、最近は家庭医や一般医に人気が集まっている。

大きな施設に出来ることには限界がないけれど、スタッフ交互のコミュニケーションにかかるコストは 施設の規模に比例して増大する。 病院の規模が大きくなると、施設のピーク性能は高まっても、その効率はどんどん落ちる。

一般医は現在、大病院の効率の悪さを補間する存在として、その価値を見出されている。 その価値も、将来的には地に落ちてしまうかもしれない。

ネットワーク化された医療の将来

「主治医の方針」というものは、究極的には機械化が可能だ。

現在は、専門家集団に比べて性能の劣る「一人の主治医」が、あいまいな知識を元に方針を決めている。

治療の方針というものは、本来はイベント駆動型。治療の結果を見て、次の方針が決まるのが正しい。 主治医が一人でそれをやるには、人間の体の情報というのはあまりにも多い。不十分な知識では 間違いも増えるから、治療の方針というのはある程度「見込み」でやらざるを得ない。

どうせこの先待遇が改善されることなんてない。 予算は削られ応召義務は拡大される。結果責任を問われる 傾向はますます強まり、仕事はきつくなる。

逃げ道などない。海外に逃亡できるガッツのある奴は、 そもそもこの時代に医師という職業など選択しない。

大きな病院には「人が増えたせいで増えた仕事」が山ほどある。 現在の一般医というのは、この仕事をこなして食べている。

専門分化が進んで、医師のネットワーク化が進めば、 例えば原因不明の背部痛を訴える人が整形外科の外来を受診しても、 レントゲンを取ったあとは消化器の医者が勝手にやってきて、 患者を自分の所に連れて行ってしまう。

そこにはもはや「総合的に」患者を診察できる医師の出番はなく、 ネットの世界に一般医の生き残る場所は残っていないのかもしれない。

医療の効率化は進む。絶対進む。どんどん進む。

乾いた雑巾を絞るように医師は絞られ、無駄なことは出来なくなる。

医療を絞って出てきた水は、患者ののどの渇きを癒す聖水になるのだろうか? あるいは、効率化に止めを刺された一般内科医の末期の水になるのだろうか?

自分は一般内科医だ。少なくとも自分ではそう思ってる。

自分の居場所が将来なくなるなんて、そんなことは書いている自分が一番信じていない。 それでも、世の中にこれだけの数の「専門家」があふれていると、一般屋を 量産するよりは、今いる専門家を再構成した方が効率がよく見えてくる。

あとは、一般内科の気合と体力次第だ。