冷えて縮んだ世界から医者はいなくなる

業界は冷える。冷えてどんどん縮む。世界全体が小さくなるから、今までのベクトルで苦労をしても、 その努力が今までどおりに報われる可能性は減る。努力という行為にすら「リスク」が課せられるなら、そのリスクの分は、もっと別の方向に生かしたい。

最近ずっとこんなことを考えている。

栄光と夢が膨らんだ60年前

終戦後から復興期にかけて、医療の業界は大きく成長した。佐久総合病院、沖縄中部病院の設立。 米軍に接収されていた聖路加病院の返還。現在まで続いている大きな市中病院は、だいたいこの頃 に誕生した。

この時代に病院長や部長クラスをやっていた医師は、現在でも怪物とか、妖怪とか言われて現役で頑張っている。日野原重明先生なんて、 昨年のCCT(カテ屋のお祭り)では98歳にしてカテ室に登場 だ。さすがにカテーテルは握らなかったけれど。

定年という概念のない医者の寿命は長い。自分の夢を失わなければ、それこそ90台になっても 病院は続けられる。実際に御年90になって、医院を継続している人を何人か知っている。

夢を持って病院を大きくし、医療という業界を引っ張ってきた人たちは、高齢でも「脂っこさ」を 失わない。下っ端をやっていると滅多に会うことは無いけれど、みんな元気だ。

夢で引っ張れた時代。病院は、何年経ってもその勢いが落ちない。優秀な人はこうした病院に 集まり、病院はますます大きくなっていく。

伝統的な市中病院が出来はじめた60年前から、安保闘争があった20年前ぐらいまでは、 夢を持ったリーダーが何人も現れた時代だ。徳洲会や民医連は、大体20年前に生まれた。 大学病院や、大きな市中病院に反対する立場で誕生した新しい組織もまた、 発足当初は病院長の勢いと夢だけで引っ張られ、大きくなった。

世界が固まった最近20年

「有名どころの」民間病院組織が出来上がったのが、いまから20年前。こうした病院組織の努力は 実り、大学をはじめとする大きな病院の多くは救急の患者を受けるようになった。

患者中心の医療」という言葉は当たり前のものとなり、EBMなどという言葉が一般化する頃 には、どの病院に入院しても、同じような医療サービスを受けられるようになった。

ここ最近の20年、研修医を受け入れるような大きな病院の総数は、そう大きな変化はしていない。

世界は膨張を止め、定常状態に入った。

リーダーの夢で病院を引っ張っていた時代。夢というのは査定不可能なものだった。何が一番 正しいのかなんて、誰も興味はないし、前に進むので精いっぱい。自分が今、世界の何番目 に立っているのかなんて、考えるだけでナンセンスだった。何しろ、世界はどんどん大きく なっていた。

大きさの変わらなくなった世界では、競争という概念が発生する。世界が有限になると、 リーダーの夢を追求するには、誰かの領土を取りに行かないといけない。戦争の始まりだ。

病院はその質を高め、競争を開始した。

症例を増やし、臨床研究を多くやり、患者サービスを充実し、優秀な研修システムを作り…。 頑張れば、きっと他の病院に勝てる

それまでは「勝つ」なんていう概念は無かった。

競争の結果、病院の中身は向上し、 患者さんにとっては健全な状態が長く続いた。日本の医療は安く良くなり、一時は「世界一」 などという呼び声さえもかかるようになった。

皮肉なことに、個々の病院組織が独自性を打ち出そうとして努力するほど、 お互いの病院の「優劣」というものが査定可能なものになる。

日赤の某病院のナンバー8なら、その「偉さ」は済世会の某病院のナンバー5に匹敵する。

努力に「競争」という概念が入ってくると、どうしても自分の立ち位置、競争相手の現在の場所というものが気になってくる。20年も経てば、こうした「換算式」はどうしたって出来てくる。現在では、インターネットでこうしたローカルルールの共有まで可能になっている。どの病院が「勝ち組み」で、どの病院が「負け組み」なのか。

世界が安定した時代というのは、当事者だって知りたくも無いこんな情報が、否応無しに耳に突っ込まれる時代だ。

誰だって負け犬認定されるのはいやだ。「勝ち負け」で世の中が判断されるようになると、究極的にはトップ一人を除けばみな負け犬だ。ネットの力は競争者のやる気を潰す。町のチャンピオンは国の10位、世界から見れば「負け犬」と認定されてしまい、頑張る努力は失われる。

成果主義が医療を崩壊させる

「自分の達成感」というものは、以下の式で求められる。

自己の達成度 = 「現在の自分の居場所」×「自分の収入

冗談ではないという人もいるかもしれない。それでも集団は、単純なものを好む。自分自身の価値観がどうであれ、世界の全ての人は、他人の好奇の目線からは逃れられない。世界の誰もがこうした「係数」で査定されるとき、自分の努力で変えやすいのは「収入」だ。

いろいろなところで「成果主義」の導入が始まっている。

日本の場合は、なんだか給料引き下げの方便みたいな使われ方をしているが、医者を長くやっていると「何で俺はこんなに働いているのに、他科に比べて給料安いんだ?」という思いは必ず経験する。たぶんどこの職場でもそうなんだろう。成果主義の導入に際して、昔の安保闘争みたいな暴動は起きなかった。たぶん誰もが、どこかで「査定」されるのを望んでいるんだ。

ところがお金による努力の報酬というのは、すぐに効果がなくなる。

第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、ある人が洋服店を 開いた。 すると、地元の子供達がいやがらせのために店の前で「出ていけ!出て行け!」と叫ぶようになった。 そこである日、店主は子供達に「出て行けと叫んだら10セントあげよう」と言う。大喜びした 子供達はますます「出て行け!」と叫ぶようになった。 ところが次の日に、「今日は5セントしかあげられない」と言い、さらに翌日「1セントが限界だ」と言った。すると、子供達は「あんまりだ」と言って叫ぶのをやめた。 (bpspecial ITマネジメントより引用

努力に対する報酬が継続されるなら、まだまだ成果主義がうまくいく可能性があるかもしれない。ところが医療という世界では、これ以上に「お金というパイ」が大きくなることはありえない。

医療費は国家予算だ。国にお金が無い以上、どうしたって上限がある。個人の努力に対する報酬を引き上げるには、別の医師の努力を低く査定しなくてはならない。医師が命を削って努力したところで、その報酬はせいぜい、ノーパンしゃぶしゃぶ屋の肉一枚といったところだ。

組織崩壊の4段階モデルが成り立つならば、医療という世界では、お金が求心力として有効な期間はきわめて短い。

現在、「有名な」病院の医師の給料というのは、安いものと相場が決まっている。大学病院の医師と、市中病院の医師との収入差は2倍は当たり前。「成果」に対する報酬を求めて、大病院にいる医師が市場に参入してくると、市中病院で働いていた医師の給料は減り、大病院で働いていた医師の給料は増える。

ならば、大病院で働いていた、優秀な医師はその技量が報われて満足か?絶対にそうはならない。

低収入に甘んじている大病院医師と、市中病院の医師の総数が同じで、その収入には2倍の較差がついていたとすると、「腕」に対する報酬が同じになったとき、大病院の医師の収入は1.5倍となり、市中病院の医師の収入は2/3になる。

ところが、大病院の医師は、「2倍」を期待して市場に打って出た。ところが、市場からの査定は期待の2/3。さらに、この値がこれ以上に増えることは今後は絶対にない。医師の総数は増える。さらに、専門性の高い医師というのは、往々にして競争相手が多い。競争は価格の引き下げにつながり、医師の満足度はますます下がる。

医療という世界は、「名誉」という求心力が失われ、お金の力が世界をひっばる段階へと足を踏み入れつつある。お金が医者を引っ張れる期間は非常に短く、大病院がその名声に求心力を見出されなくなったとき、医療の業界は、速やかに「余暇」の段階へと崩壊の階段を下る。

余暇が重視される縮みゆく世界

働いたところで、訴訟のリスクが増えるだけ。頑張っても、収入変わらないし。

こんな雰囲気が世界を包むと、医者の頭数がいくらいたところで、医者は全く足りなくなる。

マンパワーが2人必要な現場に5人の医者がいたとき、その対応は時代ごとに変わってくる。

  • 夢の時代には現場の大きさを5人分に拡張した。
  • お金の時代には、優秀な2人だけ残して、他の人は別の職場へと去った。
  • 余暇の時代には、各々の医師が2/5人分だけ働く。現場はいつまでも人が足りない。

収入の向上が目標にならなくなると、大事なのはいかに「短時間だけ」働くかになる。僻地医療をやる奴なんて、頭がおかしい医者扱いだ。志があれば僻地で頑張れるかもしれないが、365日ネットで「バカ代表」扱いされれば、どんな雑音でもいやになる。

医師は必然的に人の多い地域に集中し、そこでも人は足りなくなるだろう。

専門家は増える。この時代は誰もが専門家だ。心臓でも、血圧の専門家。脈拍の専門家。心筋の専門家。血管の専門家。専門性は、どんどん細かくなる。

全身を見る、そんなリスクの高い仕事をする奴なんて、誰もいなくなる。

さめちまった理由(ワケ)なんか・・さがせばいくらでもある 何年もかけてやっと組み上がった研修医をあっさりブローさせちまうダサい客 救急外来の使い方(ヘタ)に気づかず全て病院のせいだ 仕方ね―から主治医を代えても、結局ヨソにいってあそこの病院はヤブだといいやがる そーそォこーゆうのもあったナ・・ 8年前だ・・左MCAの脳梗塞、すぐにt-PA使って2週間で歩かせた

ヤマ: 覚えてます、よく回復しましたよね

ところが家族は満足しねえ あまりにも順調に回復しすぎて、あげくもっと入院させろといいやがった・・

ヤマ: 部長はあの時翌週予約でMRIをオーダーして・・

そォ、退院前に T2 high の画像を見せてやったョ そしたら家族は大よろこびだ 「その白点が消えるまで、もう2週間置いてもらえますね。」 笑うゼッ!結局なんにもかわっちゃいね―のにナ ・・でもやっぱり客のせいじゃないよナ・・ オレの心が・・少しずつ・・そして確実に・・病院から離れていったんだ 最後の最後はそれなんだ……

悲観的な予想は外れる

ところで、こうした悲観的な未来予想というやつは、たいていの場合大外れになる。

ローマクラブの「成長の限界」などがそうだ。経済学者や科学者は、今ある知識の中でしか未来を予想しない。時代が進歩すると、必ず何らかの技術の革新というものが、世界を変化させる。

科学者の予言する悲惨な未来像というのはたいてい外れ、むしろSF作家の描く未来のほうが、より真実に近いことなどザラにある。

医療の未来もそうだ。場末の医者が、この10年ぐらいを眺めていて、勝手に垂れ流している妄想にしかすぎない。何か大きな技術の革新があれば、たとえばDNAの注射一発で糖尿病が治るようになったとか、幹細胞を利用した人工臓器に画期的な進歩があったとか、そうしたものがこの10年ぐらいに出現すれば、こうした医療の悲惨な未来というのは消し飛ぶのかもしれない。

資本主義V2.0

医療の悲惨な未来という予想が部分的にでもあたるものなら、医療というのは「一生を賭ける仕事」ではなく、生活のためにやる部分と、趣味としてやる部分との2つの顔を持った職業へと変化するような気がする。

医者をやっていれば、どうしてもある種のリスクからは自由ではいられないし、相性の悪い患者さんにも笑顔で接しないといけない。そうした部分からは、お金をもらって、お金をいただいた分は働く。

一方、医者なんて、どうせ医者をやるしか脳の無い奴がほとんどだ。仕事の量が減った分は、「趣味で」医者をやる。例えば、自分の「友達」のために、その人の病気の「戦略」を一緒に相談してみる。お金は取らない。代わりに、責任は道義的な部分に止まる。それでも、知り合いや友達のためならば、人はタダでも必死になる。たぶんお金をもらう以上に必死になって、その人の病気のことを考えるだろう。

コンサルタントのように、少しばかりの報酬をもらってもいいかもしれない。それでも、ある程度の利潤は追求するけど、「利潤の最大化」は追求しない。 ボランティアで無償の貢献をするというと、聞こえはいいけど継続しないことが多い。 会社に限らず、ある程度の事業を回していくには、適切な利潤を得ることは必要だ。

利潤の最大化は、必ず不毛な競争を生み、結果として長続きしない。

Hackers and Painters資本主義V2.0といった考えかたには、10年ぐらい先の医師の生き方のモデルがあるような気がする。