水と油を混ぜる方法

水をかけると全てのものは変化する。

種は芽を出し、金属は沈んで錆びる。砂糖は溶けるし砂は泥になる。

粉をまとめるには、水を加えて「こねる」必要があるけれど、あまりにも性質の違うものを水でまとめると、収拾がつかなくなる。

チームは性質の違う粒子の集団

いろいろな分野の専門家が集まった組織というのは、いろいろな性質を持った粒子の集まりだ。小さな粒子がただ集まっただけでは、それは単なる粉の山でしかない。粉の山に、少量の水を加えてうまく「こねる」と、それは団子のように一つにまとまる。

ところが、水を入れすぎると、各々性質の違う粒子は、その「専門性」を発揮しはじめる。水に浮く奴。沈む奴。溶けてなくなる奴。水は、粉の山をまとめる反面、粒子一つ一つの違いを際立たせる。水を入れすぎた粉の山は、ついには水の力で分離してしまう。

チームに水を加えるという行為は、予算を増やすとか、締め切りを延ばすとか、そういったもの。構成員各々の持ち味を生かす状況を与えるということだ。

ところが、特定の専門家が活躍しやすい条件というのは、組織の和を乱す原因にもなる。集められた専門家全員が「足りていない」時、不足しているなりにチームはまとまる。そこに「水」を加えれば、粒子である一人一人の自由度は大きくなる。そのとき、組織の生産性は上がるだろうか?

自由度の大きくなったチームというのは、その分結束が弱くなる。専門家がその専門性を発揮できる条件が整うほど、お互いのわずかな差異が浮き上がり、その維持は難しくなる。集団は瓦解し、目的は達せられない。

成功した映画やプロジェクトは、大抵の場合は厳しい予算やスケジュールの制約のなかから生れる。

低予算で驚異的なヒットを飛ばした映画監督が、莫大な予算を得て作った次回作は、しばしばどうしようもないものになる。その原因というのは、たぶん「水の与えすぎ」によるチームの崩壊だ。もちろん、その莫大な予算を消化しきって名作を作る監督もいる(2001年を撮ったキューブリックとか…)。それでも、莫大な量の「水」を有効に使い切って組織をまとめる、損な腕力のあるリーダーはまれだ。

たとえ「水を入れすぎた」環境であっても、その水がぐらぐら沸き立つ熱湯であれば、かき混ぜられて均一に見える。これが冷水ならば、その温度に応じて粒子は析出し、きれいに分離してしまう。条件の厳しい環境、例えばプロジェクトの到達目標が非常に高いとか、失敗が絶対に許されない状況などでは、専門性の違うもの同士がその個性を発揮しても、チームはけっこううまくまとまる。

性質の違う人たちを集めてチームを作るときは、ある程度予算が厳しかったり、あるいは達成しなくてはならない目標が厳しいほど、人はまとまり、プロジェクトは成功する。

いろいろな分野の専門家集団である病院組織などは、全ての医者が条件の悪さにブーブー言いながら働いているときが、いちばんまとまっているかもしれない。

専門技能が優れているという言葉には、2種類の意味がある。

  • 絶対的な技能が高い人
  • 与えられた条件の中から、自分に出来る最適解を提出できる人

両方とも兼ね備えた専門家もいるが、どちらか一方を持っている人は結構いる。

どちらの技能がより現場から要求されているのか、もちろん状況により異なるが、より「潰し」が利くのは後者の能力だ。こうした能力を持った専門家というのは、チームで仕事をするには欠かせないだろう。

水と油を混ぜるには

水と油とは、決して混ざらないもののたとえとしてよく使われる。

この2種類を何も使わないで「混ぜる」には、両者を凍らせて、分子の可動性を無くして、「粉」にしてしまい、物量的に混ぜてしまえばよい。出来上がるのは冷たい粉の山であり、どの粉が水で、どの粉が油なんだかも良く分からない。だが、とりあえずは水と油は混ざっている。

温度が高くなってくると、この粉の山は溶け始める。分子は動き始め、水は水の、油は油の「専門性」を主張し始め、ついには分離してしまう。

医療の現場で水と油といえば、医者と患者との関係だ。

医療の予算もマンパワーも冷え切っていた頃、医者と患者という2種類の「粒子」は、雑多な粉の山のようなものだった。風でも吹けば飛んでしまうような山ではあっても、粉山はそれなりにまとまっていた。

景気が良くなり、暖かくなって粉の山が溶け始めると、お互いの粒子はその「専門性」を発揮しはじめる。

  • 医者は学問としての医療の専門性を追求しだした
  • 患者は顧客としてサービスの向上を主張しだした

もともと性質の違ったものどうし、条件が整うほどお互いの差異が浮き上がり、今では完全に2層に分離している。

一度分離してしまったものを、再び混合する方法はあるのだろうか?

もう一度凍らせるのは、一番予算がかからないけれどたぶん無理だ。一度暖かい環境を知ってしまった粒子、「液体として振舞う**」自由さを知ってしまった粒子は、もう絶対に元には戻りたくないだろう。

水と油とを混合するのによくやられているのが、「乳化剤」を投入する方法だ。例えばマヨネーズは、卵という乳化剤を投入して水と油を混ぜている。世の中で売られている化粧品も同様。界面活性剤や乳化剤の力で、2種類の物質をまとめている。

医療の業界でこれをやっているのが、アメリカではやってきている「家庭医」や「ホスピタリスト」だ。

家庭医は未来の医師像か

彼らは専門医と患者をつなぐ救世主なのか?

そうは思わない。家庭医や病棟医は絶対滅ぶ。googleに取って代わられる。患者と専門医とをつなぐことだけが家庭医の仕事ならば、技術さえ進歩すれば人間がやらなくても機械がやってくれる。

医者の仕事は、あくまでも患者を治すことだ。他の医者に紹介状を書くことじゃない。

コンテンツとコミュニケーション、コンテンツの価値の低下が言われて久しいけれど、人と人とをつなぐという仕事は、将来的には機械で代用できる仕事だ。それが1年後なのか、100年後なのかはわからないけれど。

イギリスや中国は、このあたりを割り切って考えているふしがある。イギリスではNP(ナーシングプラクティショナー)、中国では「裸足の医者」(もはや死語)という準医師の制度があり、本当の医者がやる仕事、特に「家庭医」的な仕事を補間しようとしている。結構いい制度にも思えるのだが、化粧品の界面活性剤一つでこれほど騒ぐ日本では、実現はちょっと難しい。

アメリカの家庭医は、ちょうど「映画監督」のような立場を目指しているように思える。いろいろな分野の専門家に声をかけ、人を集めるところまでは将来機械で置換可能としても、監督抜きでの映画製作は考えられない。しかし、最近までの日本の医療というのは、素人が監督抜きでホームビデオを撮っていたような世界だ。そこにいきなり、ハリウッドで大作を撮れるような「監督」が大挙乗り込んできても、それこそ予算がいくらあっても足りないだろう。

「何でも診る家庭医」を目指すアメリカでも、最近は「紹介状専用ワープロ」と化している家庭医も増えてきたという。訴訟が深刻になり、どんな些細なことであっても、自分の責任で診察を終了することが出来なくなった。患者を自分で診察しても、最後は専門家への紹介状を持たせて帰す。

分離した液体をまとめるのは、いずれにしても楽じゃない。

趣味で医者をやる時代

紛体を十分細かくして、下から空気を吹き込むと、その挙動は液体と同様になる

循環流動層というらしい。セメントの原料の攪拌に使われている方法だが、これをやると、水を加えなくても、粉体があたかも液体のように振舞うという。

これを上手くやれれば、低予算と十分なアクセシビリティの両立が可能になるような気がする。

どんな構図になるのかは読めないけれど、「粒子を細かくする」工程にあたるのはネットワークの進化、医師一人一人の個人事業主化、「空気」に当たるのは、医者がやるボランティアだろうと考えている。

たぶん将来、医者が余暇の時間を利用して、「医師のボランティア」を趣味にする時代が来る気がする。ちょうど、プログラマーの人たちが、仕事とは別にフリーウェアを作るように。

根拠は無いけれど。