児童百科事典という本があった

保育園(家のあった地域は6年保育だった)から小学校に上がるかどうかの頃、家に帰るといつも読んでいたのは百科事典だった。

児童百科事典というのは、当時は百科事典の編集と出版に命をかけていた平凡社が、1959年に出版した子供向けの百科事典だ。

地味な本だった。

自分が読んでいた、1970年代当時ですでに10年落ち。箱は粗末な茶色のボール紙、装丁こそ少々立派だったもの、カラー印刷やマルチメディアなど、まだまだ夢だった時代。子供の喜びそうな漫画のキャラクターなど一人も居らず、見た目は「大人向けの」百科事典そのもの。

百科事典と名前がついているぐらいだから、文章の量も多い。児童百科事典は、A4の百科事典サイズで、全24巻あった。全部並べると、1.5m近く。1冊1冊の本は重くて、ガキが持つには危ないぐらい。実際、本棚の高いところから本を抜こうとして、何度もけがをした。

この百科事典が画期的なのは、編纂した人たちが、この24巻を子供に本気で読ませようと考えていたところだ。

子供向けの本というのは、普通は親のために書かれる。子供が好むものなんて、大人にはわかりっこない。親にアピールすれば、事典は売れる。派手なカラー写真や、「教育的」な内容、わかりやすそうなキャラクターや、読みやすい大きな活字。お子様ランチだ。

児童百科事典は、本格的だった。内容はといえば、大人の百科事典そのもの。文学や科学、医学の知識、印象派の歴史から爆弾や火炎瓶の作り方まで、なんでも載っていた。小項目の百科事典だから、タイトルは全てアイウエオ順。ピカソの伝記の後に、ピクリン酸(爆弾の原料)の化学式が平気で記載される世界。

ところがこれが面白い。自分の興味のある無しにかかわらず、ランダムな知識がどんどん頭に詰め込まれる毎日。24巻、何回読んだか分からない。もう性格が歪む歪む。

自分がものを読めるようになった当時、この事典は出版されてからもう15年経っていた。内容が古すぎるということで、後年学研の児童百科事典を買ってもらったが、これがなぜか、どうしようもなくつまらなかった。

当時はガキだったから、文章のよしあしなんて、もちろん分からない。でもつまらない。見た目もきれいで、カラー写真満載の新しい事典は開かれることなく、「古いからもうやめなさい」といわれながらも、いつも「児童百科事典」を手にとっていたのを覚えている。

児童百科事典を編纂したのは、瀬田貞二という人だ。

児童文学の世界では有名な方で、「児童百科事典」の編集長を務めた後にフリーになり、「ホビットの冒険」「指輪物語」「ナルニア国ものがたり」など多数の児童文学を翻訳したり、また何冊もの児童小説を書いている。

この百科事典が作られていた頃、同じ平凡社の別のブースでは「世界大百科事典」という大人向けの百科事典を編集中で、当時母親がここに勤めていたそうだ。自分はこの頃、まだDNAにもなっていない。

児童百科事典を編纂していた人たちというのは、当時の出版社の中でも変わり者扱いされていたらしい。50も過ぎたおじさんばかり、肩書きも学歴も立派な人たちが、1日中シャボン玉を作ってみたり、竹を削って竹とんぼを作ってみたり、といったことを延々繰り返していたらしい。

編集部の誰かがシャボン玉を吹くと、みんなが集まって、子供の目線ではそれがどう見えるのかを観察する。で、その驚きや感動、大きなシャボン玉を作るコツといったものをまとめ、「セッケン」という小項目の文章を作る。

徹底して子供の目線から文章を書くというスタイルは、どこかディズニーランドを作ったときのコンセプトに似ている。当時の社内でも、「すごいことをやっている人たちがいる」という話はあったようで、後年自分が生まれたとき、母親は古本屋を回って、絶版になったこの事典を仕入れてきたのだそうだ。

児童百科事典は売れたらしい。出版された当時は百科事典ブームで、その中でも画期的な事典と評価されたらしいが、結局改定されることなく絶版になった。

この百科事典の編集長だった瀬田貞二本人も、刊行後しばらくして会社を去っている。

邪推するに、後年もっと「親御さん受け」する競合他社の百科事典を相手に、この事典をもう一度編纂しなおすだけの体力は、会社にも編集部にも残っていなかったのではないだろうか。百科事典を刊行するのに4縲鰀5年、他の会社の「子供向け」百科事典などは、もっとお手軽に出来て、しかもきれい。

インターネット時代、今ではこんな出版物の企画自体、絶対に通らないだろう。

出版という行為にものすごいマンパワーと時間を注ぎ込むのが許された時代。この事典の製作にまつわる話というのは、きっと面白いものがたくさんあるはずなのだが、これだけネットが広がっても、何もでてこない…。

現物は今でも実家にあるのだが、誰か当時の話、ご存知ありませんか?

現役で編集された方は、おそらく全員亡くなっているだろうけれど…。