専門性のジレンマ

専門医栄光の時代

どうせ医者にかかるなら、ちゃんとした専門医にかかりたい。現在ほとんどの人がこう考えている。 医者も患者も、専門医を目指す時代だ。

誰もが専門家を目指す。卒業当初の医者は、誰もが「一般医」という名の、 何も出来ない人間に過ぎない。誰もが「何者か」になりたい。ただの人では終わりたくない。

目標とするのは専門医だ。専門医になれれば、自分は何かの分野の 第一人者になれる。専門医になれれば、きっと幸せになれる。

医師は何かの分野の専門家になるために自分を磨き、修行する。 専門医になるのは大変だ。莫大な勉強量、症例の多い、忙しい病院でのハードなトレーニング。 専門医は、長い修行時代の代償として、周囲からの名誉と賞賛とを得る。

専門医の時代だ。一般内科に価値を見出す患者は少ない。

適当な治療など誰も望まない時代。患者さんは、その人が熱心であればあるほど、 自分の病気についていろいろ調べる。いい解答を探すには、より広い世界を探し回らないと いけない。インターネットは、それこそ世界中から最高の医者を探してくれる。

病気に対する最高の解答は、つねに専門医への受診だ。

専門医は「強い」のか

一般内科医と専門医、生態系ではネズミと鷹のような関係だ。

一般内科が狭い地面の片隅でウジウジ生き延びているのを尻目に、専門家はより高いところから、 より広い世界を見下ろし君臨する。ネズミと鷹が勝負したら、結果は見えている。ネズミは常に、 鷹のエサだ。

鷹の目から見れば、世界は広大で不変のものだ。少々林が無くなろうが、新しいビルが増えようが、 空から見ればわずかな変化。戦争当時じゃあるまいし、都市が一晩で焼け野原になるような変化は、 そうめったにおきるものじゃない。

一方、ネズミにとっての世界というのは、狭くて変化の激しい場所だ。昨日まで台所の隅に 転がっていたチーズが無くなれば、世界のエサ事情は一変する。ネズミは明日を信じていない。 今目の前にある食べ物が、明日そこに残っていると信じるネズミは、それのなくなった世界に 絶望して、飢えて死ぬ。

世間では、ネズミはどんどん増えている。一方、鷹は絶滅が心配されている。

世界は本当に広いのか

生物は、自分が認識した「世界の大きさ」に最適化された生存戦略を取る。 どの動物の世界認識が正しいのか、生物ごとの共通の「ものさし無し」にそれを論じるのはナンセンス だけれど、答えは出る。

生き延びた生き物の世界認識が、生物学的に一番正解に近い。

恐竜時代、世界を席巻したのは恐竜のような大きくて強い生き物だった。世界は何万年単位で 大きな変化がなく穏やかで、「世界は大きい」という認識にあわせた生存戦略が正解だった。

恐竜が絶滅して、大型動物の保護が叫ばれている現在、世界はどんどん「小さく」なっている。

世界が小さいという場合、経済的に不況になっているという意味と、いわゆる「世間は狭い」と 実感しやすくなっているという意味と、両方に取れる。生態系から見た場合、この両者の意味は 同じだ。

世界というのは、小さくなるほど専門特化した種が生き延びにくくなる。世界のエサの総量が 減少する、情報の伝達が早くなって、特殊化した種が特殊でいられる期間が減少する。 いずれにしても、世界は「小さく」なり、専門特化した種には生きにくい状態になる。

専門医というのは、「大きい世界」に最適化された優先種だ。

専門医が相手にする患者さんは、特別な病気、重篤な病気の人ばかりだ。患者さんの特殊性が 高くなるほど、専門医のありがたみは増す。 一方、医師の専門性が増せば増すほど、対象となる患者さんの人口あたりの患者さんの数は減る。

その代わり、専門医が相手にする世界は広大だ。「医療」という世界が十分に広くて豊かなら、広い世界から、患者さんはどんどん集まる。

専門医は増えている。まだまだ専門医の栄光の時代は続く。 世界は十分に広くて、豊かだ。本当だろうか。

世界が縮むと強い個体は不利になる

生物の多様性というのは、世界の生み出すエネルギーにより影響を受ける。生産性が非常に高い環境では、エネルギーの供給があまりにも潤沢なため、環境の不均一性が失われる。

局所の環境がいくら変わろうと、世界のどの部分もエサの量は豊富。競争の条件は単純になる。「地の利」の影響は少なくなり、競争に勝つのは常に強い個体だ。大きな世界では、少数の優先種のみが生存できる。専門家の時代だ。

一方で、世界の生み出すエネルギーの量というのは、その生産と消費のスピードにより影響を受ける。

  • 生産量が減少する
  • 消費のスピードが速まる

どちらかがおこれば、世界のエネルギーの量は減る。世界の局所ごとに、そのエネルギーの大きな場所、小さな場所の不均一性が増してくると、場所場所で生存競争のルールは変わってくる。

生き延びるための競争は激しくなる。生存競争は、個体としての性能以外に、「その場所」にいかに適応しているか、地の利をいかに生かせるかという要素が効いてくる。 大きな世界に特化した生き物は、その地位を維持するのが難しくなる。

トンネルの先に光はあるのか

専門医になるためには、長い修行が必要になる。それでも、現在はまだ、 「長い修行の後には専門家として活躍できる」ということが、ある程度は保証されている。

世界は変わらない、「大きな世界」はいつまでも続くという保証がないと、 誰も専門家への道なんか怖くて歩めない。専門医の繁栄が存続するには、 環境の安定性というものは欠かせない。

現在はインターネットの時代。クリック一つで世界中から専門医を検索できる時代だ。

世界は大きく不変なのか?多分逆だ。経済的には、現在は過去以上に繁栄している。 ところが、世界の流れはますます速くなっている。大量に生み出される世界のエネルギーは 一瞬で消費される。世界はますます小さく、不均一な方向に向かっている。

明日の世界が今日と同じだなんて、今では誰も信じていない。 ましてや、数年の厳しい修行の後にも、その技能が確実に役に立つなど、信じているのは 医者ぐらいだ。

変化する世界を前提にすると、「専門化する」という行為は危険なものだ。

専門家は、大きな病院にいて、他の誰もが知らない知識を操り、特殊な機械を操作して、 一般内科には真似の出来ない奇跡を起こす。

ところが、その専門性が特定の機械依存、施設依存の専門医というのは、 環境全体の生産性が低くなってきて、環境の多様性が増してくると、 その専門性がかえって不利に働く。

世界に十分なエネルギーがあるとき、専門性を持った医師は大きな病院からのオファーが殺到する。 その人の専門性を最大限に発揮できるよう、病院側も努力する。高価な機械が搬入され、 そこには多くの患者さんが集まる。

ところが、世界が広くない場合、世界の生産性がそれほど高くない場合、専門家を招くということは、 病院にとってはリスクの高い決断になる。自分の病院にわざわざ専門家を招かなくても、 少し離れたところに同じ施設がある。その人が来て、本当に収益が増えるのか、その人の 技能は、何年経っても「専門的」でありつづけるのか、小さくなった世界では、誰も予想できない。

同じ専門家でも、トッププレーヤーは、どんな時代になっても最強でありつづける。 世界の大きさの影響を受けるのは、2番手以降だ。

世界が小さくなってくると、トッププレーヤー以外は、ナンバー2から駆け出しの専門医まで、 同じ条件での競争を強いられる。同じ専門家同士、売りにする技能は同じ。専門家を迎えられる病院が 少なくなってくると、そこには競争が生じる。腕で勝てない医師は、当然「価格の安さ」を売りに する。専門家同士の競争は、しばしば価格競争の悪循環に陥る。

もちろん、「中途半端な何でも屋」の給料というのはもともと安い。それでも、自分に投資した時間が 少なければ、長い目で見た総収入、自分の生活に対する満足度みたいなものは、そこそこ高い。

価格競争に陥った専門医は悲惨だ。長い修行時代、ひどい条件を我慢して、その先の栄光を夢見て、 待っていたのは安売り競争。もともと専門医を志す人の「幸せのハードル」は高い。 下から見れば十分とも思える条件でも、専門医は「負け」と感じるかもしれない。

専門技能は消費される

それでも、何の技能も持っていないよりは、何かの専門性を持っていたほうが、 自分にとっての「売り」が増えるかもしれない。とくに、その専門技能が人気があって、 患者さんも多いならば。

ところが、小さな世界では、すばらしい技能というのはありがたがられず、消費される。

ある技能に「価値がある」と認められれば、そこにはたちまち競合者が参入する。 競争は激化し、唯一の技術は消費され、「改良」され、その世界には 「第一人者」が乱立する。

世界が大きかった頃、コミュニケーションのスピードが今ほど早くなかった頃、 新しい技能を学ぶには時間がかかり、それを知っていることはその人にとっての「売り」になり得た。

例えばお産の鉗子分娩。鉗子を使ってお産を介助する技術は、ヨーロッパのある産科医一族の 秘中の秘だった。この技術を知っているというだけで、この一族は2世代に渡り、その地域の産科 の権威者でいられた。今では、新しい技術が新しくいられるのは、よくもって3日といったところだ。

技術は、それが技術である以上、伝達可能でコピーが可能になる。そのコピーはあるいは 劣化コピー海賊版なのかもしれない。それでも、患者さんからは、何がオリジナルで、 何が優れているのかなんて、絶対わからない。

専門技術でなくても同じだ。医者同士だって、科が違えばどの医師が「優れて」いるのか、 よほど親しくならなければ分からない。

よい専門技術は、必ず消費され、いつかは「専門」でなくなる。専門家が専門家でいられる期間は、 近年ますます短くなっている。

最後は本人の度量の問題

それでも、専門医というのは医者という世界を代表する人たちだ。なんだかんだ言っても、 やはり専門家というのはかっこいい。学会で皆の尊敬を集めるのは、いつだって、何かの分野の 専門家だ。

専門家が専門家でいられる期間は短く、またその競争は激しい。

専門医は、その専門分化が進めば進むほど、その人の幸福のハードルは高くなり、一方でその競争は激しく、競争から去るときの選択の幅はますます狭くなる。

医療の世界というパイは大きくなっているのか、あるいは縮んでいるのか、本当のところは分からない。

大きなスケールでの世界の動きというのは、誰にも予想できない。たとえば地球の温暖化にしても、ある学者は、たかだかここ数千年の話だと一笑に付すし、一方では「地球はこのまま暖まる」と深刻に受け止める意見もある。地球が暖まるのか冷めるのか、まだ分からない。

世界の趨勢というのは、短期的な予想はついても、長期的な動きについては情報が少なすぎて分からない。また、どんな微細な変化も、長期的に多大な影響を与える可能性があり、話をややこしくする。

それでも世界は小さくなると思う。いちどできた人のつながりは、必ず世界を小さくする。弱い繋がりひとつできただけで、世界の大きさというのは非常な影響を受けるのだから。コミュニケーションの技術が発達するにつれ、世界はどんどん小さくなっているように見える。

専門医を目指すということは、自分が最適化する世界観を「大きいもの」だと設定することだ。 自分が活躍するにふさわしい世界を、どこまで大きいと認識できるのか、この大きさというのが、 要はその人の人間の大きさなのだと思う。

自分は小さな世界への最適化を志す。