先生に全てお任せします

医者みたいに生ものを扱う業界では、同じ事をすれば同じ結果が返ってくるとは限らない。 合併症は避けられない。結果責任を求められると、すごくつらい。

人間相手の仕事には、絶対はない。特にそれが、生きる死ぬにかかわってくることならばなおさら。 全力は尽くす。それは職業上の誠意として。それでも、「絶対」はありえない。

美味しい野菜を食べるには

実世界のほとんどの商取引は、結果責任で運営されている。

スーパーでニンジンを買う。3本で100円。

農家の人だって損をしたくないから、3本セットを100セット売れるところには、なんとしてでも100セット 納入する。不作の年で50セットしか作れなかったら、売上は半分だ。

収入が不安定になるのは、農家にとっては非常につらい。不確定要素を減らすために、畑には化学肥料が突っ込まれ、農薬が撒かれる。

消費する側としては、できれば無農薬、有機栽培(その是非はともかく)の野菜がほしい。それでも、農家にとってはそんな製品を作るのはギャンブルだ。農家の人が「自分用」に趣味で作ったもの以外、本当に無農薬の農産物が市場に出回るのかどうかなんて、あやしいものだ。

無農薬の野菜を確実に手に入れたかったら、農家と契約を結べばいい。要点はこうだ。

  • 今までは、出来上がった野菜に対して報酬を支払った。不作のリスクは農家もち。
  • 新しい契約は、「1年後の野菜」に対してお金を前払いする。3本のニンジンの代金で、1年後に5本もらえるかしれないし、最悪1本も出来ないかもしれない。そのリスクは消費者もち。

野菜の生産者のほうは、不確定要素を減らすために農薬を投入したりしなくても、不作なら不作なりに、豊作なら豊作なりにその1年分の努力に対する報酬がもらえる。天候や虫害といった不確定要素のリスクは、消費者が分担してくれる。農家は、ただただ美味しい野菜を作ることだけに専念できる。

このシステムだと、全く働かなくても1年分の収入が確保できる。畑に何も植えなくても、1年後「不作で全滅でした」と契約者に伝えれば、それでも収入は変わらない。こういうズルを避けるため、生産者には消費者サイドへの説明義務が生じる。

例えば1枚の畑に10人の消費者が契約したとして、10人は交代で農家を見張る。農家は、消費者から求められたとき、自分が何をしているのか、今どうなっているのかを説明する義務がある。このあたりの信頼関係、あるいは穏やかな相互不信の関係が保たれていれば、この契約はお互いがそこそこ幸せになれる。

昔の生協は結構上手くやっていた

今は「生協」というのはそれ自体がブランドになってしまったけれど、出来たばかりの生活協同組合というのは、上記のような契約システムを地場でやっていた。

小学生だった頃、地元の生協で食パンを作ったことがある。地元のをばさま方のつてで、どこかのパン職人と数十人の主婦の人たちが契約を結んだらしい。

最初の頃はあまり美味しいパンは焼けなかったらしいが、生協はその食パンを購入しつづけ、同時に小麦粉はこれで、酵母はこれで、とあれこれ要望を出しつづけたそうだ。近所のおば様たちから徹底的にいじめ、もとい鍛え上げられたそのパン職人の人はすごい腕前になり、そのうち安いのにとんでもなく美味しい食パンが食卓に上るようになった。

そのうち、あまりにも厳しい要望に疲れたのか、そのパン屋さんはいなくなってしまい、さらに1年ぐらいしてから近所に独立した店を構えて、結構成功していた。パンの値段は倍ぐらいになっていたけれど、やはり美味しいパン屋さんとして近所の人気店になっていた(3年ぐらい経って無くなってしまったけれど)。

医療の分野での農薬や化学肥料

病院の仕事は、不確定要素だらけだ。

論文どおりの治療、あるいは欧米流の「正しい」治療をやれば、 たしかに論文どおりの成功率で治療は成功する。一方で、やはり論文どおりの可能性で、その治療は 一定の割合で失敗する。

たとえ成功率99%の治療であっても、その治療を受ける患者さん、あるいはその治療を行う主治医にとって、「結果」と呼べるのは成功か失敗かのどちらか一方しかない。治療が失敗すれば、弾劾されるのは論文の作者ではなく、主治医だ。

論文どおりに行えば、成功率99%。それでも、その成功可能性がさらに0.1%でも向上するならば、主治医はどんなに姑息な手段も厭わない。

医療の業界で不確定要素を減らす手段、農業での農薬や化学肥料にあたるものというのは、たとえば 深夜だろうが明け方だろうが全身のCTスキャンを撮ってみたり、風邪を引いたぐらいの症状の患者さんに対して、世界中の細菌を殺しかねない広域抗生物質(そういうのに限って、効果的だけれど副作用は少なかったりする)を投与したりといったものだ。

  • CTを撮ると、医療資源の無駄遣いになる。
  • 広域抗生物質を使えば、耐性菌が増えるかもしれない。

医者がこうした「農薬」的な手段に手を出すと、世界のみんなが迷惑する。 だから、「正しい」治療を推進する先生方は滅多にCTを撮らないし、抗生物質はなるべく 「効きの悪い」ものを選択する。

正しい治療を推進する先生方、自分の身内にも同じ事をするのだろうか?もしそうなら尊敬する。 自分はいやだ。

子供が(いないけど)ひどく頭をぶつけたら、夜中であっても技師さんを拝み倒してCTぐらい撮るかもしれない。たとえその行為が予後を変えなくても、やはり不安の解消につながるかもしれない。

広域抗生物質。医者を長くやればやるほど「正しい」治療を行ったときの例外ケースで痛い思いをする。 どんな抗生物質治療のガイドラインも、結局は治療コストと、耐性菌発生のリスクと、抗生物質が「外れた」時のリスクとのバランスで推薦する薬を決めている。ガイドラインは何らかの妥協の産物で、人の生存確率に最適化しているわけではない。

医療の世界で「農薬」に相当する行為を行ったときにでてくる問題は、共有地の悲劇問題のそれに良く似ている。

ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、 その家 畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。 共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって 得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

ある医師が協定違反をすれば、結局は「みんな」が迷惑する。それでも、自分の目の前の患者さんについては、そうした協定違反はむしろメリットになる(かもしれない)。

不利益を受けるのは、常に自分以外の「みんな」と言う正体不明の集団。姿が見えないから、何が問題なのかが見えにくい。

それでもやっぱり、出来れば「正しい」治療をしたい。自分はそういう教育を受けてきた医者だし、 正しい治療というものには、やはり正しいなりのメリットといったものが、たしかに存在すると 一応信じてる。

避けられないリスクをリスクとして受け入れてもらえるものならば。

「全てお任せします」が通用した頃

医者がもっと偉ぶっていて、数か少なかった頃。

「先生に全てお任せします」は当たり前だった。結果責任を追及されることは少なく、 医師は安心して自分の信じる正しい治療を行えた。昔は良かった。

医者の少ない島の病院では、誰かが入院すると、近所の人が交代で泊り込む(数年前はそうだった。今は知らない)。医者も看護師も少ない島の病院。島全体の失業率の高さ。時間の空いている人がたくさんいないと出来ない芸当だけれど、島の病院というのは働きやすかった。

検温や簡単な記録は、泊り込んでいる人が取ってくれるし、患者さんに何か問題があれば、すぐに呼んでくれる。派遣されてきた研修医ふぜいであっても、何とか病院をまわしていけた。

今思うと、あれはどうしようもない医者でもそれなりに役立てるための、地元の人たちの自己防衛にもなっていたのだろうけれど、島の病院の穏やかな相互不信の関係というのは、医師と患者とのお互いが、結構幸せになれるヒントがあったような気がする。

道を外したのは、やはり医療者側だったのだろう。「患者は医師に由らしむべし。医療を知らしむべからず」をやって、ある時期突っ張りとおしてしまったから、あやしげな「医療評論家」の跋扈を許してしまい、お互いの信頼関係を潰してしまった。インフォームドコンセントという言葉、大っ嫌いなのだけれど、あれを医者側から切り出せていれば、その後はずいぶん違った展開になったように思う。

今からでも、舵の切りなおしというのは可能なのだろうか。ネットの力というのは、バラバラになってしまった2者をつなげる助けにはならないのだろうか。

明日もムンテラだ…。