魂消える演劇というもの

演劇を見るのもやるのも恥ずかしかったのは小学生の頃。

作り話を楽しまず、斜に構えるのはかっこいいことだった。空気の読めない子供はせっかくのライブ演劇(昔は3ヶ月に1回ぐらい、体育館に劇団が来てくれた)を楽しまず、奇声をあげたり歩き回ったりして、教師の人を困らせていたらしい。

演者と観客とのお約束

実世界に仮想空間を作り出す演劇を楽しむには、劇団と観客との間には守らなくてはならない「お約束」がある。

背景がなぜ手書きの絵なのか。俳優の人は、なぜああも大げさな動作をするのか。無粋な突っ込みはいくらでも入れられる。それでもそんなことをしてはいけない。演劇は、突っ込むよりも楽しんだほうがずっと幸せになれる。空気が読めない子供には、素直に演劇を楽しむことができない。

外来診療。あれだって、一種の演劇的な空間だ。医者は医者の役を演じてる。患者さんは観客として、白衣を着た奴の一挙一動を楽しむ。聴診器を近づけるだけで大泣きなんてしないでほしい。まあ無理もないけど。

子供にはアニメ映画でも見せておけばいい。アニメのスクリーンの中は、そもそもが全て異世界だから、そこで表現されるものはそのまま受け入れるしかない。映画も同様。SFX全盛の昨今、どんなにありえない設定でも、いくらでも写実的な表現が可能だ。そこには何の「お約束」も必要ない。見て楽しめれば、それでいい。

それでも舞台は面白い

どんなにお金をかけて作りこんだ舞台美術だって、ハリウッド映画のそれに比べればどうしても見劣りはする。役者の動作だって、演じるのは人だ。CG使い放題の映画に比べれば、「演じるのが重力下の人類」という制約からは、どうしても逃れられない。

それでも舞台は面白い。演出にさえ乗れれば、その感激は映画以上だ。

演劇を見て感激する時、その人の感覚というのは映画以上に鋭くなっている。その原動力となるのは、想定外の出来事に遭遇したときの意識の鋭敏化だ。

映像メディアというのは、「スクリーンの中ではなんでも起こりうる」という、映画を作る人にとってはあまり面白くない約束が、観客と製作者の間に成立してしまっている。

映画の製作者がどんなにがんばっても、もはや映像のすごさで客を感激させるのは難しい。信じられない映像を見せられて、観客は一瞬びっくりするかもしれない。それでも映画の世界では、監督の考えた「想定外の映像」は、すべて観客の「想定内」だ。その驚きは長続きしない。

どんなに奇抜な発想でも映像化できるにもかかわらず、映画というメディアは、映画監督側に不利なルールだ。

演劇は公平だ。観客と劇団側の条件は対等になる。どちらの住処も実世界である以上、観客にも演者にも、実世界のルールが適用される。演者の動作が観客の想定を外れたら、そのときは常に演者の勝ちだ。

演劇は実世界のルールに縛られる。一方で、ルールが決まっているからこそ、演者にも観客に勝つチャンスが平等に転がっている。

舞台演出という魔法

演劇で観客から「想定外」を引っ張り出すには、様々な方法がある(全部劇団四季…それしか知らない)。

  • オペラ座の怪人」の冒頭、オークションの666番、オペラ座のシャンデリアが出品されるところから舞台が始まる。出品されたシャンデリアが突如点滅をはじめ、不気味な不協和音とともに左右にゆれながら天上へと上っていくとき、舞台のほうではオークションが片付けられ、19世紀末のオペラ座の舞台へと変わっている。天井に視線が釘付けになった観客が舞台へと視線を戻すと、すでに全く違った世界がそこにある。

  • ミュージカル「キャッツ」の後半、見事な踊りを披露した手品師猫ミストフェリーズは、自分に当たったスポットライトをだんだんと小さくしていく。舞台全体を照らしていたスポットライトはただ一匹の猫を照らすだけになり、さらにミストフェリーズの顔だけが暗闇に浮かぶようになり…。最後は手品師猫が「フッ」と一息すると、舞台は真っ暗になり、次の瞬間妖精猫シラバブの「メモリーズ」独唱が始まる。舞台中で踊っていたほかの猫は、暗闇の中でいつのまにかシラバブを囲むように座っている。このときの舞台の変化は、本当にミストフェリーズに魔法をかけられたような気分になる。

視線の誘導は、強力な演出技術だ。

実世界での人間の視野というのは、非常に広い。とくに対象が動くものなら、背後から近づきでもしない限りは、たいていのものは見逃さない。演劇では、演出家は観客の視線を巧妙に誘導する。誘導された視線をホームポジションに戻したとき、「見て」いたはずの舞台は、見たこともない情景へとすり替わっている。普段自信を持っているはずの視野が裏切られるから、そこに想定外の自体が生じる。

大きなものを見せられたり、大きな歌声を聞くだけでも、舞台という場所では観客の想定外を引き出すことが出来る。「ライオンキング」のオープニングの歩く象。「ミス・サイゴン」で空から降ってくる本物のヘリコプター。こうした演出は、舞台に呑まれた状況でそれを見せられると、一瞬頭の中が白くなる。

頭を白くする想定外の事態

自分の想定外の情報が頭に突っ込まれると、一瞬頭の中が真っ白になる。

頭の中の意識を構成しているのは、様々な経験や学習をつんだ脳内の「小人さん」達のネットワークだ。

想定外の情報が頭に突っ込まれると、このネットワークは一瞬落ちる。落ちた後、そのネットワークはかつて経験した似たような状況を経験した「小人さん」が再起動し、未知の状況に対応しようとする。再起動直後に動けるのはその小人だけだから、ショックから立ち直った直後の人は、しばしば過去の動作を機械的に繰り返す。

同じ想定外の自体であっても、それが全く経験したことのないものであれば、どの小人も動けない。このとき、頭は全神経を投入して事態の推移を見守る。意識は思考停止し、どんな概念でも素直に受け入れる。

驚きの繰り返しは感動閾値を下げる

想定外の事態というのは、一瞬ではあるが、意識をシャットダウンする。もちろんそれはすぐに再起動されるが、シャットダウンを食らうたびに、目を覚ます「小人さん」の数は減る。

大昔のゲームセンターでは、電源コンセントの抜き差しを繰り返すとありえない数のクレジットが表示されて、いつまでもただで遊べた。頭もまた、短い時間で何度も想定外の情報を突っ込まれると、意識のガードはだんだんと下がる。物語の終盤、何度もシャットダウンと再起動とを繰り返された観客の頭は、演技者の意図を無批判に受け入れるようになる。

演劇では、こうした想定外の驚きの演出が、劇中に何度も繰り返される。巧妙に仕組まれた演劇では、劇場に入ったときからもう想定外が始まっている。驚きを繰り返すうちに観客は素直になり、ただでさえ盛り上がる話は非常な感動を生む。ある意味、カルト団体の洗脳手段と全く同じだ。

内科外来での演出手法

外来で話の長い患者さんの話を打ち切りたいとき、興味のないふりなどしたら、かえって患者さんの話は長くなる。かといって、「黙ってください」などと面と向かって言い出すのは、プロとしては最悪の選択だ。

こんなとき、手元の聴診器をわずかに持ち上げ、じっとしていると、相手の意識は「この医者何かするのかな?」ということに集中して、話が止まる。うまく仕事をはじめられたりする。

内科の外来で、聴診という行為の診断価値は年々薄れてしまっているが、聴診器は相変わらず便利な道具だ。何をしていいのか分からないときの時間稼ぎ。耳の遠い患者さんの補聴器の代わり。そして、患者さんの視線誘導デバイスとしての使いかた。レジデントをぶん殴る武器にしている著名な先生もいる。

実世界では、世界の道理をはずした状況を作り出せれば、相手の思考をある程度コントロールできる。ならば、まだ実世界の道理のわからない奴に想定外状況を突っ込むにはどうすればいいのか。

獣医さんが犬に注射をする場合、目に息を吹き付ける。次の瞬間、犬は一瞬だけ動作を止めるのでそのときに注射をしたり、診察をしたりするらしい。

なじみの獣医さんからこの方法を聞いた頃、夜間の小児外来で子供に試したことがある。医者が目に息を吹くという状況は、その子供にとっては確かに想定外の出来事だったらしい。で、そこは子供らしく、「突然の大泣き」という、駆け出しの医者にとって全く想定外の反応で返されて往生した。翌朝、小児科部長にむちゃくちゃ怒られたのを覚えている。

まだ演出家への道は遠い。