知識の渋滞を抜け出すために

知識習得の高速道路化という現象

インターネットの普及や、安価に使える論文データベースの普及に伴い、他の人の知識の成果物の参照が、極めて容易になった。

他の人の技術を自分の参考にするのが容易な業界、とくにプログラマーの業界では、このインターネットの普及により、学習の高速道路化という現象がおきている。

インターネットを経由すれば、他人のコードを簡単に読むことができます。参考にすべきコードはいくらでもあり、その開発者が海の向こうにいようと世界の裏側にいようとわずか数秒でアクセスすることができます。 最高レベルのコードを参考にコードを書けば、自然と最高レベルに近づくのは当然のこと。情報へのアクセスに実質的な限界がないネットの世界では、よりクオリティの高いものがすぐ近くに存在するかもしれないという可能性が常に存在し、それがより高いクオリティを追及するモチベーションとなり得ます。 一方、ネットが普及する以前の環境においては、他人のソースコードを参照する機会などはなかなか与えられず、与えられたとしてもそれがどの程度のレベルなのかどうかを知る術もありません。他を比較対照とするのではなく、過去の自分を比較対照とし成長をしていかなければなりません。その両者の成長スピードに圧倒的な差が生まれるのは当然のことかもしれません。 梅田望夫ネット時代のエンジニアの価値

医師の業界というのは、「手が動かないと仕事にならない」という部分では、まだまだ高速道路化の恩恵というのは十分には発揮されていない。それでも、知識の習得という部分では、高速道路がだいぶ整備されてきている。大学などでは、医局の机に居ながらにして、世界中のほとんどの雑誌にアクセスできる。図書館を踏み台にしていけば、その雑誌の全テキストを参照することも容易。以前では考えられないぐらいに、必要な情報へのアクセスは簡単になってきている。

高速道路の先の渋滞

将棋の羽生名人が、以前「インターネットの普及によって、将棋の世界の何がいちばん変わったか」というインタビューに答え、こう答えたという。

「将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということだと思います。 でも、その高速道路を走り切ったところで大渋滞が起きています」

現在は、将棋が強くなるための情報というのはネット上にあふれており、その気になれば、誰でもプロ将棋士の入門者ぐらい(アマチュア最強クラス)にはなれるのだとか。以前なら、プロになるまでの道は徒歩で歩いていくしかなかったものが、今ではその入り口までは高速道路がひかれている状態。ところが、そこから次の一歩を踏み出すためにはどうすればいいのか、そこの部分の正解が分からず、大渋滞になっているのだという。

高速道路の出口から抜け出るのは難しい。後ろからも高速道路を駆け抜けてくる連中が皆どんどん追いついてくるから、自然と大渋滞が起きる。最も効率のよい勉強の仕方、しかも同質の勉強の仕方で、皆が高速道路をひた走ってくる。結果として、その一群は、確かに一つ前の世代の並のプロは追い抜いてしまう勢いなのだが、そうやって皆で到達したところ、一定のレベルのところで大渋滞が起きている。

高速道路がひかれる前の病院

ほんの10年程前まで、新しい知識というものは、上級生から学ぶしかなかった。

まだインターネットもろくに整備されていない時代。文献検索などもちろん出来るわけもなく、なにか調べ物をしようと思ったら、図書館に出向いて医学中央雑誌のデータベースをあたるしかなかった。

今度やる手術を教科書で調べておこうなどと思っても、まずAmazonがない。医学書を売っているような大きな本屋は当時近くになく、本を買おうと思ったら、医学書の行商の本屋さんに連絡を取って、本を持ってきてもらう。

どんな本がいい内容なのか、世間で評判のいい参考書は何なのか。ネットの掲示板がない時代は、すべて先輩からの口伝で教科書を選ぶしかなかった。今でこそ売れている「ワシントンマニュアル」なども、当時はまだまだ世間ではマイナーな教科書だった。

医者になるにはどんな情報が必要で、それをどうやって調べればいいのか。当時の答えは、「とにかく上級生の知識と業とを盗んで、自分のものにする」のみ。日本の研修医の誰もがそれをやっていた。

臨床研修の高速道路化と知識習得の渋滞

今は違う。インターネットを見れば、何が一番定評のある教科書なのか、すぐ分かる。教科書を買うまでもなく、今ではネット上にいろいろな教科書が無料で公開されている。自分がこんなものをはじめた頃は、まだそんなに多くの情報はなかったけれど、いまではずっと優れた情報が、いくらでも簡単に手に入る。

手技を身につける必要はあるけれど、知識の習得のスピードについては、現在の研修医は、10年前の我々の世代に比べて格段に速くなれる条件がそろっている。

一方で、「最近の研修医は覇気がない」という声は、相変わらず聞かれる。自分もいつもそう言っている。学生の頃からインターネットにアクセスできるのが当たり前の世代。知識の習得スピードは、自分達の頃とは比較にならないぐらい、すばやい人たち。どんな化け物がる来るのだろうと、数年前までは戦々恐々としていたが、もう慣れた。

何年経っても、どんな便利なツールが出現しても、新人はやはり新人のまま。みんな新人研修医のレベルで足踏みして、そこを飛び出して、中堅層に突っ込んでくる奴がなかなかいない。

高速道路の先の渋滞現象どころか、新人レベルから次の一歩を踏み出す部分で、すでに研修医に「渋滞」がおきている。

医者の仕事なんて、結局のところは手が動かないと話にならない。現在は、なまじ調べ物が簡単に出来るようになったものだから、「先輩から盗む」なんていう、面倒な技術は廃れてしまった。ところが、病院で実際に役に立つ知識を得るには、この技術こそが大事で、そのノウハウを失った研修医は入り口のところで足踏みをしてしまう。

この渋滞現象から抜け出すには、どうすればいいのだろうか。

開発者の棋力がプロ並みだからといって、プロ並みの強さの将棋プログラムが作れるわけではない。その大きな理由は2つある。1つには、コンピュータ上のプログラムとして表現できる知識がそれほどリッチではないということである。もう1つの理由は、量が質に直接結びつくという性質である。 重要なのは理由の一つ目である。この部分の理論的研究にブレイクスルーが出なければ、「高速道路を抜けたあとの渋滞」くらいのところまではいけるかもしれないが、将棋プログラムがトッププロと雌雄を決するほどの存在になることはできないのではないか。 My Life Between Silicon Valley and Japanより引用

コンピュータプログラムの世界でも、同じようなことがおきている。医師が相手にしているのは、コンピュータープログラムではなく人間だ。初心者同然の人間を、プロに仕立て上げるノウハウについては、医療業界にはそこそこのノウハウがある。

渋滞を抜け出す方法

高速道路を走ることを知っている新人は、言いかたを変えれば自分の足で歩くことを知らない。

ネットでクリック一つで情報を集めることは得意でも、一方で湿っぽい人間関係の中から、自分にとって有益な情報を取り出す知恵、他人の知識や技量を「盗む」やり方については、あまり経験がない。

渋滞を抜け出すには、高速道路を降りたらすぐに、自分の足で歩き出すしかない。自分の足で効率よく歩くための方法は、高速道路が引かれる前に、そこを歩いてきた人たちの知恵というものが参考になるかもしれない。

知識習得の3段階

  • 手順を理解するのではなく、暗記する
  • 手技のリズムを把握する
  • リスクの回避と、あえてリスクをとる場所を理解する

まずは理解でなく暗記から

手術や手技を覚える場合、大事なのは手順を理解することではなく、手順を覚えるということだ。

覚えるというのは、文字通り暗記する。例えば手術の手順などでは、手術の参考書に書いてある切開の順番、そこで使う道具の名前、その道具で切ったり分けたりする組織の名前を、すべて暗唱できるようにする。理解しようと思ってはいけない。ただただ暗記する

暗記というのは単なる労働。理解するというのは知的な作業。研修医は、手術前日などに手術書を読んで、手術の手順を「理解」しようと思うが、これは間違いだ。やったこともないものを、読んで理解できるわけがない。大事なのは暗記することだ。手術の手順を暗記することで、実際の手術を見たときに、効率よく「理解」ができる。

研修医は、理解を優先しようとして失敗する。大昔、手技は体で覚えろと教わった。

まず体験=>ひたすら体験=>そのうなんとなく理解=>手順を体で覚える

これでは、患者さんの命がいくつあっても足りない。理解のほうが暗記に優先するという考え方では、理解に至るまでの道程が、長くかかりすぎる。

これに対して、暗記を優先して、それから体験させるという考え方は、研修医の頭の中に「理解のための概念ツール」を作ることを第一の目標にする。全ての手技を丸暗記する必要はなく、実際暗記が必要なのは、手術なら最初の3つぐらい。あとは、応用が利くようになる。

まず手順の暗記=>体験=>概念ツールを形成=>次の体験がすばやく理解できる

理解のための概念ツールとは何か

過去に天才といわれている数学者の計算能力は高い。これについて、以下のようなことが考えられているのだそうだ。

基礎的な計算能力については、脳には生まれつきビルトインされた専用回路がいくつもある。しかし、数学的天才はこの数のモジュールの性能が高いから、天才であるというわけではない。先天的な数学能力というよりも、後天的に身につけた「概念ツール」とでも言うべきものを持っているため、計算能力が高くなったのだという。

  • 計算の天才マーティン・ガードナーは777の二乗を計算するとき、まず777に23を足して計算しやすい800にした。彼は100までの二乗ならば答えを暗記していたので23の二乗は529だとすぐに分かった。 そこで、(777+23)×(777-23)+529=(800×754)+529 を計算し、603729という答えを瞬時に計算した。

  • 累乗計算の世界記録保持者ウィム・クラインは100桁の数の13乗を2分以下で行うことができるという。彼は150までの整数の対数を丸暗記してこの計算に用いている。

  • 伝説のインドの天才数学者ラマヌジャンは、貧乏で進学できなかった子供時代、一人で分厚い数学の辞典「純粋数学および応用数学における基本結果概要」にでてくる5000の公式、方程式を丸暗記していた。

膨大な量の答えの暗記、計算の分割方法の知識は、数学者の計算速度を飛躍的に高める文化概念ツールとして機能している。日本の珠算の上級者は暗算のときに頭の中でソロバンを動かすらしいが、これもツールの例といえる。 Passion For The Future: なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのか

数学の天才達と、普通の人との間には、生物学的な隔たりは、それほど大きくはない。一方、数学の概念ツールを持っている人と、そうでない人との差は歴然としてしまう。

「手術書を丸暗記する」という行為は、実際の手術を理解していく上で、実に有効に機能する。

現在やっているのかどうかは分からないが、自分たちが研修を受けた病院では、「シャドーオペ」という練習があった。何か手術の術者をやる場合、部長の前でシャドーオペが出来ないと、メスを握らせてもらえない。

これは一種の面接試験なのだが、部長と自分、2人が向かい合った状態で座り、「はじめてください」の部長の声で、研修医が手術の手順を暗誦する。

患者は虫垂炎の患者です。(腰椎麻酔後)皮膚をイソジンで消毒後、アルコール綿球で脱色。その後ドレープをかけます。手術はMcBuney切開で行います。まず右手に20番ナイフを持ち、臍下部右側より正中方向に向かって4cm皮膚を切開。その後筋層をケリーで分け(このあたり忘れた…)、腹膜に到達します。腹膜はミュークリッツ鉗子で左右を挙上後、腹膜内に腸管がないことを確認してから11番ナイフで切開、腹膜に筋鈎を入れ、術野を展開します……(以下略)。

……この後ピンセットを腹腔内に入れてあたりをつけ、大腸のテニアを引っ張って、虫垂に達する。さらに虫垂を切離して、最終的に閉復するまで大体15分、何も見ないで暗誦しながら、手は手術をする「振り」をする。

実際の「本番」では、前立ちの先生からの「あれ切って、ここを結紮して」という指示に従えば、手術は勉強してなくても出来る。前もってシャドーをやらされても、最初のうちは指示がないと何も出来ないのは同じ。

暗記をして変わってくるのは、、2回目以降の手術のときだ。術者の慣れの速さ、そして助手として全く違った手術に入ったときにも、不思議と手が動くようになる。

虫垂炎や開腹胆摘、ヘルニアといった短い手術をいくつか、シャドーをやらされた後に執刀すると、今度は「血管の結紮」とか、「腹壁の切開」とか、「肝臓の剥離」といった一般的な手術の手順が分かってくる。そのときにどんな道具を、どの順番で出せばやりやすいのか、何に気を配らなくてはならないのかといったことが、頭の中にモジュール化されて格納される。これが医師の概念ツールと呼ぶべきものになる。

一度こうなると、他の手術にも体が反応するようになる。上司の助手として手術に入っても、「お前、気が利くな」と誉められることが多くなり、結果としてより多くの経験が手に入る。

いくら手術書を一生懸命読んでも、それを理解しようとしてはダメだ。音声化して覚えていない記憶は、現場に入ると飛んでしまう。結局、手術室で1から理解しなおさなくてはならなくなり、貴重な現場体験の機会を無駄にしてしまう。

とにかく暗記し、頭の中に手技や手術のスタートからゴールまでの道順を叩き込む。そのうえで、体験を通じて理解する。これが第一段階。

手技のリズムを理解する

手技の手順をマスターしたら、今度は手技を「うまく見せるように」努力する。

手技の上手下手は、見るだけで結構分かる。だらだらとした手技は、端から見ていて上手く見えない。急いでばかりの手技もまた、イライラしているように見えるだけで決して上手には見えない。

手技にはリズムがある。早くやってもいいところはすばやく、慎重にやらなくてはならないところはゆっくりと。動きのメリハリをつけると、下手な手技でも上手に見える。

上手に見える手技と、上手な手技というのは本質的には同じものだ。

急ぐところはどこなのか、ゆっくりやるところはどこなのか。手技のリズムを見つけるということは、手技の手順を覚えた後の次の段階だ。

研修医が手術を理解するということは、幅5cmぐらいの細い道を歩くようなものだ。

同じ細い道でも、転んでも安全な場所、落ちたら大怪我をするような危ないところ、離れたところから見れば場所によって変化に富んでいるのがわかる。ところが、手術をはじめたばかりの研修医は、最初は足元の細い道に集中するのがやっとだ。安全な場所だろうが、危険な場所だろうが、平坦な道のようにしか歩けない。

こうした研修医は、慣れた人から見ると危なっかしい。危険な場所なのに、なぜかお気楽に歩いているように見えたり、逆に安全なところなのに、やたらとおっかなびっくり歩いて見えたり。研修医は、単に目の前の道から足を外さないのに必死なだけだ。自分の居る場所が「どんな」所なのかなんて、まだ想像もつかない。

だんだんと歩くのに慣れてくると、安全なところはすたすた歩けるようになり、危険なところは、そこが危険な場所だったことにはじめて気がつく。こうしたことに気がついた研修医の手技には、リズムが生じる。同じリズム、同じ危機感を共有してくれる人と手技をやると、教えるほうも気分がいい。

一方、リズムのない初心者、リズムをつけないで、ただただ足を早くすることだけに努力する研修医はその努力の仕方を間違っている。どこが危ないのか分からないから、危ないところでも突っ走る。上司の顔は真っ青になる。

大げさなリズムをつけた手技は、傍目にはなんとなく「謙虚さ」が欠けているように見える。リズムが平坦で、なおかつ急ごうとする研修医はたいていまじめで、何とか上級生に追いつこうというモチベーションは高いのだが、やはり何か間違っている。

上手な人の手技を見ていると、その術者の思考が変わったときにリズムが変わるのがわかる。

例えばPTCA中に、上手な人が「この病変は固い」と思うと、そのときからワイヤー操作のリズムが全く変わる。最初は何かを探るような、ゆっくりとした動きであったのが、次の瞬間から病変をつつきまわすような、試行錯誤を高頻度で繰り返すような動きに変わる。

こういう動きをいきなり真似しても怒られるだけなのだが、上手な人のリズムをみて、その裏にある考え方を想像する練習をすると、手技が上手に見えるようになる。そのうち本当に上手になるかもしれない。

越えてはいけない線を理解する

リズムの話題を続ける。

どんな手技にも、「今ならやり直しが効く」という局面が絶対にある。それが見えない奴は手技をやってはいけないし、それが見えるならば、回避不可能な事故以外は絶対に防ぐことができる。

このラインを超えるということは、そこに行く前と後とでは、リスク回避の作戦が全く異なってくるということだ。リスクに対する対策を考えられるようになるのはベテランへの最終段階だが、その前に、「どこが帰還不可能点」であるのか、見えるようにならなくてはいけない。

例えば、外科手術の場合は、消化管を切る瞬間がそうだ。切った後は術野が不潔になり、危機回避の操作がぜんぜん違ってくる。

消化管の手術は、消化管を切断することなく,すべての血管根部露出,リンパ節郭清を完成させるよう努力する。そうすれば、手術の最終局面に至るまで、「引き返せる状態」を保ったまま手術を進めることができるからだ。消化管さえ開かなければ、そのまま傷を閉じれば患者さんは手術前の状態に戻せる。一方、消化管を一度切ったら最後、その瞬間以後は傷口は「不潔な」状態として対処しなくてはならない。治療を最後まで行わないと、もはや傷を閉じられない。

PTCAをやる場合は、1回目のバルーンの拡張時が、帰還不可能点だ。この前なら、引き返せる。これをやった後は、もう絶対にワイヤーを抜いてはいけない。

帰還不可能点がどこなのかは、見ていればすぐに分かる。

それでも、ただ分かるのと、感情を共有するのとは、次元の違う話だ。帰還不可能点を超えるということは、泥沼に足を踏み出す覚悟ができたということだ。医者は基本的に臆病で、修羅場をくぐった人ほどもっと臆病になる。ここを越えるとき、慣れた人ほど「覚悟する」。術者が覚悟しているとき、助手がヘラヘラしていると、むかつく。そんな奴とは、一緒に仕事をしたくなくなる。

引き返せない恐ろしさ、先の見えないところに入っていく恐ろしさは、実際にドツボにはまらないと絶対に分からないと思うけれど、とりあえずは恐ろしそうなふりでもしてくれると、「こいつ、いい奴だな」ぐらいには思われるかもしれない。

リスクをとる場所を理解する

正しい手技が上手にできるようになって、はじめてベテランの人の手技の上手なところが見えてくる。

それと同時に、ベテランがやる治療手技や手術というのは、教科書とはしばしば異なっているのに気がつく。慣れた人の手技は、しばしば下品に見える。実際、ベテランの外科医は手術中、自嘲気味に「このやり方は下品なんだけどね…」といいながら、ちょっと無茶な手の動かし方をする。

治療手技には、教科書的な正しい手順と、リスク回避が一人で出来るようになって、初めて「正しい」といえる手順とがある。後者の手順は、ベテランが取る手順で、何らかのリスクがある代わりに、早い。

ベテランと新人との一線を画する画期的なアイデアは、リスクの考え方に求められる。

医療の現場では、速さというのは救命率に直結する。

リスクは避けなくてはいけない。それでも、ゆっくりやっていたのでは、時間の経過とともに、救命率はどんどん悪くなる。何かのリスクをとることで時間の短縮がはかれ、さらに自分の技量に照らし合わせて、そのリスクが正確に、かつ十分小さく見積もれるなら、リスクを取る価値が出てくる。リスクをとるのと、単なる無謀とは、全く違う。

実際問題、現場では常に何らかのリスクを取る選択をしている。だから医療事故が起こる。一方、「正しい」やり方をやっていたのでは、正しい治療は成功しても、患者は死ぬ。

上手い人の手技を見て、何が手抜きで、何がリスクを取っている戦略なのか。また、そのリスクを取れるためにはどんな技量を磨かなくてはならないのか、そんなことを理解できると、ベテランへの道はあと一歩だ。

そしてベテランへの道

運良く(悪く?)修羅場に立ち会うことがあったら、そこで見ておくべきものは、ベテランがどう振舞うかだ。単なる経験者と、ベテランとを分けている違いは、患者の急変時にはっきりと現れる。

予期しなかった急変が起こったとき、セミプロは頭が真っ白になり、とりあえず出来ることから片っ端から対処をはじめる。本当のベテランは、「そこで立ち止まって考える」。

戦場で立ち止まって、冷静に考えるのは非常に恐ろしいことだ。下手をすれば、弾があたって死ぬ。死ぬのはみんな怖いから、戦場ではとにかく目の前の敵に銃を撃ち、みんな戦う。弾さえ撃っていれば、きっと誰かが何とかしてくれる。そう思って無心に弾を撃つ。

とりあえず出来る細かいことを一生懸命やり、本質的な治療手段を考えることから敢えて目をそらしてしまう。「これだけ頑張ってるんだから、患者さんはきっとよくなる。」これではリスク管理ではなく、単なる信仰にしかすぎない。それでも、思考停止した主治医は、手を動かすことしか出来ない。

主治医の思考が停止したら、患者さんは死ぬ。非常にシンプルな論理なのだが、やはり急変時に冷静に行動するのは難しい。

急変の修羅場で冷静さを失わずに、あえて原点に立ち返って原因を考えられるようになるにはどうすればいいのか。あるベテランは「勇気だ」といい、別のベテランは「単に慣れの問題」とこともなげに言う。

たぶんこのあたりが初心者がベテランへと育っていくための最終局面なのだが、自分はいまだにこの壁を越えられない。10年とぼとぼ歩いてだいたいこのあたりまでは来たけれど、ここから先が分からない…。